光暈

百歳

アンダー・ザ・シルバーレイク

 はじめて絹彦がやってきたのは三ヶ月くらい前のことで、四十九日がすぎてもいまだにくる。たいてい日が沈んでからほたほたやってきて、明け方には去ってゆく。三日連続のときもあれば、一週間ぱったりと姿を見せないこともある。十日あいたことはない。絹彦はおれが帰るより先に部屋にいるときすらあって、長い坂の下からでもきているのがすぐわかる。カーテンの隙間から淡い光が漏れているのだ。絹彦はたいてい床に座りこんで窓から外を眺めている。たまに壁にもたれかかったりも、する。おれが知るかぎり生前から行儀がよかったので、床に寝そべったり勝手にベッドを使ったりもしない。すくなくともおれがいる間は。

 絹彦はしゃべれないみたいだったが、話しかければうなずいたり笑い返してくれる。もともと口数が多いやつじゃなかったから、やわらかく発光していなかったら亡くなったなんて信じられないくらいだ。足だってある。絹彦はいつだって同じティーシャツを着ている。ギズモがプリントされてる首元の緩くなったやつ。グレムリンがすきだといつかの飲み会で絹彦はいっていた。寒くねえの。おれが訊くと絹彦は首を横にふって困ったように笑った。

 絹彦がいる夜は映画を流すことにしている。そのときばかりは絹彦も窓に向かうのをやめて、テレビの画面をじっとみつめた。灯りを落とした部屋のなかで絹彦はものすごく画面に集中していて、盗み見ているおれの視線なんてまったく気づく様子もなかった。横顔が青白く発光していても、画面のなかでなにかが動くたび、絹彦の黒目の濡れたところでちいさな光が揺れているのがわかった。絹彦はよく笑ったが決して泣かなかった。

 映画が終わって夜が更けてくると絹彦はおもむろに立ち上がり、ほたほた玄関へ歩いてゆく。おつかれ、おれは声をかけるだけであとを追ったりはしない。絹彦はもう扉をあけたり閉めたりする必要がないみたいで、金属の擦れるドアの音を立てなくても部屋から出てゆける。うちへくるようになったばかりの頃、壁に寄りかったり扉をすり抜けたり、どうやって使いわけているのか尋ねたことがあった。なんなら見せてほしいともいった。絹彦はめずらしくいやそうな表情を浮かべた。や、無神経だった、ごめん。おれがすぐに謝ったら絹彦はうなずいて応えた。なので実際にすり抜けるところをおれは見たことがない。でも絹彦が出てゆくとすぐわかる。部屋がすこしだけ暗くなるのだ。発光しているからすぐわかる。


 友人たちにそれとなく訊いてみたものの、絹彦がくるのはおれのところだけみたいだった。現れるなら菅原さん、あるいは春介のところが道理だろうと思っていたし、それこそ菅原さんなんか「ひとめでいいから絹くんに会いたい、しゃべりたい」なんて葬儀のときも泣き続けていたから、彼女よりもおれが選ばれたことにほの暗い喜びさえ湧いた。もしかしたら絹彦はおれの気持ちを察していて、応えるかたちで現れてくれたのかもなんて都合のいいことを思ってみたりもする。

 でもおれたちは共通の友人を介したなんらかの会で顔を合わせたら映画の話をする程度で、ふたりだけで飲みにいったこともないし映画館に出かけることもないし、生前におれのアパートを訪れたことだってもちろんなかった。だから夜な夜なやってくる絹彦はおれの頭が生み出した妄想かもしれなくて、どうにか否定したかった。理由がほしかった。アンダー・ザ・シルバーレイク。あの事故の直前、あの酒席のなかでアンダー・ザ・シルバーレイクを観ていたのはおれだけで、会話が終わる前に飲み会はおひらきになって、別れる直前まで横並びでしゃべって、本当はどこか居酒屋で朝までいきたかったけど家に菅原さんがいるから帰らなきゃいけないからって十字路のところで別れて、だから、ギズモのティーシャツを着た絹彦と最期に話したのもおれだった。

 絹彦はめずらしく熱心に語ってくれたけど正直おれにはよくわからなくて、盛り上がりの薄い喉仏が動くさまを眺めていた。おれの部屋で一緒にアンダー・ザ・シルバーレイクを観たらあのときとおなじようにしゃべってくれるのか、それとも満足していなくなってしまうのかわからなくて、観ていない。うそ。本当は大学にいっているあいだにひとりで観た。やっぱりよくわからなかった。

