井上ハル

 赤い釣り竿が、天井に光をともしていた。


 眠たげな瞼を擦り、陽光で焼かれたペンを握りしめて、ついさっきまで舟を漕いでいた少年はひとり息をついた。

 じくじくと汗ばんだシャツに、デス・メタルのファンすら迷惑がるセミの大合唱。そしてその隙間を縫うように退屈を誘う、ひときわ大きな男性の声。

 この声に新鮮さを感じていたのはいつまでだっただろう。慣れたかそれとも睡眠不足か――、船が水をかき分けるようにして、冗長で難解な言葉ひとつひとつが櫂となって、少年の船を前へ前へと、古い記憶をとりとめもなく引き出しながら押し出していく。


 放っておけば大海原へと飛び出して、目の前の教鞭を執る男性にひっくり返されていたことだろう。今隣でいびきをかきながら寝ているサボり魔が席替え初日に"三列目はバレやすいんだ"だなんて嘆いていたのは彼の記憶に新しい。そうであってもお前は寝るだろ、と呆れたのも。少年が彼と同じ結末にならなかったのは、奇しくも""――引き出された遠くの記憶それそのものが、先生よりも先に彼の船を転覆させたからだった。少年――久遠くおん とおるは、どうにも実感の湧かない一学期終わりの日に、言い現わすことのできない退屈を抱えていた。


 ―――――


 遠く遠く、昔の話だった。お粗末なフォトショップの加工のように背景がセピアに染まり、しかしそれより鮮烈な碧の記憶。


 数と漢字と、そしてアルファベットが読めるようになった年頃になって、ようやく徹は海を見たいという気持ちにさいなまれた。涼やかなクーラーでゆっくりと本を読むか、じくと肌を焼く太陽に焼かれつつも憧れを目にするか。見慣れた部屋の壁とのにらめっこにも飽きてお気に入りのスコップを握り、自転車に腰を下ろすことを選ぶのは、そう時間のかかることではなかった。

 薄灰のコンクリートの上を過ぎ、邪魔の隙間をかいくぐる。がらんとした平日昼間の道路をにぎやかすのは、いつだって虫と小動物だった。まことうるさいそれを避け、玉のような汗を使って道路に芸術を描いていく。

 右、左。右、左。揺れる体と自転車ふたつで炎天下を駆け十数分、町に立ち込めた潮風の出所に初めて立ち会った。

 ただ――


「……思ってた海と違う」


 初めての海には、砂浜がなかった。代わりに木材に縁どられた大きな生け簀があった。

 初めての海には、水着を着ている人がいなかった。代わりに恰幅の良いおじさんがひとりでオレンジ色の分厚いライフベストをつけていた。

 初めての海は、自然とは程遠かった。


 イマドキ"海水浴場"と"釣り堀"を間違える子供なんているんだという視線にさいなまれながらも、ここまでにかけた苦労と少々の――こんなところに一人でいるオレカッケー、というロクでもないプライドがのどに引っ掛かり、スコップを振り回しながらふらふらとそこらを歩いていた。飛び出た木の板――もちろん趣味人が釣りをするための生け簀を囲んでいるものだ――の先の海を覗いてみて、水の裏に見えた水草を引っ張ってみようと屈みこんだところで、


「あ」


 ぽちゃん、と音を立てて、大きな水しぶきが上がった。


 ***

『音は時を象徴する。チャイムがそうだ。ゲームのBGMがそうだ。音が変われば、言いたいことが変わったサインになる。だから、ほかのだれが気にしないとしてもおまえだけは、の変化にだけは気づかなくちゃダメだ』


 音楽家である徹の父は常日頃から言い聞かせるようにこう呟いていた。夕焼けを見ながら、あるいは朝刊を読みながら。かちりと鳴るレコードの針の音と、そこから奏でられる重厚で繊細なクラシックの煙で充満した部屋の隙間を縫うように、その言葉は優しく響いていた。


 じゃあ、と息を詰める。ごぷりと吐き出される白い泡と魚が驚く声を聴いて、恐ろしくなるほどに冴えた頭で考えを巡らせる。


(じゃあ、この重苦しくて涼やかなここは、何を言おうとしてるんだろう)


