48話 ゆめかうつつか 1

 目が覚めたローゼの目には見知らぬ天井が映った。どうやら寝台で横になっているようだ。

 辺りは暗いから時刻は夜のはずで、ならば自分が寝ていたのも道理だが、ローゼは寝台に入った記憶はない。

 いったい何が起きたのかを思い出そうとしたものの、考えはうまくまとまらずにするすると流れていく。こんなことは今までに経験がなくて不思議に思うけれど、それすらもすぐどうでも良くなった。とにかく、とても良い気分だった。


 左側は壁だったのでローゼは右側に視線をやる。真っ先に目に入ったのはすぐ近くの壁に立てかけられている聖剣だ。その少し奥には机があって、アーヴィンが本を読んでいた。


「あれ、アーヴィンだー。どうしているのー?」


 彼の横顔に向って思っただけのつもりだったのに、声に出していた。

 しかも声はなんだか間が抜けていて、それが面白くてローゼはくすくす笑った。


「目が覚めたんだね」


 本を閉じたアーヴィンが立ち上がり、寝台の横に来てローゼの額に手を当てる。彼の冷たい手がが心地良かった。


「気分は?」

「なんかね、すごーくいい気分。ふわふわしてる」

「ああ……その程度で済んで良かった」


 ほっとしたようなアーヴィンの声を聞いてローゼは不思議に思う。こんなに気分が良いのに、自分は何か心配されるような状態だったのだろうか。


「あたし、どうなったの?」

「また後で教えるよ。とにかく今はお休み」


 額から手を離そうとしたアーヴィンの袖をローゼは握る。


「やだー。眠くないー。お話しするー」

「いま話をしても、次に起きたときローゼは全てを忘れているよ」

「頑張って覚えてるもん! ねえ、いいでしょ?」

「仕方ないな」


 苦笑したアーヴィンがうなずいたので、ローゼも笑って袖を放す。

 アーヴィンは先ほどまで座っていた椅子を枕元に引き寄せ、腰かけた。


「眠くなったら、いつでも眠って良いからね」

「うん! あのね、聞いて。あたしさっきまで、レオンとエルゼが話すところみてたの。それでね、昔のこの村のことが分かっちゃった。昔だけど、神殿は同じなんだよ。それで……」


 先ほどまで見ていた夢を思い出して、ローゼのふわふわした気分は少し沈む。


「エルゼも神官様も、ずっと悲しそうだった。エレオンのことを思ってるのに、レオンには全然届かなくて、結局悪い方向に進んじゃったの」


 話しながらどんどん気持ちが沈み、ローゼの目からは涙があふれてくる。


「でもね、一番ダメなのはね、レオンなの。だけどレオンもそのことは分かったみたいだから、あたしはもう言わないでおいてあげようって決めたの。ねえ、アーヴィン。あたし、偉い?」

「うん、偉いよ」


 褒められてローゼは嬉しくなる。沈んだはずの気分が上がってきたので、目に涙をためたまま、えへへ、と笑った。


「それでね、あたし、思ったの。気持ちって、ちゃんと伝えた方がいいなって」


 なんで気持ちを伝えた方がいいと思ったのかはよく思い出せない。でも、今はふわふわして気分がいいから気にならない。


「喧嘩しちゃうのは良くないから、悪い気持ちはあんまり言わない方がいいと思うのね。でも、ありがとうとか、好きとか、嬉しいとか、そういう良いことは、もうちょっと言おうかなって思うの。どう?」

「いいと思うよ」

「やっぱり!」


 意見を肯定されて、ローゼの気分はさらに高揚する。


「んーと、そしたらみんなに、もっといろいろ言わなくちゃ。うちの家族でしょ、ディアナでしょ、乙女の会のみんなでしょ、フェリシアでしょ。それからもちろん、アーヴィンにも!」


 そこでローゼは、アーヴィンに言うべき言葉を思い出した。


「そうだ、アーヴィン。あのね、最初に会ったとき、神官服汚したでしょ。ごめんなさい。すぐに謝らなきゃいけなかったのに、なかなか謝れなかったのも、ずっとずっと、ごめんなさい……」


 申し訳なさでいたたまれなくなるローゼだが、アーヴィンは微笑んでくれる。


「気にしていたのか。ありがとう、だけど大丈夫だよ。ローゼに悪気がないのは分かっているし、私は汚れるのにも慣れているからね」

「慣れてる……?」


 確かに神官は汚れることがある。怪我をした人が血を流しながら神殿へ来ることもあるし、畑で倒れた人を抱えたりもする。他にも、老人の落とし物を拾うために泥にまみれているアーヴィンを見かけたことだってあった。

 この村で何年も経ってから、ということなら「慣れている」という言葉に違和感はない。しかしローゼが神官服を汚したのはアーヴィンがグラス村に来てすぐのことだ。そんなことがこの村の前にも頻繁にあったのだろうか。神官が修行をする大神殿は、王都という大きな街にあるというのに。


 だけどふわふわとした頭ではやっぱり考えが纏まらない。


「……違うでしょ?」


 もどかしさで泣きそうな気持ちになりながらもなんとかローゼが言うと、アーヴィンは首をかしげた。


「違う?」

「……うん。分かんないけど、慣れてるっていうのは違う気がする。……だって大神殿では、汚れなんて、そんなに」


 なんとか考えて、考えて、ようやくローゼは言葉を引っ張り出した。


「そっか。麻痺しちゃったんだ」

「麻痺?」

「うん。アーヴィンは慣れてるんじゃないの。気持ちが麻痺しちゃってるの。……でしょ?」


 息をのむアーヴィンの表情を目にして、ローゼは自分の勘が正しかったことを知る。だけどそれはとてもとても寂しいことだ。


「どうして? 嫌なことがあったから? あ、分かった、誰かに嫌なことをいっぱいされたからだ! ねえ、誰がするの? 教えて。アーヴィンが嫌だって言えないなら、あたしが代わりに『やめろ』って言ってあげる。あたし、アーヴィンのことが好きだから、アーヴィンに嫌がらせをする人のことを絶対に許さないよ!」


 アーヴィンはしばらくローゼを見つめる。やがて小さく息を吐くと、ゆっくり首を振った。


「いいんだ」

「でも!」

「ありがとう、ローゼ。気持ちはとても嬉しいよ。でも本当に、いいんだ」


 そのままアーヴィンは考え込むように目線を下げ、黙り込んだ。

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