26話 夜明け前
アーヴィンがローゼを呼びに来たのは、カップの中身が空になって少し経った頃だった。
「そろそろ支度をしておいた方がいい」
「うん」
ローゼは立ち上がる。きっと寒さで顔は赤くなっているはず。目が赤くなっているのも同様に考えてもらえるといいな、と思いながら手にしたカップを差し出した。
「お茶をありがとう。とっても美味しかった」
「それは良かった。見よう見真似だけど上手くいくものだね」
「誰かの真似なの?」
「ジェラルドのね。彼は大雑把だけれど、お茶を淹れる技術だけは大したものなんだよ」
「へえ……」
そこでローゼは、旅に出る言い訳としてジェラルドの名を使ったことを思い出した。口裏を合わせてもらうためには、アーヴィンにも言い訳の内容を伝えておかなくてはいけない。
「そうだ、アーヴィン。家族への言い訳なんだけど……」
ささっと伝えれば良いだけなのに、なぜか言葉が出てこない。アーヴィンはローゼを急がせることなく黙って待ってくれている。
「あ、あのね。誤解しないでほしいんだけど。あたし別に、そういう気持ちは全然なくて。あくまで成り行きで、これっぽっちも、そんなつもりはないから、そこは、分かってね」
弁明の言葉を先に並べ立てておいて、深呼吸を一つ。ようやくローゼも踏ん切りがついた。
「あたしが村を出る理由は、ジェラルドさんと結婚の約束をしたから、って話にしてあるの!」
二、三度瞬いたアーヴィンが口を開きかける。それを制してローゼはは更に言い募る。
「違うの違うの! だってね、昨日家に帰ったらお
「ローゼ」
「本当よ。本当の本当にジェラルドさんに恋愛感情はないの。アーヴィンが信用してるから良い人なんだろうなって思うけど、それだけよ。でも家族からは相手の名前を教えろって言われて、他にあの一団にいる人の名前なんて知らなくて、だから仕方なくて。つまり心の底から恋愛なんて関係無くて、ジェラルドさんのことは全然なんとも思ってなくて、間違いなく断言するけど言い訳するためだけのもので!」
「……そこまで否定されると、ジェラルドが可哀想になってくるな」
肩で息をしながら言いきったローゼに向け、アーヴィンはくすりと笑う。
「事情は分かった。今はそういうことにしておこうか。いずれ否定しておくし、理由も私の方で考えておくよ」
「うん。お願い」
踵を返し、アーヴィンは先に神殿へ入る。ローゼはその背中を追いかけた。
中ではいつものように清涼感のある
「ねえ。アーヴィンの出身地ってどこ?」
答えが戻るまでには一瞬の間があった。
「……もっと北の方だよ」
「ふうん、北なんだ。村? それとも町だった? まあ、どっちにせよ神殿はあるよね。そこの神殿でもグラス村のと同じ香は――」
「馬は裏庭にいる。今日はここを通ろう」
「えっ?」
急に話を切られたのには少々驚いたが、大した話ではないので問題はない。それよりも、神殿関係者だけにしか通行が許されない扉をアーヴィンが開けてくれたことの方に驚いた。この扉の先をローゼは今まで見たことがない。
「いいの?」
「構わないよ」
村の中で唯一、絶対に入れなかった場所に行ける。
やった、と心の中で呟き、ローゼは再びアーヴィンの背中を追いかけた。
年代物の青い絨毯が敷かれた廊下を進み、いくつかの扉や角を通り過ぎる。最後に曲がった先で少し様相が違う扉をアーヴィンが開くと、そこには草のそよぐ場所が広がっていた。
ここは神殿の裏庭だ。本来なら神殿の関係者しか入れない場所だが、ローゼはこっそりと忍び込んだことがあるから知っている。その翌日にアーヴィンから“忍び込んだ罰”をもらったのも懐かしい思い出だ。
この奥には神殿によく似た形の小さな石造りの建物があり、反対側には木の小屋がある。おそらくあの小屋が馬屋ではないかとローゼはにらんでいたのだが。
「馬はあそこにいるよ」
アーヴィンが指したのは、やはり木の小屋だった。
「馬具のつけ方は分かるね?」
「うん、平気!」
アーヴィンにうなずいて、ローゼは足取りも軽く馬屋へ向かう。
中にいたのは二頭だ。一番奥ではアーヴィンの乗る
分かりやすく台に載せられていた馬具を取り、ローゼは茜色の馬に近づく。
「あなたの名前を決めたわ。セラータっていうの。――今日からよろしくね、セラータ」
綺麗な首筋を撫でて、ローゼは馬具の装着を始めた。
セラータはとても大人しく、しかも賢い馬だった。思ったよりも少ない時間で支度が整ったのは、セラータがローゼの動きに合わせてうまく動いてくれたおかげだ。優しい彼女とは、この先の旅でも仲良くできるような気がする。
素敵な馬を用意してくれたアーヴィンに心からの感謝を捧げるローゼがセラータを連れて馬屋の外へ出ると、まるで見ていたかのようにして、裏庭と道を繋ぐ門が開いた。
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