9話 かたむく方向
(これは、本当のことなの? もしかしたらあたし、夢でも見てるんじゃない?)
ローゼがぼんやりしていると、再びアレン大神官の声が響く。
「……おいたわしいことでございます」
はっとして声の方を見ると、大神官はローゼを見つめたままだった。しかしその顔には先ほどまでと違い、何かの感情が浮かんでいるように思える。
「ローゼ様はごく普通の暮らしをなさっていたと聞き及んでおります。そのような方が急にこのような話を聞かされるなど……お受けになった衝撃はいかばかりか」
確かにその通りだ、とローゼは心の中でうなずく。
「ローゼ様、これより私が申し上げることは神々に背く行為なのかもしれません。しかし、あえて申し上げます」
アレン大神官の声には少しばかり哀れみが含まれている気がした。
「ローゼ様が手にされるご予定の聖剣は、四百年もの間、人の世から離れておりました。しかも最初の主様は聖剣を手にした後、十年もたたないうちに世を去っておられます」
「十年も……たたずに……」
印象深かった言葉をつい繰り返すと、アレン大神官がわずかに相好を崩して、再び引き締める。
「かねてより存在する十振の聖剣は長く人と共にございますため、その歴史も知られております。しかしその長い歴史の中、十年という短い期間で世を去られた主様など、おひとりたりともおられないのです」
十一振目の聖剣は先の十振とは何か違うのかもしれません、と続ける大神官の表情はとても切ないものとなった。初めに見た厳めしい表情が嘘のようだ。
「聖剣を手にした者は魔物と戦い続ける役目を負います。ローゼ様にとってはお辛いことでしょう。しかもそれより私は、十一振目の聖剣という正体不明の存在をお渡ししなくてはならない、そのことの方がつらくて仕方がありません」
確かに聖剣を持つからには、よく見る小物と戦うことを期待されているわけではないだろう。ときおり現れる手ごわい魔物たちとの戦いを求められるに違いない。
訓練で剣を握ったことがあるとはいえ、ローゼはまだ小さな魔物と戦ったことすらなかった。それなのに、強い魔物と戦うことなど出来るのだろうか?
正体不明の聖剣というのは確かに不気味だ。しかしそれ以上に、腕の未熟さのせいでローゼが命を落とす可能性は高い。もしかすると来年にはもうローゼはこの世にいないかもしれないのだ。
うつむいたローゼは血の気が引いてくるのを感じた。
(……あたし……どうしよう……怖い……)
足が震える。立っていられず、思わずしゃがみこみそうになる。
「ローゼ様」
そんな時に名を呼ばれた。顔を上げると、打って変わって優しい微笑みを浮かべた大神官がローゼを見ている。
「ローゼ様。もしもお嫌でしたら、断って構わないのです」
彼の声には、慈愛が含まれている。
「神々は人々を救うため聖剣を下されました。人々を救うために、です。決して苦しめるためにではありません。聖剣を振るうべき
そうかもしれない、とローゼは思った。まるで震えの延長かのように、首が何度も上下に動く。
「神は万能です。しかし神ならぬ人は万能と程遠く、できること、できないことがあります。神はそれを忘れておられる。よって、このような決定をなされてしまわれたのでしょう」
その通りだ、と思った。今度の首肯は先ほどよりも大きかった。
だってローゼはこの場にいる誰よりも弱い。それなのに聖剣の主となり、ここにいる誰よりも強い敵と戦うことなどできるはずがないのだ。
ローゼを見つめ、励ますようにしてアレン大神官はさらに続ける。
「地上は人のものです。地上において人の意思は、神々の意思よりも尊重されるべきだと私は思うのです」
彼の言葉に救いを感じ、震える手を握りしめてローゼは大神官を見る。
大神官はうなずく。彼の顔は、ローゼがこれまで見てきた誰よりも優しさに満ちている。少なくとも今のローゼにはそのように感じられた。
「良いのですよ、ローゼ様。どうぞ正直なお心のうちを明かしてください」
たった一言、できないと発すれば良い。大神官は言外にそう言っている。
ローゼが聖剣を持つようにと指示を下したのは天上の神だというのに、その神に仕える大神官はローゼのためを思って敢えて背いてくれている。
なんと優しい人物なのだろうと思って泣きたくなり、同時にローゼは心から安堵する。
きっとアレン大神官は、ローゼが聖剣の主にならずとも許してくれる。いやむしろ、彼はそれを望んでいる。こんなにもローゼのことを心配してくれているのだから。
神官よりも神に近い大神官がローゼの反意を肯定してくれているのならば、ローゼが聖剣の主を辞退したとしても神はきっと許してくださる。大丈夫だ。
(断ろう!)
そう決めて口を開いたローゼが声を出そうとしたその瞬間。
『雰囲気に飲まれないように』
耳の奥で静かな声が響いた気がして、ローゼはハッと顔を上げた。
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