甘やかな花に酔う

宵宮祀花

枳殻の花

 農家の一人娘、妙子には二十五になる兄がいた。

 年が十も離れている上に、妙子は末の妹であったから、幼少から随分可愛がられていた。壮健を絵に描いたような妙子と違い、兄の藤吉は線の細い青年で、父はなんであんな軟弱者になっちまったんだかとしょっちゅうぼやいていたが、妙子はその度に「兄さんはあたしに元気を取っといてくれたんだよ」と父を諫めた。

 生まれついた体のことなんてどうしようもないのに、たまたま元気に生まれたのを誇るだけならまだしも、そう生まれなかったもんを腐したところで元気になるわけでなし。なにより藤吉はとても頭がいい。人の心の機微に敏感で、優しい気性の男だ。妙子が珍しく落ち込んでいれば、いつも真っ先に気付くのが藤吉だった。父なんか、天変地異の前触れだと笑って馬鹿にするだけなのに。

 妙子にとって藤吉は自慢の兄で、そんな兄に縁談が舞い込んだときは何とも複雑な気持ちになったものであった。相手が集落の中でも一等立派なお屋敷に住む豪商の、蝶よ花よと育てられた末の娘だというのだから、尚更。

 けれどその複雑な気持ちは、縁談相手に会った途端に吹き飛んだ。


「初めまして。妙子ちゃんっていうのね。いいお名前だわ。わたしは華といいます。どうぞよろしくね」


 色の白い、美人画のような女性だった。

 鈴を転がすような声も、紅を差したような唇も、綺麗な黒髪も、野山を駆け回って育った妙子にはないものばかり。そしてそんな彼女が藤吉と並ぶと、まるで都にある活動写真の中でしか見ないような、役者さんのようだった。そしてとびきりの美人でお金持ちのお嬢様でもあるのに、華はちっともそのことを自慢したりはしなかった。家柄を思えば藤吉が婿入りしてもいいくらいなのだが、華は「藤吉さんは農家さんのご長男なのだから」と嫁入りを望んだという。そんな謙虚なところも好ましかった。

 あんな綺麗で優しい人がお姉さんになってくれたらどんなにか素敵だろう。

 いつの間にか妙子は、当の兄よりも華の嫁入りを楽しみにしていた。山賊のお頭のようだと友人から揶揄されるほど荒っぽい父でさえ、彼女には一丁前に気遣いらしきものをしてみせるほどであった。

 だが、藤吉も家族も歓迎している婚姻を、唯一喜ばない者がいた。妙子の幼馴染、加代だ。妙子より五ヶ月ほど先に生まれただけでお姉さん風を吹かせては、どれほど自分が藤吉に相応しいかを常々語っている少女である。加代の家は庄屋であり、所詮村の中だけといえども一番のお嬢様だということも、彼女の我儘を加速させていた。村の収入を支えている豪商の華の家とはまた違った権力者であり、だからこそ加代は自画自賛してでも自分を一番に置こうとするのだ。

 今日も加代は、野辺を散策しながら自分で自分を褒めちぎっていた。

 加代に華を会わせたらきっと悪く言われるだろうと思って黙っていたが、しつこく兄に付き纏う加代が婚約者の存在を知るのは時間の問題であった。

 遠目に藤吉と並び立つ華を見た加代は、大袈裟に溜息を吐いて眉を顰めた。


「あーあ。藤吉さんの婚約者だっていうからどんな素晴らしい人かと思えば、なによあの枯れ木みたいなみっともない女。顔は綺麗かも知れないけどそれだけじゃない。そんなら人形でも飾って置いたらいいんだわ。藤吉さんと並ぶのに、あんな安っぽい女、全然相応しくないわ」


 妙子はずっと、加代が苦手だった。

 だがこの一言で、加代のことが大嫌いになった。


「お華姉さんは誰かのことそんなふうに悪く言ったりしない。加代ちゃんはいっつも自分のことばかりじゃない。そんな人が兄さんを支えられるわけない」

「なんですって!? たまたま藤吉さんの妹に産まれただけの分際で、偉そうに! そうじゃなかったら粗忽者なあんたなんか一生藤吉さんに近づけやしなかったわ! 訂正しなさいよ! あたしが悪かったですって頭を下げなさい!」