 絹彦はおれが流す映画のチョイスに不満そうな態度をとったことはない。どんな作品であれ、部屋を暗くして映画が流しはじめると窓から視線をはずして画面をみつめる。モーリスも覇王別姫もブロークバック・マウンテンも。なあどうしておれんとこなの。尋ねてみても絹彦あいまいに笑って窓の外に視線を戻した。おれの部屋からは細長く横たわった川が見える。


 三日ぶりにやってきた絹彦と観るためにスクロールをしていたら関連作品の欄にアンダー・ザ・シルバーレイクがあがってきてしまって、あっ、と思ったときには絹彦がこちらを見ているのがわかった。そんな態度をとられたのがはじめてで、絹彦と視線をぶつけると目を細めていた。笑っているようにも見えたし、いまにも泣いてしまいそうにも見えた。これにするか。おれの問いに絹彦は大きくうなずく。灯りを落として暗い液晶に向かって並ぶけど、おれは最後までほとんど画面を見なかった。

 映画が終わっても絹彦はこれまでとなにも変わらなかった。唾を飛ばしながら内容について熱く語ることもなかった。

「もうこない?」

 絹彦はうなずきしなかったし、首を横にもふらなかった。

 しばらくして絹彦が立ち上がったタイミングで「あのさあ、ついていっていい?」とおれはいった。絹彦は驚いた顔でこちらを見下ろす。まっすぐに絹彦の瞳をみつめていたら、目を伏せてちいさくうなずいた。おれはコートをはおりマフラーをぐるぐる巻いて、廊下が薄暗くなるのをじっと待った。


 丑三つ時だったが絹彦のおかげで歩きやすかった。街灯のない場所であっても、絹彦の青白い光があたりをやわらかく照らした。おれたちは運河べりをゆっくり歩いた。 大きな河をすべる風が思ったより冷たくてマフラーに顔をうずめ、そのときようやく絹彦が靴を履いていないことに気づく。十月の終わりだというのにあの夜はずいぶん暑かったから、絹彦は脱いだジャケットを脇に抱えていた。彼のスニーカーは地面と強くぶつかった衝撃で遠く投げ飛ばされていたらしい。聞いたのは葬儀のときだった。

 途中で何人もすれ違ったけれど、発光している絹彦には、誰も気がつかなかった。本当に見えないんだ。何人めかのとき、つい口から出てしまって、とっさに絹彦を見ると絹彦は肩をすくめてみせた。

 手を握ってみたらどうなるんだろう。とつぜん浮かんできてポケットにつっこんだ手を引き抜こうするけれど、本当にさわれてしまったらいよいよ境目がわからなくなるし、本当にさわれなかったらものすごく悲しい。おれはポケットのうちで握りこぶしをつくり、気持ちが通りすぎるのを待った。

 もしかしたらアンダー・ザ・シルバーレイクみたいにメッセージ秘められていたり、隠されていた陰謀を知らせるために絹彦はおれのところに現れたのかもしれない。そう思うようにしていたけれど、絹彦はちいさな橋のまんなかで立ち止まった。橋の向こうに橋があり、さらに奥にも橋があった。河口に向って橋の輪郭がぼやけ、その下を川が黒く粘りながら続いていた。絹彦は欄干に身体をあずけて河口をじっとみつめていた。ふたたび歩きはじめる気配はなかった。ここが目的地なのかもしれない。おれも真似をしてみる。しずかだった。

 そのうち朝が近づいてくると、橋のずっとずっと向こう、ほんのすこしの隙間だけ海が浮かんでくる。厚ぼったい海面が徐々に白んで、うっすらと一本の光の筋が伸びる。

「結局どうやって使いわけてんだよ」

 絹彦はこちらを見てゆっくりとほほ笑み、応えるようにおれも笑った。そうしてまばたきをした間に絹彦はきれいさっぱり消えてしまう。アパートに帰ってカーテンをあけたまま数日すごすけれどやっぱり絹彦はやってこなくて、十日が経ったときにようやく終わりを悟る。玄関のドアをあけると必ず金属の擦れる音がする。

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光暈 百歳 @momo_tose

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