便利になるほど不便になる

雲隠凶之進

便利になるほど不便になる


 私は執筆にSurfaceを使っている。

 これはタブレットPCである。カバー兼キーボードをつければノートPCに早変わり、ラップトップよりも薄型で携行性が高い。膝の上に乗せるのはちょっと不安定だが、別に電車の中でまでPCを引っ張りださなければいけないほど日常の業務に追われていないので問題ない。

 さて、そんなSurfaceだが、先日会社のバイト大学生とこんな話になった。


「それ、オレも同じの使ってるんですけど」

「いいよね、Surface」

「それってネット繋がなくても使えるんですか?」


 この子は何を言っているんだろう。

 ネットに繋がないと使えないのはchromebookでしょう、とかそんな話をしていると、彼は「これです」と件のPCを取り出した。

 なるほど、これはSurfaceに間違いない。起動してみてもやはりwin11だし、中身が入れ替わっているわけでもないようだ。


 詳しく話を聞いてみると、手書き機能を聞きたかったようなのだ。Surfaceにはタッチペンで色々書ける「ホワイトボード」というソフト(アプリ?)が入っていて、私のでも純正のタッチペンの尻をノックするだけで起動できるようになっていた。

 確かにこのホワイトボード、ネットに繋がないと起動してもボードが出てこない。


「ホワイトボードね。あれはネット繋がないと使えないよ」

「えー」

「代わりにMSペイント使えばいいよ。スタンドアロンでも使えるし」

「すたんどあろん……? ぺいんと……?」


 ISDN時代の諸兄は驚くかもしれない。現代の大学生はスタンドアロンを知らないのだ!



 勘違いしないで貰いたいのは、私は別に「最近の若ぇのはモノを知らん」とか言うつもりではないことだ。

 彼らが「スタンドアロン」なる概念を知らないのも無理はない。物心つくころにはもうどの家庭にも光ファイバー回線が行き渡り、携帯端末の回線速度は20年で10倍以上になっている。「ブロードバンド」なんて単語を今日日聞かないのは、回線とはすなわちブロードバンドであり、どこにでもありふれたものになったからだ。カフェでも電車でもみんなスマホで時間潰しをし、電子書籍にキャッシュレス決済、インターネットは日常から切り離せなくなっている。今やスタンドアロンなデバイスのほうが珍しいのだ。


 話を戻そう。

 この「ホワイトボード」なのだが、ネットに繋がっていないとろくに使えないことを私が知ったのは、自前のSurfaceを自分好みに調教し倒して2日目くらいのことだったと思う。最初は表示されないボードに「なんじゃこりゃ」と思ったが、ネット回線必須だと知り「ああ、なるほど。ネットを通じて近くの端末と画像共有させたいのね」とソフトの真意を私なりに推し量り、以降はMSペイントを使うことにした。


 おわかりいただけただろうか。

 そう。このホワイトボード、最初に使うときに「ネット回線前提ですよ」と教えてくれないのだ!



 ワンタッチで起動できて、特にヘルプを読まなくても直感的に操作できる。それはデバイスとしてとても尊いことだ。その昔はPCとは起動手順がどうとか終了手順がどうだとか、ソフトの関連付けだのフリーズしたらどうするかだの説明書片手に進めることが多かった。当時に比べれば、電源ボタンを押すだけで起動できて押すだけで休止状態になってくれる現代のパソコンは格段に進化している。


 だが一方で、「説明されなくても使える」はずが「必要なことを説明してくれない」になっていることがあるのだ。便利にしようとしたはずが、返って不便になっている。

 思えば、私がSurfaceを選んだのもこの「不便な便利さ」が原因だ。メーカー製のPCを買うとゴテ盛りについてくる謎のユーティリティソフトの数々……。「らくらくネット接続」って何だよ! もともと設定機能はOSでサポートされてるだろ! 「らくらく」とかいう割に結局パスワードにポート設定に面倒臭えじゃねーかよえぇッ!

 ……そんなわけで私はSurfaceを使っている。購入時はほぼまっさらで、必要な機能は必要な時に追加できる。いらない機能がないことに不便さを感じたことはない。



 今のはPCの例だが、最近この「不便な便利さ」が増えたように感じる。

 こういった「不便な便利さ」が生まれてしまうのは何故だろうか。理由としては二つ考えられる。「ある人への便利が、ある人には不便である」か、「そもそも考えた便利さのピントがズレている」かだ。

 電車の行き先ハングル表示などは前者の例になるだろう。韓国からの観光客にとっては母国語表記があったほうが便利だが、大半の日本人はローマ字は当然、中国語の繁体字なら読めるだろうが、ハングルは読めない。

 車内の液晶表示でハングルが表示されている間、それが読めない人は表示を読むことができない不便を被ることになる。そもそも、現地語も英語も分からないけどガイドなしに海外旅行したい!なんて狂気の沙汰だと思うのだが、そんなファンキー観光客に配慮する必要があるのだろうかといつも思っている。


 スマホを弄っていても、なんのホットスポットだか分からないボタンを目にすることは多い。これは後者の例に挙げられるだろう。

 言語に頼らない、識別性の高いピクトグラムにした結果、何を表している図形なのか意味不明になってしまっているのだ。PCならカーソルオーバーで説明が出たりもするが、スマホだと「押してみないと何のボタンか分からない」のが普通だ。

 スマホはドロンボーメカじゃないんだぞ。自爆ボタンだったらどうする!


 先ほど、現代のパソコンは格段に「進化」していると述べた。

 進化、という言葉は良い意味のみを含まないことに注意が必要である。ダーウィンは「進化論」で自然選択(≒適者生存)を唱えたが、現代の科学はダーウィンの言説を全面的に支持していない。進化とはいつも生存に対して中立的に起こるものであり、その中で淘汰圧に打ち勝ったものが生存していく、というのが現代科学の主流である。


 現代科学のいうところの「進化」に照らせば、「不便な便利さ」は正しく進化の結果であると考えられるだろう。さまざまな試行錯誤の中で、便利さも不便さも変化していく。「ある人には便利である人には不便」というのは、環境に適応した結果他の生態系では生きていけない体を持つに至った生物の話と似ているし、「ピントがズレている」のは中立説と近い説明ができるだろう。


 デバイスは進化している。だがそれは必ずしもプラスの結果を生むとは限らない。不便な便利さも、ある程度は許容していかなければいけないものなのだ。

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