 水の流れが耳を打つ。

 魚の声が耳を打つ。

 自分の脈動が耳を打つ。


 命の危険というよりも、わずかな時間の小旅行を敢行しているような気がして、どうにも焦りを覚えなかった。ただ、海の向こうにある音を求めて、それができないことに言いようのない悲しみを覚えて、水中であるのに泣いた。淡い蒼から覗く太陽と詰めた海の手触りが、水中で得た二番目に覚えている記憶である。

 一番は、太陽の日差しを覆う人の顔と、白くて細くてすらりと長い、海より冷たい人の指と。"かわいそう"、という涼やかな女の人の声だった。

 お気に入りのスコップはどうやら沈んでしまったようで、もう見つからなかった。


 ***





 ――――――


(誰だったんだろ、あの人)


 幼かった彼は引っ越して小中学を卒業し、高校に入学してさらに一年の時間が経った。仔細まで覚えているほうがオカシイと言わざるを得ないが、そうであっても助けてくれた人の顔は覚えていたかったと、徹は人生何百回目かの後悔をした。暖かい暖炉と苦いココアの味ははっきりと覚えているのに、それは忘れてしまうのかと。


 忘れたままでいるというのは、パズルの1ピースを欠けたまま放置することと同じような気がしてむず痒い。

 徹が好きでもない泳ぎの練習もしているのも、こうしてぼうっと考え込んでしまうのも、ひとえに彼女を見つけて、その1ピースを埋めるためであった。


 そうやって思索を巡らせていると、唐突に終業式終わり、と男性が声を響かせた。そうだ、特別日程だからチャイムが鳴らないんだと少し驚き、若干の寂しさを覚えると同時に、これから訪れるわくわくに心を驚かせずにはいられない。

 背中に挿した赤い釣り竿が揺れる。三〇センチほど飛び出したそれを周りの壁や人にぶつけてしまわないように気を付けながらカバンを背負い、一礼のあとに扉を向いて、スキップするかのように浮いた足取りを隠すそぶりもなく、そのまま歩き出した。

 そのまま扉から廊下に出ようとしたところで、


「久遠!」


 ピタリ、とその足が止まった。

 指定のセーラー服に隠した小麦色に焼けた健康的な肌。少年より頭一個分小さい、ともすれば中学生と間違われてしまいそうな低身長。唇から除く、肌とは対照的な真っ白の八重歯。何より、


「行こう!」


 背中のカバンに突き刺さったブルーの釣り竿が、


「先輩、早くないスか」


 少年の心を、響かせた。


 ―――――――


 歩くこと十数分。

 肌を焼く陽光とあたりに舞う潮のにおいは一層強くなり、もう近く見える灯台とともに海が来たことを知らせている。


「――うし、久遠。着いたなー」

「スね」


 見渡す限りの青、蒼、藍。踏むたびにじゃりと音を立てるコンクリートでさえ、青に呑まれないようにと踏ん張っているようにさえ見える。

 四メートル×四メートルという余裕のあるスペースに良い潮通し。休日では早朝から並ぶ趣味人で埋まる堤防のさきっちょも、平日の真昼間まっぴるまであれば貸し切っているかのように誰もいなかった。唯一見えるのは、堤防のもとにある船をいじくっているおじさんぐらいなものである。


「学生の数少ない特権ですよね、これ」

「確かに。めったにないもんな」


 二人していそいそとカバンを下ろし、中から釣り具を取り出した。


 ――もしかすると、これはデートと思われたりするのだろうか。


 釣り竿と同じ色のライフ・ジャケットのバックルをかちりとハメつつ、徹は鼻をつまみながら目を閉じた。顔が熱く燃えてきたような気がするのは日に焼かれただけではないような気がして、ぶんとかぶりを振る。


「どうしたのさ、久遠」

「あっいや、なんでもないっス!」

「どした、ボラみたいに跳ねて。──あ、顔真っ赤。熱中症には気をつけなよ。ハイこれ、クーラーボックスで冷やしといたから」


 ペットボトルを渡され、促されるままキャップを開ける。きらきらと水面に光を反射させる透明なプラスティックの心地よさをてのひらで感じ、水がたまるはずの胃袋には感謝の気持ちが放り込まれていく。ラベルに描かれた見慣れたメーカーのロゴマークも、潮風と波の音に囲まれてみれば、真新しさに溢れていた。