「絶対に嫌! 加代ちゃんは兄さんが好きなんじゃない、みんなの自慢になるような人と結婚して、見せびらかしたいだけなんでしょう!」


 妙子がそう叫ぶと、加代はカッと顔を赤くして右手を振り上げた。


「うるさいっ!!」


 乾いた音が辺りに響いた。

 思い切り頬を打たれた妙子は、目に涙を溜めながら加代をにらみつけた。


「我儘で自分勝手な暴力女! 加代ちゃんなんか兄さんどころかどんな男の人だって相応しくない! もう兄さんに付き纏わないで! 迷惑なの!!」


 加代をその場に置き去りにして、妙子は家へと駆け込んだ。

 叩かれた頬が痛んだが、それ以上に華への暴言が妙子の胸に突き刺さっていた。

 お人形で代わりになるような顔だけの女だなんて。なにをどう見たらそんなふうに思えるのか。


「妙ちゃん……? どうしたの?」


 蹲って泣いていたら鈴の音の声がして、妙子は飛び跳ねるように体を起こした。

 ただいまも言わず駆け込んできたものだから心配して、華が様子を見に来たのだ。


「……何でもない」

「そう……? でも、痛そうだわ。いま冷やすものを持ってくるわね」


 妙子の涙ぐんだ目元と赤く腫れた頬を心配そうに見てから、華は膝を半分ずらして立ち上がり、台所へと去って行った。入れ違いに藤吉が入ってきて、妙子の顔を見てギョッとした顔になる。


「妙、おまえ、その顔どうしたんだい」

「何でもないよ」

「そんなに腫らして、何でもないわけがあるものか。おまえがわけもなく殴り合いをする道理もないだろう」

「殴り合いなんてしてないよ。あたしは一度も手出しなんかしてないんだから」

「そうだろうとも。だからこそ心配なんだ。なにをしたらそんなことになるんだい」


 重ねて問われた妙子は、ムッとした顔を藤吉に向けた。


「なあに、兄さん。あたしが殴られるような悪いことをしたって言うの」

「違う。おれは妙が殴られても仕方ないような子だなんて思っちゃいない。ただね、おまえはどうも物言いが真っ直ぐ過ぎるから、意気地の強い人にとっては毒になってしまうこともあるだろうって心配なのさ」


 藤吉の言葉を反芻して、妙子は得心がいった顔になった。

 よもやあの言い合いを聞いていただなんてことはないだろうが、妙子が不機嫌面をして帰ってくるときはだいたい加代が絡んでいる。だから今回も加代が藤吉のことをどうにか言って、言い返したんだろうと当たりを付けたのだ。


「当たっていたかな」

「そう思うなら放っといてよ。兄さんに話せるわけがないんだから」

「わかっているよ。でも、いくら何でもいままで殴られたことはなかっただろう?」

「……いままでは兄さんだけだったからだよ」


 そう。いままでは、藤吉が如何に女子の目を集めているか、彼を射止めたら女子のあいだでどれほど自慢になるか、どんなに良い人かを褒める合間に自慢話を挟む程度だった。だが今回は違った。優しくて綺麗な婚約者を悪し様に罵ったのだ。人形でも置いておけなどと、とんでもないことだ。華はただ美人なだけじゃない。働き者で、あの白い綺麗な手が赤くなるのも構わず水仕事だって進んでしているのだ。そうまで言われて、いつものようにはいはいと聞き流せるほど、妙子は温厚ではなかった。

 遠巻きな言い方だが、聡い藤吉はすぐに華が絡んだのだと察した。そして哀しげな顔になると、妙子を抱きしめて幼い頃してやったように背中を撫でてあやした。


「もう、そんな子供じゃないったら」

「そうだね。妙も随分と大きくなった。独り立ちも嫁入りも出来る年頃だ」

「ふん。あたしみたいな山育ちの女に今更もらい手なんかあるもんか。どうせなら、裏山の熊とでも結婚してやろうかしら」


 ふてくされてそう言うと、部屋の襖が開く気配がした。


「あら、お水を持ってきたのだけれど、お邪魔になってしまったかしら」

「お華姉さん。ありがとう」


 妙子は藤吉を押しのけて、華に笑いかけた。

 頬が熱くて痛いけれど、それも吹き飛ぶ心地だった。


「はい、どうぞ。新しいのを降ろしたから、安心して頂戴ね」

「えっ」


 角に桜の絵がついたやわらかい手拭いを絞って渡され、妙子は華の顔と手拭いとを交互に見た。綺麗なのは良く洗濯されているからかと思えば、わざわざ新品を出してくれたなんて。


