天国と天国ではなくどこでもないどこかについての一考察
折り鶴
アッシュ
僕さ〜死ぬときは自殺って決めてんねんか。ほら僕みたいな善良人間、事故とかで死んでもうたらあれよあれよ言う間にうっかり天国とか辿り着いてまいそうやろ。天国あんま興味ないねんな、暇そうやし。やからさ〜やっぱ自殺やで。自分で死ぬタイミング決めたらさ、そのさきも、自分で決められそうやんか。
いつだったか、そんなことを話していた。
恭ちゃんが──
わりとカジュアルに嘘をつく恭ちゃんだったから、あれも冗談なのだろうと思っていたのだが、いや、冗談だったらいいなって思っていたのだが、彼はあっさりとそれを決行してしまった。頸をナイフで掻っ切ったうえで飛び降りるという徹底ぶりだったらしい。スマホのスピーカーから聞こえてくる母親のヒステリックな声が、どうしようもなく不快だった。
ちょっと
そんなぎゃんぎゃんなんべんも言わんでも聞こえとんじゃボケババア、そう怒鳴りかけて怒りを自覚し、そこで俺は、ようやく俺自身のからだのコントロールを思い出す。
床にスマホを叩きつけ、踏みつける。裸足の足裏に、ディスプレイの割れる感触。もう、母親の、うるさい声は聞こえない。こんな乱暴な気持ちになったのは、久しぶりのことだった。ゴミのようなあの家から抜け出した二十歳の俺は、穏やかといえる日々を過ごしていたものだったから。
手早く着替えてヘルメットを引っ掴むと、玄関のドアを開け、跳ぶように階段を駆け下りる。定位置に止めたバイクに跨り、エンジンをかける。
悔しいことに、道のりはいまでも憶えている。
曇天のもと、俺は、生まれ育った街へとバイクを走らせる。
やたらと喪服の似合うひとだった。
大叔父の葬儀で、そういえばこの日も、湿った六月のいちにちだった。親父の車に揺られて辿り着いた蘇芳の本家は、アホのようにどでかい屋敷だった。
母は少し離れたところにいて、親父と兄貴と七歳だった俺は、だだっ広い部屋で居心地悪く無言で並んで座っていた。そこに音もなく襖を開けて、姿を現したのが恭ちゃんだった。
あ、ど〜も、お久しぶりです。
そんなのんびりとした調子でこちらに話しかけてきた二十一歳の恭ちゃんは、ずいぶん痩せていて、喪服のサイズが合っていなかった。にも関わらず、着られてる感はまったくなくて、むしろ、にこにこと笑っているのに隠しようのない廃れた雰囲気に、余った肩やちょっと皺のよったシャツなんかが異様にマッチしていて凄みがあった。
元気してました? え、僕? あ〜おかげさまでずいぶんようさせてもらってます。学業? ええ、順調ですよ。あはは、たいしたことないです。
年の離れた兄の正樹は明らかに苛立って顔を引き攣らせていた。
兄は中学受験を腹痛のため滑り、親父に殴られる勢いでというかまじで殴られながら勉強し挑んだ高校受験も第一志望には敗れ、対して恭ちゃんはといえば兄の志望校だった高校を卒業しあっさり難関の国立大に合格してめちゃめちゃ優秀で、まあだからそんな恭ちゃんに軽〜い調子でおめでとうなんて言われたらそりゃ腹立つわな、みたいな感じなのだった。
恭ちゃんは母方のいとこだった。俺の母親の、姉の子ども。恭ちゃんの親は、俺たち一家をはじめ蘇芳の家全体と折り合いがよくなかった。駆け落ち同然で家を出てて、でも恭ちゃんが十二歳かそこらのときに交通事故でふたりとも死んでしまって、それで頼れるひとがいなくなった恭ちゃんは蘇芳の家に引き戻された。当時の俺は、そんなふうに聞いていた。
あら恭一くん久しぶりねえ、なんて気味悪い猫撫で声を出しつつ母が戻ってきて、あ〜お久しぶりです〜なんて返す恭ちゃんの眼は途方もなく昏かった。
そのあとはいまいち前後の記憶がはっきりしてないが、でかい部屋で親戚一同並んで飯を食って、大人たちはぐだぐだ酒を飲みながら話していて、飽きた俺はこっそり部屋を抜け出して、薄暗い庭で紫陽花をむしっては散らすという行為に没頭していた。
「なにしてんの」