「あれ、あんな看板ありましたっけ」


 つっと目線を挙げておろす間に、徹は後ろの文言が気になってしょうがなかった。真新しい木製のそれは設置されてあまり時間がたっていないのがわかるが、何も気になったのは見た目の真新しさではなかった。


「《行方不明者多数、注意されたし》――言い方が古すぎるし、ここそんなに行方不明者いないし……よくある『川遊びは危険だから注意しましょう!』ってことじゃないかな?」

「そう、ですよね……いや、すいません」


 ふっとかぶりを振り、ぐっと手に力を籠めて、完全に用意できた竿を握る。水面に竿を投下するこの瞬間、徹はいつも行うがあった。釣り糸を親指と人差し指で握り、ビリヤードを狙うかのように構える。釣り糸を通す輪っかを通して海を見ると、少年の鼻からすっと潮風が抜けていった。

 どこに投げれば良いのか。どこに投げれば、自分はたくさん魚を釣り上げられるのか。全ての釣り人が抱え、そして全ての釣り人が排してきた悩みに、少年はひとつの結論を出していた。


「今日も見える? 久遠」

「見えます」


 あそこ、と白い指を指し示す。それを見た彼女は額に手を当てうーんと唸るが、何も見えないのか首を傾げ、「不思議だなあ」と呟いた。


「ホントに見えるの? 手」


 はい、と答えて徹はもう一度海を見やる。彼の目には、確かに白くて細い指が海に沈み、海の揺らめきと合わせてゆらゆら揺れているように見えていた。「行きますよ――」と掛け声をつけると、プイが海面を揺らした。


 竿を後ろへ振りかぶり、その手めがけて振り下ろす。やがて、十数秒もしないうちに彼の竿が軋んだので、踏ん張って手元へ返した。

 針には確かに、大きなカレイがぶら下がっていた。


「ナイスフィッシュ、久遠!」

「あ、移動した。先輩、今度はそっちです。前二メートルぐらい」


 んしょ、とかわいらしい掛け声とともに、水面に小さなさざ波が立つ。プイを左右に揺らしたり、不安そうな顔で隣を眺めたりしたが、ほどなくして彼と同じく大きなカレイを釣り上げた。


「うわ、釣れちゃったよ」

「ナイスフィッシュ、先輩」


 針を外し、クーラーボックスに二尾のカレイを放り込んでもなお、彼女はいまだ信じられないといった様子で箱の中身と徹の顔の間で視線を行ったり来たりさせている。

 言ったでしょと微笑んでもなお、不思議そうな顔を浮かべている。


「白い手もそうだけど、なんでカレイなんだろ。時期も違うし、私たちの釣り竿もカレイ釣るような海底まで届くようなものでもなくって、フツウの投げ竿だし。今日ちょっと潮が高いような気がしなくもないけど、きっと関係ないんだろうし――」


 顎に手を当て、うんと唸りだしてしまった。しばらくそうしていたが、クーラーボックスに入った大きなカレイ二尾を見て、もうしょうがないという風に釣竿を手に取り、適当な場所に投げる。今度はしばらく経っても釣竿が揺れる気配すら感じられない。


「……えーと、釣れるのはカレイだけ?」

「いえ、別にカレイだけじゃないです。今日はカレイらしいですけど」

「日によって違うんだ。魚以外は?」

「とれたことないです。陸上だと見えたことすらないですね」

「うーん……今日の海に変わったことは?」

「さっきも先輩が言ってましたけど、潮がちょっと高い。マズイ、全然見えなくなっちゃいました」

「ありゃ。そういう日もあるよね――今日は終いにしとく?」

「ですかね。――あ?」


 うん? とふたりして疑問符を浮かべたのは、ふいに誰かが泣く声が聞こえたからである。水中から、或いはすぐそばから――あたりを見回してみると、少女が一人うずくまって泣いていた。小学校低学年ぐらいだろうか、結わえた髪を黄色の帽子で隠している。釣竿をもって右往左往するしかない徹とは対照的に、彼女はすぐさま駆け寄って膝をつき、その涼やかな声を響かせる。