「あたしなんかのために、わざわざ? お古で十分なのに」

「まあ。大事な未来の妹のためよ。これくらいさせて頂戴」


 華は優しく微笑みかけ、妙子の手を取って赤い頬に絞った手拭いを当てた。冷水に晒した手拭いは冷たいのに華の手が温かくて、触れているところから熱が出そうで、妙子はいたたまれなくなって俯いた。


「可哀想な妙ちゃん……傷が痛むのね」

「ううん、へいき。お華姉さんが冷やしてくれたから、全然へいきだよ」


 強がって言う妙子の体が、やわらかく温かい腕に包まれた。藤吉とは全く違う女のやわらかさと甘やかな香りに、目が眩む心地がした。


「妙ちゃんはじきわたしの妹になるのだもの、困っていることは相談してほしいわ。信頼してもらえるように、わたしもがんばるから……ね?」

「お華姉さん……」


 妙子は暫く迷って、悩んで、それから怖ず怖ずと口を開いた。気を利かせた藤吉が部屋を出ていたのもあって、少しくらいは話す気になれたのだ。

 幼馴染の加代のこと。彼女が藤吉に片想いしていること。藤吉は華一筋だから全然心配いらないのだが、加代は気が強く我儘で自分の思い通りにならないことがあると癇癪を起こす性格なため、いつか華にまで手を上げそうで怖くて仕方ないこと。

 最初は、加代とちょっと喧嘩しただけだと、本当にそれだけ言うつもりであった。しかし華の優しい温もりと穏やかな相槌に、気付けば堰を切ったように話していた。本当は妙子自身も、誰かに吐き出してしまいたかったのかも知れない。加代に対する不満は、数え切れないほどあるのだから。


「そう……その子が妙ちゃんを傷つけたの……わたしを庇ったばかりに頬を打たれてしまったのね……」

「お華姉さんのせいじゃないよ。あたしが上手く言えなかったから」

「ううん。間違っているお友達を窘めただけだもの、殴られる謂われなんてないわ。そうでしょう? 妙ちゃんは何にも悪くないのよ」

「……うん。ありがとう」


 自分のしたことは間違っていない。

 他ならぬ華にそう認めてもらえて、妙子は胸が透く思いだった。


「でもね、藤吉さんは妙ちゃんの言う通りわたしのことをとっても大切にしてくれているわ。だから他の人にどう言われてもへいきなの。それに、わたしには妙ちゃんもいるもの。妙ちゃんがわたしの味方でいてくれるなら、怖いものなんてないわ」

「うん……」


 頷いたまま俯いている妙子の髪を撫で、華は努めて声を明るくした。


「そうだわ。ねえ妙ちゃん、今日はわたしと一緒に寝ましょう? わたし、年の近い姉妹がいなくて、抑も末っ子だったから、妹と一緒に眠るのが夢だったの」

「えっ、いいの?」

「勿論。嫌なことは誘ったりしないわ。妙ちゃんが嫌じゃないならお願いしたいわ。どう?」

「じゃあ……よろしくお願いします……?」

「ふふっ、此方こそ」


 可憐に微笑む華の美しい顔を間近で見つめ、妙子は頬が熱くなるのを誤魔化そうとまた俯いた。

 その日は華と一つの布団に枕を並べて眠り、妙子は藤吉に大層羨ましがられた。

 いくら婚約者とはいえどまだ結婚したわけではないのだから、男女が一つの布団で眠るわけにはいかない。わかってはいるが、少しばかり妬いてしまうと藤吉が何処か冗談めかして言った。