ふっと、いた場所の陰がさらに濃くなって、見上げると恭ちゃんが立っていた。
それ、おもしろい? って訊かれて即答した。おもんない。
俺の答えに、恭ちゃんは声を上げて笑った。わりとちゃんと、笑っていた。
隣にしゃがみこむと、俺とおなじように、花をむしりはじめた。ほんまやおもんないなあ、とぼやきながら。
「僕の名前、知っとる?」
「知らん」
「恭介やで〜」
ふたりそろって嘘だった。俺は親父たちに聞いていとこである彼の名前を知っていたし、恭ちゃんの名前は恭介じゃなくて恭一だった。
「ほな恭ちゃんって呼ぶわ」
俺の言葉に、きょとん、と恭ちゃんは固まった。二秒後にこらえきれないように笑って、それから急に真顔になった。
「それさあ、誰にやられたん」
花むしりに無心になっているゆえにまくれあがった俺の袖口から覗く腕には、花びらより濃い紫の痣がいくつか散っていた。
「こっちお父さん、こっち兄ちゃん」
「ふーん」
答えると、恭ちゃんはポケットをさぐって紙を取り出し、それになにかを書いてから俺に手渡した。
「これ、なに?」
「僕の電話番号」
なんかあったら電話して。退屈で死にそうなときとか。
それだけ言うと恭ちゃんは、ふらりと立ち去ってしまった。俺はもらった紙を丁寧に折りたたんで、ポケットにしまって、ひとりで再び花を散らした。
恭ちゃんに電話をかけたのはそれから二ヶ月後、暑い夏の日だった。夏休み。退屈で死にそうだったわけではない。腹が減って死にそうだった。親父は学会で数日不在で、母親は恒例行事の男漁りに出かけて帰って来ず、食費として用意されていた五万円はすべて兄が独占していたためだった。
指定された近所のイオンの駐車場に着くと、ヘルメットとスポーツドリンクを手にした恭ちゃんが俺を待っていた。
俺はおとなしくスポーツドリンクを飲まされヘルメットを被せられ、それから恭ちゃんのバイクの後ろに跨った。ヘルメットはちゃんと子ども用で、わざわざ俺のために用意されていたらしかった。
「離すなや〜」
「うん」
「フリちゃうで〜」
「わかっとるよ」
バイクを走らせ数十分で着いた恭ちゃんの家は、三階建てのマンションというかアパートの一室だった。1LDKの学生にしては広い部屋で、でも蘇芳の保護下であることを考えれば、もっといい部屋に住めるはずだった。
西陽の射すリビングのソファで眠り、起きるとカレーが用意されていたので食べた。おいしい、と伝えると、せやろスパイスから作った甲斐あったわ〜と言われたがレトルトの箱が捨てられていたのできっと嘘だった。
そんなふうにして、ときどき、俺と恭ちゃんはふたりで過ごすようになった。恭ちゃんは、ずっと、俺にやさしかった。なんでなんだろう。
「鷹のそれさあ、何色?」
「アッシュ」
「アッシュ?」
「ブルーアッシュやって」
俺は恭ちゃんからは和鷹という名前を縮めて鷹と呼ばれていた。
向かい合ってパスタを食べながらの会話だった。ブルーアッシュ。十三歳の俺は頻繁に髪を染めていた。地毛の黒髪から遠ざかる色になれば、なんでもよかった。
恭ちゃんは、ええ色やなと呟いて、そういや僕染めたことないわ、と続けた。真っ黒な髪をつまらなさそうにいじる恭ちゃんから視線を外して、俺はパスタを食べ続けた。恭ちゃんは大学を卒業して社会人になっていた。
食事を終えると、ソファで映画を観た。俺たちが過ごすのは決まって恭ちゃんの部屋で、いつも、こんな調子だった。その日、珍しかったのは、エンドロール後に恭ちゃんがスケッチブックを取り出して絵を描きはじめたことだ。恭ちゃんはたまに、絵を描いた。だいたい鉛筆でのラフスケッチだったけど、その日は水彩絵の具を引っ張り出して色をのせていた。
俺はソファから離れて、皿を洗った。自分でも意外だったが、俺は家事全般が好きだった。ちゃんとやれば、ちゃんとできるから。
しばらくしてソファに戻ると、恭ちゃんはまだ熱心に筆を走らせていた。