「どうしたの?」

「あのね、お気に入りのね、貝殻がね、落ちちゃったの」


 ――つまり、こういうことらしかった。

 彼女がこの町に引っ越す直前、友達との最後の思い出に集めた貝殻の入った小瓶を胸に一人で海まで歩いてきて、このコンクリートのフチぎりぎりを歩いて回っていたところうっかり手を滑らせてしまい、海中に小瓶がダイブしてしまったと。


「それは大変。助けなきゃ」


 どこかその瞳に懐かしいものを感じて苦い顔を浮かべるだけの徹とは対照的に先輩はすぐさま覚悟を決めたのか、釣り竿の前に置いてきた自分のカバンへと足を向ける。


「久遠、水着持ってきてるよね」

「……ええ、まあ」


 海水浴じゃなくて、プール用だったんですけど。その言葉を投げつけるより前に、先輩は慣れた手つきで自分のカバンをあさり、――ついでに徹のカバンも漁り、二着の水着を取り出した。


「はいこれ。トイレはアッチだね、すぐ着替えよう」


 助けるとは言ってないんですけど。徹が確かに感じたその戸惑いは、明朗な女生徒の声と悲しみの詰まった後ろの女児の声にかき消された。


 ―――



 息を振り絞り、大海へと飛び込む。太陽に照らされた水面はまだ暖かかったものの、ひとたび海中に潜ればその限りではなくて、徹は静かに震えた。だが、ゆっくりと水をかいて詰まった水に分け入っていくたびにどんどんと冷たさは気にならなくなり、前に前にと漕ぐ力のみが強くなる。

 前を泳いでいく先輩はそのスピードを上げ、ぐんぐんと徹との距離を引き離していく――"田舎のクイーン"のあだ名は、ティアラを脱いでもいまだ健在なようである。幼少から水泳を習っていたらしい彼女と、趣味程度に放課後泳いでいた徹とで追いつけるわけがどこにあるだろうか。当たり前の答えにあきらめて、彼は水面から顔を出した。


 十数秒ほどして、「ぷはっ」と彼女も顔を出す。


「見つけた見つけた。ふー……意外と近いところに浮かんでくれてて助かった」


 とトロフィーのように手に持った瓶を掲げ、徹へにこやかに笑いかける。なるほど、手早い。塩辛いこの場から出ようと今度は後ろを向いて足を漕ぎ出そうとして、二人そろってにわかに動きを止めた。


 海が渦巻いていたのである。

 鳴門の大渦もかくやといった大きさで、ぐるぐる、ぐるぐると渦巻いていた。岸に置いた釣り竿も、また停まっていた船も揺れ、あるいは溺れ、渦の中心へと引きずり込まれていくようであった。


「――えっ」


 その声を出したのはどちらだったろうか。どちらともわからないまま泳ぎだして、彼らは渦とは垂直に――つまり、岸に沿うようにして、急いで泳ぎ始めた。互いのフォームが崩れに崩れているのは、単に焦りのせいだけではない。確かに背を引く圧力に二人して恐怖して、さらにスピードを上げていった。


「弱くなった、今なら抜けられる!」


 泳ぎ続けたのは十秒だろうか、一分だろうか。泳いだまま後ろを振り返り――そうして、足を透明な手が強く握りこんでいるのを


「ヤ、バ……」


 とたん、一気に速度が緩んでいく。やがて進まなくなり、後ろへと押し流され始めた。高い波が前にいた先輩もさらって、後ろへと無理やり引っ張ってゆく。


「ごぽ――」


 重苦しくて、涼やかである。十年来の記憶を新しく上書きしなおして、もがいていた手を諦めたように下げた。



 - - - - - - -


 星空が浮かんでいた。ひとつひとつが明るく照っているが、そのすべてがどこかはかなげで頼りない。形作っているハズの星座はめちゃくちゃに歪み、しまいにはオリオンと蠍が同居している始末であった。

 ぽろん、とハーブの音が鳴り響いて、迫る波音とともにあたりに静謐とも喧騒ともとれる音楽を奏でている。その砂浜の中心で徹と先輩が倒れていた。人とももとの制服姿を着ていること、まったく昼であったのに夜空が広がっていること以外は、いたって平常である。重たい頭痛を確かに感じながら、二人は起き上がろうとして――こちらをのぞき込む人影に気が付いた。


