最終話 はじめまして、おかえり

 妻の自殺未遂事件から三か月がたち、季節は春を迎えた。


あれから妻は少しずつ回復に向かっていった。


 といっても、相変わらず妻は、まるで冬眠でもしているかのように毎日たっぷりと睡眠をとり続けていた。


 眠るのがいちばん精神の回復によいのだ、と医者は言っていた。



 春分の日の休みに、私たちは少し遠出して街の楽器店へ行った。


五階建てのビル丸々一つが売り場の大きな楽器店だった。


 ピアノのフロアは三階にあった。


 妻は店内にあるピアノをひととおり見てまわって、茶色いアップライトピアノを選んだ。


 妻曰(いわ)く、かつて使っていたピアノよりも性能が良いものらしい。


 値段を店員に聞くと90万円だった。



「買ってくれるって言ったわよね」



 妻はいたずらっぽく笑った。そんなふうに笑う顔を見るのは久しぶりだった。



「買うと言ったとも」



 私は力をこめてそう言った。


事前にある程度調べてはいたが、実際に金額を聞いて私は少し怖気(おじけ)づいていた。



「弾いてみてもいいですか」


妻は店員にたずねた。


「どうぞ」


 店員は椅子を持ってきて、ピアノの前に置いた。


妻は椅子に座り、新しい感触を確かめるように鍵盤をたたき始めた。


妻はたくさんの曲を弾いた。聞いたことのある曲がいくつかあった。


 ふと、私は奥多摩での出来事を思い出した。



「あれ、弾いてみてくれないか。サティの」


「ジムノペディね。いいわよ」



 妻はそう言うとジムノペディを弾き始めた。


その音色は今まで聞いたどの演奏とも違うように感じられた。


 以前の演奏は私に深い悲しみを想起させたが、今の演奏は悲しみを懐かしむような優しさが感じられた。



 妻はもう大丈夫だ。



 私はそう思った。



  終



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妻に「殺して」と頼まれた 黄金かむい @o_gone_kamui

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