第1章

1話 赤い髪と瞳を持つ娘

 この日、本を抱えたローゼ・ファラーは慌てて家を出た。

 見上げる陽は天頂から傾き始めている。友人たちとの集会は昼の後すぐに始まるのだから、もちろん大幅な遅刻だ。


(あーもう、うっかりした!)


 集会は強制ではない。行かなくたって構わないのだが、基本的に全員参加が続いている。よってローゼもできれば『特に理由もなく集会に参加しなかった最初の人物』という称号を得たくはなかった。


(今回の本は面白くて、つい読みふけっちゃった。だから遅刻したのはあたしのせいじゃないわ。本よ。面白すぎる本のせいなのよー!)


 遅刻した後ろめたさを本にぶつけながら、いつもの空の下、いつもの道を、いつもの場所に向けて、ローゼは赤い髪をなびかせながら走る。道の横にある小さな石垣を飛び越え、野原へ着地し、そのはずみでうっかり本を落としそうになって慌てて持ち直した。

 本は高価だ。しかもローゼの本ではないのだから、いっそう傷つけるわけにはいかない。

 この本は村の神殿の書庫にあったうちの一冊、つまりは神殿の蔵書だった。


 題名を見た瞬間、ローゼは一目でこの本にかれた。借りたい旨を伝えると、神殿の雑務を担う神官補佐の女性が「ローゼは本当に目ざといわ。この本はね、神官様がずいぶんとお気に召してらしたものよ」と言いながら手続きをしてくれた。


 その時に彼女が見せた驚嘆の表情を思い出して小さく笑ったローゼは、次の瞬間はたと気が付く。


(……あれ? でも、よく考えたら……あの人が気に入ってた本を、あたしも気に入ってるってことよね?)


 そう考えると神官補佐の表情は、ローゼが良い本を見つけたことに対しての驚きではなく、神官が気に入っていた本をローゼも気に入っているという事実に対しての驚きのように思えてきた。


(ええー……それって、どうなのよ)


 なんだか面白くなくて小さくうなる。同時に『神官様』の無駄に整った顔を思い出して、ローゼはわずかに眉を寄せた。


 浮かんだ彼の横顔は普段は見せない硬い表情。

 昨日、本を借りた後に会ったときのあの表情だ。


 穏やかで人当たりが良い、と村人から評判の高い神官の彼は、ローゼに対しては少しばかり意地悪な部分もある。

 だからといってあのような様子は今まで見せたことがないし、態度だってまったく彼らしくなかった。


(……あたしに何か用があったみたいに見えたけどなあ。それもなんだか、すっごく大事な用事が……)


 だけど彼は結局何も言わなかったのだ。ならば大した用ではなかったはずだとローゼは思い返す。


 どうせこの村では緊急性の高い事態など起こるはずがないのだから。


 ここは大陸の五つの国の中で西にあるアストラン王国、その中で最も西に位置する『グラス』という村。

 古い言葉で「果ての緑」というこの村は、その意味に相応しい長閑な場所だ。村人の数も周囲の町や村より少なく、争いや大きな事件など十年単位どころか百年単位で起きたことがない。娯楽らしい娯楽もないので、村人たちは噂話を一番の娯楽としていた。


 小鬼を始めとする魔物がどこかで出た話、人が誕生した話、亡くなった話。

 そして何より婚約や結婚の話など。


 グラス村やその近辺の村では十五歳を過ぎると結婚相手を探し始める。

 十代が終わるまでには誰かと婚約し、二十歳前後での結婚。

 村に生まれ、村で暮らし、村で終わる人生。


 それは今年十七歳になったローゼだって例外ではない。


 変わり者だとか気が強いとか言われる性格ではあるが、幸いにして容姿には恵まれた。鮮やかな赤い髪と赤い瞳だって珍しく、大いに人の目を引く。そのため村の男性はもちろんのこと、近くの村や町から、あるいはもっと遠くから商いに来た男性に結婚を申し込まれるのもよくある話だった。

 中には多少は心が動いた相手もいる。しかし結局のところローゼが首を縦に振るまでに至らなかったのは「自分がこの人と未来を共にする」という姿を描けなかったためだ。


 だが、いつかはローゼだって誰かを選ぶ必要がある。

 村に住む以上、結婚して家庭を持つのは『普通のこと』なのだから。


 ローゼは重いため息を吐く。

 気持ちが重くなるのに合わせて重くなった足をのろのろと進め、予想よりもずっと遅れて目的地である集会所に到着した。

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