描かれていたのは、くすんだ青色の街だった。やさしくて眩しい光に包まれた、静かな街の絵。
自殺と天国の話をしたのも、この日だったと思う。
筆を動かしながら、恭ちゃんはちいさな声で歌っていた。ELLEGARDENの曲で、ちょっと音程が合ってなくて、でも、その歌声は心地よかった。
狭い山道を走り抜けながら、そうやって、恭ちゃんのことを思い返す。
恭ちゃんが俺の前から姿を消したのは、あの絵を描いてしばらくしてからのことで、失踪同然にいなくなった。
勤務先の蘇芳の経営する会社にも行方は知らされておらず、親戚一同大混乱だった。俺は、いなくなる直前に、恭ちゃんから一本の電話をもらっていた。
転職するねん。蘇芳の家と関わりのないとこ。
別れの言葉はなかったけど、もう、会えないことは察せられた。だから、俺も俺で、蘇芳の家から離れる準備をはじめた。寮付きの高校に進学し、親身になってくれた先生たちの協力のもと就職した。そしていまだ。
左右に吹き飛ぶ景色のなかに、俺はひとつの色を捉える。薄い青色をたたえた、控えめな野生の紫陽花。
瞬間、あの庭の、蘇芳の家の庭が蘇る。俺がちぎった、薄紫の花。さきほど電話で聞いた、母の声が頭蓋で反響する。
──恭一くんやで、あんたのいとこ!
「いとこやなくて父親やろがっ、この底辺性欲ショタコンババアがよ五億回死ねや!」
叫んだ言葉は、すぐに後方へと流れていく。これも正確ではなかった。正しくは、恭ちゃんは、俺のいとこで父親だった。当時中学生だった恭ちゃんに手を出したのが、俺の母親。蘇芳家の公然の秘密だった。
クズばっかりの蘇芳家を抜け出したはずの恭ちゃんが、なぜいまになって自死を選んだのか。俺にはそれが少しだけ、わかるような気がしていた。痛みが遅れてやってくる人間というのは、いる。斬られた、ってまずわかって、次に皮膚とその下が裂ける感覚があって、血が滲んで肌を伝って、ようやく痛みに追い付かれる。自分が、傷ついていたことを自覚する。
対向車が来たら終わりだな、と思いつつも俺はスピードを落とせない。爆速でカーブにさしかかったとき、
「あ」
気づいたときには遅かった。
目の前の道に、鳥が横たわっていた。はねられたのだろうか、ぐったりしていて動かない。
避けるには、俺はスピードを出しすぎていて、道はあまりにも狭かった。
ぶつかる、と衝撃を覚悟したそのとき、急に、あたりが、ゆっくりと、スローモーションに感じられた。
雲間からひとすじの光が射す。
その鳥は、まだ、生きていた。
弱々しくも、動く羽。
そこで俺は唐突に、ひとつの賭けを思いつく。
もし、この傷ついた鳥が、飛び立つことができたなら。
予定通りこのまま蘇芳の家へ向かおう。母親をぶん殴って、それで、その後はもう二度と、あの家とは関わらないで生きていく。
じゃあ。
こいつが横たわったままで、飛び立てなかったら?
そしたら、そのときは。
思い切りハンドルを切って、ガードレールをぶち抜いて、落ちて、ぜんぶ終わりにしてしまおう。
それで、恭ちゃんが向かったはずの、どこでもないどこかを目指そう。いつか見せてもらった絵みたいな、くすんだ青がやさしい場所。そこには、血もしがらみも、関係性もなにもない。恭ちゃんはただの恭ちゃんで、俺もまた、ただの俺だ。名前も、呼び名だって捨てていいよ。ときどき、出かけよう。映画館とかタワレコとか、そういう、他愛もないところに一緒に行こう。
その空想は、どうしようもなく甘美な誘惑に思えた。
だけれどまだ俺は生きていて、雲間からの光を浴びた道は嘘のように明るくて、眼前に横たわる鳥はいま、傷つきながらも、懸命に、羽を動かしている。
そして、次の瞬間、一枚の羽が俺をかすめ、俺だけが残された細い道で、俺は、止めていた息を吐き出す。
天国と天国ではなくどこでもないどこかについての一考察 折り鶴 @mizuuminoue
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