なんてひどい、人だろうか

Jzbet

なんてひどい、人だろうか

ずっと幼い頃から真面目に過ごしていた。人としての道を逸れるような事などした事もなくて、軽いルールすら破る事に抵抗があるのが僕だった。

時は流れて大学生となり、面白みがないだとか、お堅いだとか、とっくに言われ慣れていた。今更どうやったって変えようがない僕のアイデンティティだと思っていた。

そんな僕の世界にゆらりと足を踏み入れて来たのが彼だった。


彼は僕と同じように『お堅く』見えた。

何の気なしにたまに視界に入る彼の生活態度は、ルールを守り、従順に大人しく日々を過ごしていた。

自分を変えようがないと思ってはいても、何度も人に同じように言われれば気になるというもので。そんな折に見た彼に、妙に親近感を覚えたのだ。あぁ、自分だけではない。自分以外にもこんな風に生きている人が居るのだから正しい。

こんな事を考える時点で、他者との比較で自己を肯定している時点で自己存在に対する疑問を抱いているようなものだと言うのに。

その事に酷く安心した自分がいた事鮮明に覚えている。

そのまま僕は彼と特別親しくなるでもなく、積極的に接したりもしなかった。ただ自分と同じ人がいるのだと時折存在を認識する事で心の安寧を保っていたのだと思う。




連休の前日、なんとなく足を向けた先。建物の裏手の静かで人気のないテラスに先客として彼がいた。

対して仲が良いとは言えず、ただの同じ講義をたまに受ける程度の顔見知りでしかない相手が、そこまで広くはないテラスに踏み込んでいいものかと少し悩んだ。そんな思案をしていれば、徐に彼が振り向く。

彼は少しキョトンとしたのちに、こちらを認識して『あ』と悪戯が見つかった子猫のような顔をして見せた。

身体が半分ほどこちらに振り返った彼の指には、しっかりと煙草が乗せられている。更に言うならば、反対の手には缶ビールまで持っていた。

その様に僕はひどく衝撃を受けた。密かに同じだと思っていた彼は、煙草を吸っていて酒まで呑んでいて身体に悪い、『規範』から外れた行動をしていたのだから。

そもそもここは公共の場で学舎である。そんな所でこんな行動、とてもではないが信じられなかった。



僕が何かを言う前に、彼は苦笑いをしてテラスへと僕を引き摺りこんで鍵をかけた。とても手慣れた手つきで鍵を閉めていたので、常連なのだろう。どんどんと彼に対して『裏切られた』という感情が膨らんでいく。

「見られちゃったな」

僕の眉間に寄っていく皺とは裏腹に、彼はくすくすと笑って煙草の煙でふわふわと遊ぶ。何か手酷い事を言ってやろうと思っていたのに、普段よりも自由な、気楽そうな彼を見てせっかく選んだ言葉たちが霞がかって消えていく。

それでもやっぱり、裏切られたという気持ちは消えきらなくて。苦し紛れに言葉を絞り出した。


「君は、僕と同じでこんな事には手を出さない人だと思っていたのに」


そんな恨みがましい文句のような幼稚な悪態をついてしまった。

彼はじぃっとこっちを見て、ふぅんと煙草の煙を肺に送り込み深く息を吐いた。


「俺はね、全然手を出すよ」

「なんで」

「出したいからだよ」

「でも身体に悪い。毒でしかない」

「毒も量次第では薬だよ」


そう笑ってビールを飲み干して、かつりと手摺に空き缶を置いた。


「あくまで適量ならば、別に全然悪い事じゃない」


満足そうにそういう彼に、反論出来なかった。言葉として、倫理としては反論出来ただろうが、それをしたくないと思ってしまったのだ。

そんな僕を見た彼は煙草を咥えたままニヤッと悪戯っぽく笑った。その顔に対して眉根を寄せれば、手招きをしてくる。狭いテラスなのだから十分近い距離だと思ったが、来いと言うならと素直に近付いた。

すぐに彼は煙草を口から取り去って、人の顔にふぅ、と深く肺まで吸い込んでいたであろう煙を浴びせてきた。避ける間もない行動で、もろに顔で受け止めてしまった僕は酷く煙たくて、ゲホゲホとやった。それを見て彼は心底楽しそうに大きく口を開けてはは、と笑う。

この野郎、と睨み付けてもどこ吹く風。涼しげな顔をして煙草を空き缶の中に放り込んだ。


「多少の冒険も、俺の人生には必要だと思ったんだよ」


彼はゆったりと空を最後に見上げて、立ち上がった。その姿はいつも見慣れていた彼そのもので、さっきまでの戯れは幻なんじゃないかと思いたかった。けれど染みる目や気管支を侵した煙のキツさが、まだアレは現実なのだと教えてくる。


「……キツかった?ごめんね」


ふふ、と全く思っていないような笑顔を浮かべて、彼はテラスの鍵を開けて建物内へと入っていく。それを黙って見送っていれば、ドアが閉まる直前で止まる。ドアがまた少し開いて、彼は少し不安そうに眉尻を下げてへにゃりと笑った。


「君は俺のやった悪い事を、忘れないでいてくれるだろう?」


多少バツが悪そうにするものの、そういう彼に僕はムッとした顔で「忘れるものか」と言い捨てた。だってそうだろう。裏切られた上にあんな失礼な事をされたのだから。


僕の返事を聞いて、彼は満足そうに目を閉じて頷いて微笑んだ。そうしてドアを閉じて帰って行った。

「君で良かった」

なんて言葉を残して。

酷く失礼な奴だった、僕に似ているなんて思ったのが間違いだったと暫く1人で怒る事幾許か。ある程度怒りが収まってからその日は帰宅した。




その連休明けに彼は姿を完全に消した。最初は気にもしていなかったが流石に1週間続けば気にかかる。元々大学なんて人間関係が希薄な場所であるから、どうという事はないのだが。

そう思い1人に尋ね、そして2人目、3人目。尋ねて行く度に焦りが増した。

そんな事はないと、誰かそう言ってくれ。そう希いながら人に尋ねて周り、そうして。

わかってしまった。

答えが出てしまった。

彼は死んだのだと。



どうにも彼は、ずっと病気を患っていたらしい。ゆったりとした規範通りの行動も、彼にとってはそれが精一杯だったのだと今ではわかる。規範通りだったのではなく、規範から外れるだけの行動を起こせなかった。


僕はそんな彼に、なにを言った?

酷く、失礼なことを言ったのではないかと腹の底が冷える。叫び出したいほど恐ろしくて苦しかった。

後悔がぐるぐると渦巻いて、そして。

そんな酷い後悔と記憶を抱えたまま僕は生きて行く事になった。

僕は正しかったはずなのに、どうしようもなく正しくない存在だと彼に手ずから刻み付けられた鮮明な傷跡が主張してくる。

彼と似た背格好の人を見た時。

彼の飲んでいたビールを見た時。

夜空を見上げた時。

あの煙草の香りを嗅いだ時。



君は俺のやった悪い事を、忘れないでいてくれるだろう?


そんな彼の言葉が頭に蘇る。人の記憶は声から失うというのに、全く忘れられない。


こんな酷い後悔を僕に抱えさせるなんて

ほんとうに、ほんとうにきみは

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