「わ、わっ」


 ふたりが驚いたのは、突然人にのぞき込まれたからではない。のぞき込んだそれが、まったくよくわからないものだったからである。

 全身を黒い布のようなもので覆い、体のシルエットすらつかめない。右手には人の背丈ほどある槍を握って、左手にはまだ動いている銀色のうろこを持つ魚をつかんでいる。真ん中ほどで赤い穴が開いているのは、右手の槍で一突きしたからだろうか。二人が驚きあとずさっても特に微動だにしていないのと、顔も黒い布で覆われて見えないので、その感情を読み取ることは容易ではない。


 互いににらみ合って(もっとも、このよくわからない影がこちらをにらんでいたかどうかは定かではない)しばらくたった後、ふいに右手の槍を小さく揺らしたあとに、てくてくと歩き始めた。


「ついていけってことかな」


 多分きっと、と短く応じながら後ろをついていく。徹も決して確証があったわけではない。ただずっとそこにいても何もわからないし、特段怒られる風でもないからついていっただけである。


 歩くとすぐに、大きな城が目に飛び込んできた。漆喰の真っ白な壁と赤い欄干、ほのかに淡く青く光る様相は、浮世離れしきっていた。

 わぁ、すごいと隣で心奪われているのを尻目に、徹はもはやただの案内役ガイドになった男の背をじいっと見つめる。どうやら目的地はこの中で間違いないらしく、彼から逃げるように門がぎいと軋みながら開いていく。


「スゴー、人がたくさん……」

「です、ね……」


 門の中には、王様の謁見の間のようにきらびやかであった。両脇には目の前の男のような人影がたくさん連なっている。あるものは剣を持っていたり、あるものは銃を持っていたりとその持ち物に差異はあったが、皆一様に黒い布で体を覆っていることはそっくり同じであった。そしてその真ん中の道、赤いじゅうたんが敷かれたその先には豪奢な椅子があり、初老の女性が杖を持って腰かけていた。


「よく、来ましたねえ」


 ふっと急に声を上げたのは、言わずもがなその老女である。見た目通りに柔らかな物腰であるが、どこか超然としてなにやら不気味な雰囲気をまとっているのは、物々しい横の兵士たちの影響であろうか。案内役だった黒い布の人物が、彼女の前に跪く。


「え――ええと、私たちここから帰りたいんですけど」


 あら、と声を上げたのは目の前の女性である。若い子がそうするように手に口を当てて、うーんとうなって見せた。もう反対の手は杖の頭をせわしなくたたいている。


「残念だけど、それはできないわ。せめてしばらくここにいてもらわないと。そうね、ざっと八十年ってところかしら」


 ユーモアもへったくれもないが、しかし何を言いたいのかわかりやすい一言であった。目にこもったまっすぐな悪意を見て、二人して背筋が怖気で震えあがった。

 女王がふと右手を上げると、脇に佇む兵士たちが一斉に武器を鳴らして、徹らへきれいに整列した。なんだかきれいだなあと場違いな感動が割り込んだ徹と対照的に、先輩はあ、と短く悲鳴を上げた。


「そういえば、あそこにおいてあった行方不明注意の看板——」

「置いたつもりはないのだけれど。……もっと残念だわ」


 暗い瞳がさらに鋭くなって、とんと杖で床を叩く。ぎいぎいと扉がなって、彼らが滑り込むより先に閉じ切った。


「ここに来た人は、すべてを忘れるの。上で何をしていたのか、自分はいったい何者だったのか。上の人もすべてを忘れるの。連れ去られた人が誰だったのか、いったいその人が自分にとって何者だったのか」


 笑うでもなく、ただ徹らを見据えてとんとんと杖で床をたたいている。ただの事実を並べるようにして、彼女は目を閉じた。


「そのほうが幸せでしょう? 忘れたら、なくしたことももう覚えていないのよ。思い出なんてそんなくだらない。忘れてしまえばもう、あなたたちが崇めても意味をなさないのよ」


 先輩があっと声を上げた。目の前の女性は椅子の後ろから赤い蓋の貝殻の入った小瓶を取り出して、からりからりと振って見せる。それは確かに、飲み込まれる直前まで先輩が離さなかった少女のものであった。