 心からの悋気でないとわかっているからこそ、妙子も「結婚したらずっと兄さんが独り占めすることになるんじゃない」と軽口を返すことが出来た。


 華は彼女の家から藤吉の元へ通っている。

 互いの家自体は然程離れておらず、女の足でも通える距離にある。嫁入り修行とは名ばかりの、通いの逢瀬だ。

 間もなく式の日が迫っているという頃になって、本格的に居を移すべく華の部屋を作っていた、ある日のこと。


「きゃああああっ!!」


 甲高い悲鳴が響いて、妙子は家を飛び出した。

 訊いたこともない切羽詰まった声だったが、間違いなく華の声だった。


「お華姉さん!!」


 声のしたところへ駆けつけると、其処には腹から血を流して倒れている華と、傍で小刀を手に立ち尽くす加代がいた。


「誰か! 誰かお医者様を! 加代がお華姉さんを刺したの!」

「ち、ちが……あ、あた、あたし…………」


 加代は青白い顔で後退り、足をもつれさせてその場に尻餅をついた。

 すぐさま駆けつけた男衆に担架へと乗せられ、華は医者の元へと運ばれていった。そして加代は、別の男衆に取り押さえられ、そのまま警察へと連行された。最後まで加代は「あたしじゃない、あたしは悪くない」と呟いており、集まって来た野次馬に白い目で見られていた。


 狭い集落ではあっという間に噂が広がる。

 加代は普段から自分こそが藤吉に相応しいと豪語していた。そして妙子が殴られたあの瞬間も、野良仕事をしていた人に見られていた。そのとき加代がなにを言って、妙子がなにを返したかも。兄の婚約者を悪し様に言われて庇った妙子が、癇癪持ちの加代に殴られた。加代はすぐカッとなって手が出る女だと知られていた。そんな女が憎い相手と出会ってしまったら、殺そうとするくらいはやりかねない。華さえ死ねば自分が藤吉と結婚出来ると思い込んでも仕方ない。そう、囁かれた。

 加代の味方は何処にもいなかった。いままで彼女に従っていた取り巻きも、彼女の家柄目当てでゴマすりをしていた男の子たちも、果てには加代の親でさえ「どうやら甘やかしすぎたようだ」と、加代を見放した。

 医者の元で適切な治療を受けた華は、無事一命を取り留めた。大きな後遺症などもなく、傷痕は若いから時間をかければ消えるだろうとのことだった。

 華の両親は傷物の娘ではなく別の娘をと申し出たが、藤吉が断った。あなたの家の娘なら誰でもいいわけではない、華だからこそ共に生きたいと思えたのだと伝えて、怪我の治癒を待って予定通り式を挙げると言い切った。


「お華姉さん……ごめんなさい」

「まあ、どうして妙ちゃんが謝るの?」


 退院した華が家を訪ねて来るなり、妙子は華に頭を下げた。

 上手く言葉に出来ないが、加代が暴走したのは自分が煽ったせいもあるのではと、そう思えてならなかったのだ。


「いいのよ。妙ちゃんは何にも悪いことなんてしていないのだから。それより可愛いお顔をわたしに見せて頂戴」


 白い手が伸びてきて、妙子の頬に触れる。

 そっと仰のかされる。美しい華の顔が、間近にある。


「やっと目が合ったわね。わたし、妙ちゃんの真っ直ぐな瞳が好きよ」

「う……そんなふうに褒められたことないから、むず痒いよ……」

「ふふ。それなら、これからたくさんわたしが褒めてあげるわね。妙ちゃんの可愛いところならいくらでも言えるのよ、わたし」

「お、お手柔らかにお願いします……ていうか、そういうのは兄さんとしてよ」

「うふふ。勿論、藤吉さんのこともたくさん褒めるわよ。だって、可愛い妙ちゃんの大事なお兄さんですものね」


 妙子は一瞬違和感を覚えたが、頬に振れたやわらかな唇の感触に全てが霧散した。

 うっとりと微笑む華の、白い顔は変わらず美しい。

 桜色の頬も、紅を差したような唇も、絹のような髪も、夜空のような瞳も。

 吐息の交ざる距離で、妙子を見つめている。


「もうすぐお式ね。そうしたら妙ちゃんは、わたしの妹になるのよね。楽しみだわ。妙ちゃんが見とれてしまうくらい綺麗な花嫁さんにならなくちゃ」

「うん。あたしも楽しみ。実は姉さんが一人いたらしいんだけど、あたしが産まれる前に胸を患って死んじゃったらしくてさ。あたしだけ会えてないんだ」

「そうなの……それは寂しかったわね。でも、これからはわたしが一緒よ。ずっと、妙ちゃんがお姉さんとしてみたかったことを、全部全部わたしとしましょうね」


 妙子が頷くと、華は花のかんばせをほころばせた。

 しっとりと抱きしめる華の細腕から、白い首筋から、甘い香りがした。


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