2 思い出の樺太 (1)伏子の思い出

 留多加るうたか川が亜庭湾に注ぐ川口から、海岸線に沿って西方に下伏子の部落と中伏子の部落が並び、その中間に学校があった。学校の前を通り海岸線に垂直に奥地に向かう道路と、中伏子の入口の附近から奥地に向かう道路があって、この二本の道路に沿って上伏子の部落があった。この三つの部落を総称して伏子と言っていた。下伏子と中伏子は殆んどの家が漁業を営み、上伏子は農村だった。留多加るうたか川の川口の東岸に川口部落があり駐在所や病院などもあった。川口部落から二キロメートル程北に留多加の町があり、この附近の中心都市であった。


 私は大正三年下伏子に生まれた。伏子の附近はロシヤ領であった頃は、オイワノサワと言われていたと父から聞かされていたことをおぼえている。海岸は遠浅の砂浜で、海岸添いに砂地特有のハマニンニクの群落が一面に続き、そのところどころにハマニガナの黄色い花が砂地を這い《はい》、ハマナスの群落がその鮮やかな花であたりをぱっと明るくしていた。部落のうしろには、海岸線と並行に西から東に流れる小川があって、留多加川の川口附近で留多加川に流入していた。春になると、この小川のほとりには一面に綺麗なアヤメの紫色の花や、エゾカンゾウの橙色の花が咲き、その間にところどころに水芭蕉の乳白色の大柄な花が、ひと際目をひいたものだった。この小川で子供の頃よく春や夏には、ヤマメやウグイを釣り、冬は氷を割ってワカサギをとったりした事を思い出す。


 この小川を渡って少し奥地に進むと、落葉松や白樺、ナナカマドなどが茂り、五・六月の頃になると、可憐な純白な鈴蘭が咲き、真っ赤な百合の花が咲く。七月から八月の頃になると、赤紫色のヤナギラン(盆花)の花が咲き乱れ、地表にはコケモモ(フレップ)やゴゼンタチバナ(山仁丹)の可憐な花が、敷きつめられたように咲くのである。秋になると

このフレップが小豆大の真赤に熟した実をつける。このフレップの果実はあま酸っぱい独特な味がして、美味しかったので、部落の女や子供たちは、この季節になるとフレップ採りに山野に出かけたものである。フレップは全島各地の山野に自生していて、そのまま食べても美味しかったが、煮てジャムにして食べたり、塩づけにして置いて冬になってから食べても美味しかった。又フレップ酒やフレップ羊かんなども店頭で売られていたものだった。


 上伏子の農村地帯の周辺には、秋田ふきにも劣らないような大きな蕗が自生していて、身欠鰊ミガキニシンが干しあがる頃、よく農村の知り合いの家から届けられたのを思い出す。子供の頃食べた、蕗と身欠鰊の煮つけの味は今でも忘れない。農村地帯から更に奥地に入ると、えぞ松・とど松等の原生林の密生する森林地帯に続いていた。


 父や母がこの部落に移り住んだ明治四十四年の頃は、まだ部落の近くにアイヌ達が住んでいて、吹雪の夜など酒を呑んだアイヌ達が大声で唄いながら、部落の道を通ったものだという話を母から聞かされたことがある。私が物心ついた頃は、そのアイヌ達はどこへ行ったのか、部落の近くにはその姿が見かけられなくなっていた。中学に入って先住民の穴居のことなどを学び、部落の周辺にもそれらしい跡を見かけたことを思い出す。


 私は九人兄弟の次男だったが、分家をしたのが随分おそく、私が小学校に入学してからだったので、私が物心つく頃は十五・六人の大家族の祖父の家に育てられたので、幼い頃は大変腕白な悪童だったことを、おぼろげながらおぼえている。祖父の家にはその頃部落総代という大きな標札がかかっていて、いろいろな人達が出入りしていた。祖父は戦争後小樽に引揚げ、伯母の所で世話になっていたが、二十三年八十四才で亡くなった。負け嫌いな一面と、太っ腹だがどちらかと言うと、お人好しの一面もあったように思う。祖母は私が小学校に入って間もなくの頃亡くなった。祖父を援けたすけ大家族をかかえ、立派に家をととのえていた勝気なしっかり者だったようだ。子供の頃いろいろ祖父から訓えられたものだったが、今でもその訓練を思い出すことが多い。


 下伏子の真中ごろに消防番屋と火の見やぐらがあり、その隣に私立の学校があって、私の叔父達の先輩の人達はここに通っていた。祖父はよく自分達の力で建てた学校だと自慢していたものだった。私が小学校に入学した大正九年の頃には、公立の二学級複式の立派な校舎が、下伏子、中伏子、上伏子の三つの部落の中間に建てられていた。この頃はもう下伏子にあった校舎は姿を消していたが、どういうわけか、私の脳裏に今でもはっきり下伏子にあった小さな校舎が焼きついている。


 下伏子は古くからここで漁業がおこなわれていたようで、大きな番屋があった。かくちょうという屋号の番屋だったが、春になると函館方面から四・五十人のヤン衆がやってきて、大規模な定置網で鰊や鱒などをとっていた。春になって、この番屋に漁夫がくる頃になると、部落も急に

賑やかになったことを思い出す。大正初期の頃は部落の殆んどの家は、所謂零細漁業というか、刺し網や曳き網で鰊や鱒をとり、冬は造材山に出稼ぎに出たり、漁期に使用する自家用の薪やサキリなどを裏山から伐り出すような仕事をしていたものだったが、私が小学校に通うようになった頃は、漁業の規模もだんだん大きくなり、殆んどの家が建て網で鰊や鱒をとるようになっていた。そして春の鱒の漁期になると、部落のどの家でも十四、五人の漁夫を雇うようになっていた。多くのヤン衆が、遠くの越中や加賀・津軽・南部・秋田・北海道方面からやってきたものだった。鱒の漁期と前後して、冬の造材山伐り出して、海岸に積んである丸太を運ぶ積取船が、部落のおきに碇泊するようになる。ヤン衆達の網おこし唄や、積取船までの往復を繰返す発動機船の音で、亜庭湾内一帯はお祭りのような活況を呈するのだった。鰊ぐもりの沖合に、積取船の姿がぼんやり浮かぶ朝露の中から、ヤン衆達の舟唄がかすかに聞こえ、その唄声がだんだん大きくなり、大漁旗をなびかせた漁船の姿が、徐々に現れてくる光景などは、まだ私の眼底に残っている。海岸には小魚をあさって、独特な鳴声でうみねこが群れ飛び、百石・二百石とはいった"ナツボ"の前に並んで、数の子抜きをしている女達の顔に鰊の鱗がとびついて乾いている光景や、見欠鰊や魚粕の干場の独特の臭の中に、ほころびたかすりの着物を着て飛び回っている子供達の姿など、懐かしく思いだされる漁村風景の一つである。

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