「だからって人のものを壊しちゃダメだし、私たちを幽閉していい理由にはならな――」

「でも、忘れてるのよ。覚えてないものをあなたのものだと返されて、ホントウに自分のものだと言い切れるのかしら。自分のものでないなら、別に好きにしたってかまわないわよね――ああ、幽閉についてはごめんなさいね。私にはあなたたちが必要なの」


 ややこしげな言い訳と、明確な意思。まったく相反する二つを同時に受けて、先輩は苦い顔を浮かべた。それに、と女性は言葉を紡いで、いまだ何もしゃべっていない徹へと目を向ける。


「何も言わないし、彼。意思を私にゆだねるってことでいいのかしら?」

「……いいえ、違います。あなたは間違っている」


 こわばった顔で威勢よく言葉を吐き出してみたものの、その策は全くと言っていいほどない。伏兵どころか本隊もない戦争で、勝ち筋があるだろうか?

 どうして、とあくまで感情の読み取れない平坦な声で応じられて、「どうしてって、その……」と判然としない柔い返事しか返すことはできなかった。


「あいにくだけれど、そのままでは返せないわ。別に返してもいいけれど、何かひとつだけになるかしら。あなたたちのうちの一人。またはこの小瓶――なんでもいいわ。ひとつだけ」

「ひとつ――」


 その言葉に応じて、先輩が徹のほうへと視線を巡らせる。瞳に映ったのは恐怖だろうか、それとも勇気だろうか。徹はその何かを受け取る前に、彼女の目に自分が写っているのを見た。


「……先輩、それはダメでしょう」

「……」

「先輩、違う。それは俺がするべきことで――」

「あのねえ、私も慈悲を与えてるの。早く決めないと、あなたたちは一緒に幽閉してしまうわよ」


 そっちのほうがまだだ。と、さっきまで陰鬱とした表情を浮かべていた少年が突然鬼気迫った顔を初めて、女性は心からほくそ笑んだようだったが、二人はそれどころではない。


「そもそも、落とし物を探そうと言い出したのは私。ああいわなかったら、きっと久遠もこうはなってなかった」

「それは! ……そうかも、しれませんけど」


 ぐっと握りこんだこぶしが緩んだ。


「だから、久遠がそうするべき。お願い、行って」

「っ――、でも」

「久遠」


 何か言いたげに――しかし上手く言語化できなさそうにぱくぱくしていた口を閉じたのは、存外にその一言に力が籠っていたからである。とまどいながらも確かに動きを止めた後輩に向けて、先輩は僅かに瞼を伏せた。


「好き、だから」

「――――」


 言葉を咀嚼する前に、こっちに来た時のような衝撃が徹の体を襲った。白く透明な手が無造作に開かれた扉へ引きずっていく。ぎりりと靴の裏が大理石の床に傷をつけていくものの、背中につく透明な手の数は多くなって、彼を後ろへと引きずり込んでいく。


「先輩、ちょっと待っ――」


 俺も、と言いかけたその言葉の先は、終ぞ相手に伝わることはなかった。


 ―――


 満点の星空であった。

 まだ規則正しく光り輝いている星は星座を形作り、徹が大の字で寝っ転がっているコンクリートに柔らかな光を放っている。確かに夜空には蠍が浮かび、巨人が介入する隙間はない。


「……」


 首を回して、ふと竿置きを見た。助けるからとちゃんと置いたはずの竿は、その数を1へと減らしている。本当にいなくなってしまったんだ。泣くだけにはあまりあるぐらいに傷ついたというのに、不思議とそこまで悲しい気持ちにもならなかった。


 汝は汝の道を行け。人には言わせておけばいい――かの名作『神曲』にて、ダンテはこう言った。陰謀に巻き込まれ歴史の表舞台から消え、愛する故郷すら追放されあてもなく彷徨う毎日を過ごしていながらもこの言葉を書き上げた"積み上げ"があるからか、徹の威勢のいい気休めの論理では感じない力が、しっかりはっきりと認められる。というのなら、自分も自分の道を行くのが正しいのだろうか――自分の行くべき道は、この海のように開けている。蓋をして帰るのも、もう一度飛び込んでみるのも、すべては自分の思うままである。かといって甘くも柔らかくもありはせず、背のコンクリのように硬くある。行かなければならないのはわかっているが――そこまで思索を巡らせてなお、徹はむくりとも動かなかった。


