差別主義者から学ぶ、演繹法と帰納法

加賀倉 創作(かがくら そうさく)

差別主義者から学ぶ、演繹法と帰納法

【お願い】

本稿は、紹介文の【執筆の経緯】を前提に論じますので、まずはそちらをご確認くださ……


ここに文明の利器『コピペ』をしておきます。


【注意】

本稿は自身への戒めの意味合いが強いです。



——挿入——

【執筆の経緯】

 私はある時、某SNSで、そこそこのフォロワーを抱えるインフルエンサーによる「境遇の良し悪しはその人の将来を決定する」という旨の、一歩間違えばナチズム的な投稿を見かけた。その論旨をもう少し具体的に言えば、「これまで色んな成り上がった人間を見てきたが、彼らは総じて悲惨な運命を辿る。貧乏に生まれれば遅かれ早かれ落ちるし、被差別階級に生まれればこれまたいずれ落ちる。そういう『傾向』があるのではなく、そう『なる』のだ」と、明らかな断定口調だった。


 私は憤慨した。


 今せっかく、いわゆる「這い上がっている」途中にいる者がそれを見れば、どう思うだろうか。


 そのインフルエンサーの発言やそれに類する発言の蓄積が「落ちる」原因になりえないだろうか?


 もしそうなれば、境遇そのものに問題があるというより、境遇を揶揄する者がいるという外的要因によって、必死な人間を不必要に、貶めていることになるわけで、「蛙の子は蛙」的意見はある種破綻するのではないだろうか。


 心の中で何を思おうと、その思いの湧出は抑えられないだろうし、そうするのは他人の勝手だが、公然とそれをそのまま投稿するのはいかがなものか、と私は感じた。その上、その投稿には万単位の「いいね」がついており、余計に癪に触った。


 「貧乏人や血筋の悪い者はいずれ落ちる」的な、「蛙の子は蛙」的な投稿をしたそのインフルエンサーは、絶対的物理法則に基づいて演繹えんえき的に解を導いたのではなく。自身の人生経験というバイアスの塊、つまりひどく質の悪い主観の数々から、帰納きのう的に「推論」したに過ぎない。


 そんな「推論」の奥深さについて論じたくなったので論じます(とてつもない飛躍)。

——挿入終わり——


——ここからが本題——


 本題と言いつつ、いきなり余談なのだが、私は、推論、ひいては演繹法と帰納法をなぜか『アイザック・アシモフの科学と発見の年表』で学んだ。大学時代、科学好きの英語教師に、原文で読まされたのだ。毎週朝九時から始まる講義のたびに、「ここを和訳してみろ」と言われたのは、なかなかにハードだったと記憶している。帰納法については一応、それ以前にも何となく聞き覚えがあった。初めて帰納法という言葉を認知したのは高校数学で『数学的帰納法』を学んだ時だった。数学嫌いのくせになぜか数列の分野だけ得意だった私は、文理混合のクラスで数列だけの定期テストがあった際は最大瞬間風速的に一位の得点を取った。が、その時点では帰納法が何たるかを、自身の言葉で説明できるほど、理解はしていなかった(ちなみにこの余談は、高校レベルの数学だけでは私が推論の重要性を理解できなかったことと、のちに『科学』と絡めて初めて推論の重要性を理解したことの二点を強調したいと思い挿入した)。


 次こそ本題に入る。 


 『執筆の経緯』であげたSNSでの投稿の例は、推論の中でも、『帰納法』という手法に分類される。


 例の投稿者は、様々な『成り上がり者たちの悲惨な末路』を、何人分見たのかは知らないが、とにかく複数かつ同属性の『事例』として観測し、『恵まれない境遇を持つものは悲惨な結末を迎える』という『規則性』を導き出した。


 つまり帰納法とは、観察や実験を繰り返して集めた事例から、共通項を見出して普遍的と法則を導くわけだが、そこには多かれ少なかれ先見的謬見イドラが入り込む。


 ちなみに世の科学者は、この帰納法に基づいて研究をするのだが……


 帰納法に偏見が介在する以上、科学は完璧ではない、ということになる。


 今では当たり前になっているガリレオの地動説(先に発見したのはコペルニクスだが宗教的圧力を危惧して広く発表はしなかった)やボーアの量子論を当初、知識階級や同業の科学者でさえそれら多くが認めなかったのは、『宗教上そういうものである』とか『従来の科学』とかいう『先入観』のもとでは受け入れがたかったのであり、完璧ではなかった『従来の科学』が覆り、『新しい科学』が生まれうるわけだ。


