1 一 日露史上の樺太(4)昭和二十年ソ連の侵入

 太平洋戦争終戦の一週間前の八月八日のことである。突然ソ連が一方的に宣戦布告して、樺太に侵入してきたのである。日ソの中立条約を無視しての侵入であった。

 かって独ソ戦の際、独逸軍がソ連国内に侵入し、ソ連がまさに敗戦一歩手前の苦境にあった頃、独逸は日独伊三国同盟をたてに、ソ連を背後からたたくことを要請してきたという。然し日本は日ソ中立条約を守りそれをしなかったのである。こうしたことから考えると、アメリカが原子爆弾を使用し、日本の降伏が決定的に見えてきた八月八日、一方的に侵入してきたソ連の火事場泥棒的なやり口に、強い憤りをおぼえるのは私一人ではないと思う。

 兎に角、ソ連は八月九日半田沢国境方面に砲撃を開始し、この砲撃の掩護エンゴのもとに進撃をはじめ、途中我が警備隊との間に激しい戦闘をし、特に幌見峠付近の戦闘は激戦であったと言われている。然し即時停戦命令を伝える大本営電を受けた我が一二五連隊は八月十八日降伏したのである。八月十八日以降は殆んど抵抗を受けることなく、国道を南下した上敷香、内路へと進出してきた。そして八月二十日の午後内路の街にソ連戦車が姿を現したのだった。私がソ連兵を最初に見たのはこの時である。

 一方ソ連空軍は八月十日頃から、西海岸の町々、鵜城・恵須取・塔路・太平・上恵須取等の空襲をはじめ、これらの町の大半を焼き、逃げまどう一般民衆を機銃掃射の的にしたのである。更に八月十六日には恵須取を艦砲射撃し、軍隊を上陸させ、西海岸北部の町々を占拠した。尚八月二十日には、真岡に激しい艦砲射撃を浴びせ、多くの非戦闘員を殺りくしたという。この時真岡では、敵の手にかかるよりはと自ら死を選んだ人達もあったと聞く。

 さきに樺太庁は、ソ連の参戦を知るや、八月十日頃から船舶を動員して、婦女子や老人等を内地に送還しはじめた。しかし船舶の不足と、潜水艇等の脅威もあって十分な輸送も行われなかった。八月十二日婦女子を乗せて樺太を出航した二隻の船舶が、留萌沖で所属不明の潜水艦に撃沈されたということもあった。八月二十三日からは、宗谷海峡はソ連の手によって封鎖され、樺太は完全にソ連に占領され、樺太のあらゆる機能はソ連の手に帰したのである。 この時から残留島民は、戦敗国民の悲哀をいやという程味あわせられながら、抑留生活を余儀なくさせられたのである。私も二年間の抑留生活の後、昭和二十二年七月十三日懐かしい祖国への引揚げ第一歩、函館の地に踏んだのだった。

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