 彼が過去を思い返してみれば、高校の一年間彼女に振り回されてばかりであった。

 徹がまだ右も左もわからない新入生であったとき、オカルト研究部のチラシをもって勧誘しに来たのは彼女である。久遠、先輩、あともう一人の先輩――部活動がギリギリ行える三人で回した部活はそこそこ楽しかった。

 唯一あった問題は、新入生が大のホラー嫌いであったことであるが、些末な問題であると二人は取り合わなかった。むしろ一言一言で驚く徹を面白がって見ていたフシがある。


 次に覚えているのは――去年の夏休みだろうか。趣味で泳いでいると伝えると『私、泳ぐの得意なんだ』と市民プールに呼び出され、流れるプールだのウォータースライダーだのを置いて25メートルをずうっと泳がされた。まあ、それはいい。楽しかったし――と息をついて、懐のスマートフォンを取り出す。写真フォルダを適当にあさってみても、先輩はあらゆる場所にいた。ある時は開いた本の脇に、ある時はゲームのフレンド欄に。確かに先輩はどこにでもいた。


 にわかに懐に違和感を感じて、一度ひっくり返してみる。


 からりからりと音を立てて、貝殻が何枚か落ちてきた。あの女性が割ったときに回収して、無理やり突っ込んでいたのかと妙な感動に襲われながら、彼は辺りを見回して、あの少女の姿を捉えた。行く前と違ってその声がにこやかであるのは、宝物を失くしてしまったことすら忘れてしまったからか。よく見てみれば彼女は親と一緒に来ているらしく、共にスキップしながらコンクリの真ん中を歩いている。踏み込むたびにぴかぴかと光る靴が、なんとも愛らしい。


 あれを、守らなくてはいけないのである。誰に言われるでもなく、むしろ忘れてしまっているというのに、彼女は精一杯手を伸ばして貝殻一つを引っ掴んだ。ちっぽけな成果だったかもしれない。むしろ成果なんて何一つなかったかもしれない――自分がここに立っていることが、何よりの証左である――


 海中を見下げる。行きのように渦は巻いていないが、徹は白い幽霊のような手が確かにあるのを認めた。


「――よし」


 とん、とん、とん――彼女に教わった飛び込みの姿勢ののち、彼は海中に浮かぶ手に向けて全力で飛び込んだ。どうか、あのお城へ連れて行ってくださいと願いながら。


 ―――――


 ―――


 巨人と蠍の同居イベントも、いよいよ佳境に入ったようである。傾いて地平に消えてしまいそうなそれを視界の隅へと追いやりつつ、彼は確かに立ち上がった。道こそ怪しかったものの、しかし城まではそう離れていなかったので、特別迷うこともなく門を叩くことができた。


 無言のノックには無言でと言わんばかりに、帰りと同じように無造作に扉が開く。あら、と女性が声を上げたのと、徹が体を中へと滑り込ませて先輩の元へと駆け寄るのは、ほぼ同時であった。


「あら。もう戻ってきたのね」

「もちろん。先輩をまだ、帰してもらってませんから」


 その瞳に確かに覚悟があるのを感じ取って、女性はにたりと口角を釣り上げた。


「久遠、なんで――」

「なんでもヘチマもありません。ただ」


 ただ、と息を継いで、言葉を紡ぐ。今度は失敗しないと大きく息を吸って、はいて見せた。


「もうちょっと、先輩とバカやってたい。振り回されたいんです。だから、返してもらいに来た」


 すこしびっくりしたように目を見開いたかと思えば、へんなのと声を上げて笑った。あたたかな笑みが冷たい空間にこだまして、その空気を塗り替えていく。


「私がみすみす見逃すとは、思ってないでしょうね」

「もちろん。でも、出られるとは思っています。思い出がそうさせてくれる――あなたが消し去ろうとした、思い出が」

「……」


 老女がとんとんと杖の頭を指でたたくと、兵士たちが一斉に武器を構えた。あるものはマスケット銃を、あるものは剣を、あるものは槍を――ただそれに臆することもなく、徹は一歩踏み出した。


「あなたは、思い出がくだらないものだといった。忘れてしまえば、もう価値のないものだって。でも、そもそも思い出は忘れるためにあるんじゃない。引き出して、手に取って、大切にしまい込むためにあるんだ。忘れてしまったらもう、それに価値が見出せるかはわからないけど――でも、思い出が大切なのは忘れてしまう瞬間じゃない。あなたは、間違ったことを言ってる」