 そんな推論の中でもメジャーな『帰納法』だが、これはほとんどの場合、『演繹法』という、対になる推論手法とセットで紹介される。


 演繹法は、具体から抽象を導く帰納法とは違って、確かな一般論を大前提として、小前提を組み合わせて、具体的な結論を導き出すタイプの推論である。


 例としてよく上がるのは、


 大前提 全ての生き物はいずれ死ぬ。

 小前提 私は生き物である。

 結論  私はいずれ死ぬ。


 バイアスによって十二分に不安定になりうる帰納法と違って、演繹法は、覆しようもない一般論、上記の場合(三段論法とも言う)は「全ての生き物はいずれ死ぬ」を前提にしているので、前提の組み方を間違えなければ、かなり正確な推論が可能になる(将来、もし不老不死が実現するならばこれも覆るかもしれない)。


 ここでようやく、胸糞の悪い投稿の話に戻るわけだが、一旦憂さ晴らしに、質の悪い三段論法で切っておきたい。


三段論法其の一

大前提 人間は、その全てが優れた頭脳・人間力・倫理観を持つとは限らない。

小前提 多くのフォロワーを抱えるインフルエンサーであろうと、所詮人間である。

結論 インフルエンサーが全て、優れた頭脳・人間力・倫理観を持つとは限らない。


三段論法其の二

大前提 全ての生き物はいずれ死ぬ。

小前提①私は生き物である。

小前提②インフルエンサーであろうと、所詮生き物である(AIだった場合は申し訳ない)。

結論 私もインフルエンサーもいずれ仲良く土に還る(ムスリム的に言えば)。


 つまりは、そのインフルエンサーに、今だけでも念仏のような御託を並べさせてやれば良い。私にも、その者にも、寿命がある。どんなしゃべくりお化けも、そのうち黙るのだ。


 冗談はこのあたりにしておいて……


壁、此拠先書き殴り——————————————


 ここからは、『素人の推論』の危険性について話したい。


 どこぞの馬の骨かわからない人間(私自身も含めて)の、あくまで主観を通して帰納的に導き出したに過ぎない推論を安易に拠り所にするのは、非常に危険だ。


 もちろん、数多の秀才(ここにごく普通の一般人も含む)や天才の血の滲む努力で生まれた推論(つまりは「科学された」もののこと。ソースが明確な学術論文やプロによる校正・校閲の入った書籍などを指したい)を信じるなら話は違ってくるが、SNSのプロフィールに、〇〇学者だとか、〇〇の専門家と書いてあるだけの、レッテルだけの中身のないインフルエンサーの妄言の信憑性は、極めて低い。


 SNSだけに限らず、あらゆるメディアで同じようなことが言える。


 硬派な『討論番組』や『教育番組』を装ったテレビ番組のパネラー、コメンテーター、自称ジャーナリスト、それにここで吠えている私のようなしがない執筆者の言葉は、センセーショナルでエンタメとしては良いが、推論の前提や事例に用いる素材としては、あまりに粗悪である(時に筋の通った宝石のような素材が転がっていることは忘れてはいけない)。

 

 つまりは、世のほとんどの推論は、信じるのにあまりに適さない。


 なら、どうすれば良いのか。


 自分の手で、頭で『科学する』のだ。


 科学者が、科学する、ように、限りなくもっともらしい推論を目指して、役に立たない材料を切り捨て、本質のみを回収し、自分だけの『学術論文』を書き上げなければならない。


 その際、可能な限りの俯瞰と、徹底的な謬見の排除に努める。


 必要な手段はもう習得している。


 演繹と帰納。


 だが、最終的に信じることができるのは自分しかいないのに、自分という存在は偏見にまみれ、さらにその自分を形成する材料は、自分以外のものでしか用意ができないというのは、なんとも苦しいことではあるが……。

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