「そんなこと、もう百回と言われたわ。気休めの感情論……残念ね」


 さらに二回杖の頭をたたくと、兵士たちが一斉に武器を鳴らす。がしゃり、がちり――


「あなたは、思い出を大切にしまい込もうとした」


 老女は心底驚いたように目を開いた。今すぐにでも襲い掛かろうとしていた兵士たちの動きは止まり、その断片すら感じさせない。


「あなたは俺たちがここに来た時に、『八十年ぐらいいてもらわないと困る』って言ってた。情趣もユーモアもへったくれもなくとっととその兵士たちを動かして拘束するなり危害を加えるだのすればいいのに、会話を楽しんでさえいた。思い出に価値がないって言ってる人は、そんなことしないと思う。あなたが恐れていたのは、思い出を忘れてしまうことだ」


 一気呵成に責め立て終わって、徹はとうとう息をついた。額に汗をかきながらも、しかし言いたいことは言い終わったと、やり切った表情を浮かべていた。


「ほんと、残念。……たまにいるのよね、あなたみたいな――ユーモアもムードもなく、ただ正しいことを言うだけの人が」


 その手厳しい言葉は彼女なりのユーモアだと気が付いて、徹は破顔した。


「ごめんなさい。でも、どうしても言いたかったんです」

「別に怒ってるわけじゃないの。ただ……そうね、おいしいエサを取り逃がしちゃったってことかしら」


 玉座のようなきらびやかな椅子から立ち上がったかと思うと、それは燐光につつまれて宙に消えていく。脇の兵士は何もなかったかのように背筋をぴいんと伸ばして立ち、背後の扉はぎいときしむ音を立てながら開いた。


「もう手を引かれずとも帰れるわ。行きなさい」


 徹はまだ呆然とした先輩の手を引いて、これまた豪奢な門を潜る。そうして陸に上がってもなお、彼は持った手を離さないでいた。


「徹ー、まだ見えるのー?」


 ええはいと適当に返事をしつつ、徹は揺らめく海水を睨んでいる。ただでさえ見にくい海面に、幽霊のように白い手、指。見つけるのには相当苦労するようで、竿を垂らしている時間よりも水面を眺める時間が大きくなったころに、あと声を上げた。


「見つけた。今度は壁に張り付くみたいにあります。俺の目の前」

「これ、本当に釣り? どっちかっていうと射的だよね」

「まあ、否定しません」


 とりあえず、と壁の近くにプイを落とす。ぷかぷかと浮いたそれは、引きずり込まれるようにして海中へと沈んだ。


「うわっと――これちょっとデカいかも!」


 ぎしりと音が鳴り、竿が大きく弧を描く。コンクリートの地面を削って竿の塗装の表面が割れ、赤色をフチにまき散らす。右へ、左へ。確かに生物らしい大きな動きを掌で感じつつ、徹は竿を振り上げた。


「釣れっ――……たっ!」


 ぷらりと釣り糸が空を飛ぶ。電池の切れかけたドローンのように頼りなく揺れるそれは、確かに獲物を捕らえていた。

 えっ、と声を上げたのはどちらだっただろう。数秒超えたのちに、徹はゆっくりと竿を傾けて獲物を手元へと持ってきた。


「…………スコップ?」

「スコ……ップ……」


 一○センチほどの青い柄に、ミツマタに分かれた大きなへこみのある黄色の先端。その間に挟まるようにして、魚用のエサのついた釣り針がふよふよと浮かんでいた。えーと、と声を下げる。


「魚じゃないのが釣れることもあるんだね?」

「……あるらしいッスね」


 針を外し、徹は泥にまみれたスコップを手に取った。裏返し逆さに返し、自分のすぐ横に置いていたペットボトルのキャップを開けて、その泥を落とす。

 どうやら柄の裏に名前欄があったようで、白いシールが泥の中から顔を出した。


「落とし物ですかね。届けなきゃ」

「だね。名前は?」


「久遠……」

「ん?」


「久遠……徹です……」

「おっと」


 にこやかに笑う彼女の前髪を、ふわりと風が攫っていった。なんだか美しいなあと、徹は強く感じたのだった。

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