烟
寒河江 柊
烟
おねえちゃんが、煙草を吸ってた。煙をふうっと吐き出しながら、微笑んでた。
あたしは、もうそれだけで、何にもわかんなくなった。
◆ ◆ ◆
あたしの大好きな、ひとつ年上の、おねえちゃん。とびきり頭のいいおねえちゃんは、都内の大学に通ってる。おねえちゃんほど頭のよくないあたしは、地元のしょぼい大学。
あーあ、おねえちゃんと二人暮らしする未来も、あったのかもしれなかったのに。こんなことなら、もっと勉強頑張ればよかったかも。……いや、やっぱりそれは無理。おねえちゃんのためにならいくらでも頑張れるけど、所詮、あたしはおねえちゃんみたいに完璧な人間にはなれないもの。ね。
今日は、おねえちゃんのアパートに泊まって三日目。暇を持て余したから、東京をふらつこうと思ったのだ。ただそれだけ。
カレンダーはもう春だと言ってきかないけれど、あたしが寝起きに寒そうにしていたからか、おねえちゃんはほんのり暖房をかけてくれた。
ちなみにおねえちゃんは、腹の底ではカレンダー側らしい。あたしが来た一日目は長袖だったのに、今は五分袖を着ているから。
ついさっき、なぜだか目が醒めてしまって横を見たら、おねえちゃんがいなかった。お手洗い行ってるのかなって思ったけど、窓が開いていたので、あたしはちょっぴり恐ろしくなった。
静かすぎる。これでベランダを覗き込んでも、そこには誰もいないんじゃないか。つまり、おねえちゃんが消えてしまった気がしたのだ。
(こんなふうに思ってるあたしを、おねえちゃんは笑うかな)
大学生にもなって、というか、二十にもなって、ばかばかしいとか、子どもっぽいとか、あたしはちょくちょく言われてしまう側の人間なのだ。
――××ちゃん、お酒頼むの? まじで? 子どもなのに? ……あはは、冗談だって! 知ってるよあなたハタチでしょ。だいじょーぶだいじょーぶ……。――
いやーな声が、耳元で再生された。ああやだな、あの人嫌い。あたしより誕生日、一ヶ月遅いくせに。
こんなふうにグルグル考えていたら、ベランダからやっと物音がした。それを聞いたあたしは、まるで呪いが解けたかのように目がくっきりと冴え、ベランダへと歩むことができるようになった。
「おねえ、ちゃん」
あたしの声は変に掠れた。ひょい、とベランダに顔を出してみる。なんか、煙たい匂いがする。
「ん? ××、どしたぁ?」
振り返ったおねえちゃんは、朱いぽっちりとした光源を、指先でゆらしていた。
◆ ◆ ◆
「……そ、れ」
「んー? ああ、『わかば』だよ。不味い。不味いけど、安い」
ニカっと笑うおねえちゃんは、別人みたいだ。おねえちゃんは煙草なんか吸わないって、言ってたから。
「『わかば』?」
「そういう煙草」
「そっか」
何も、言えない。目の前にいるおねえちゃんみたいなヒトは、一体誰だろう。
「××も、吸う?」
ふにゃ、と半端に緩められた口角が嘘くさい。口から顔が裂けて、化け物がそのまま現れるんじゃないか、というばかみたいな妄想をなぜかしてしまう。――ああ、だからあたしはみんなから子ども扱いされるのか。
「吸わない」
「ふぅん」
おねえちゃんは煙草を口に運んだ。あたしはたまらず問いかける。
「どうして吸ってるの」
「おいしいから、かな?」
「……さっき、不味いって言ったじゃん」
ふは、と笑ったおねえちゃんに、「ファースト・キスの味は例外なのー」と間抜けな声を飛ばされた。
え。おねえちゃん、恋してたのか。東京で。うわあ。……ううむ。ちょっと考えてから、私はまた口を開く。
「そのひとは、」
ここでスッと息継ぎをした。ここは酸素の足りない水中みたい。「おねえちゃんの」と続けるが、「違う」と遮られた。
「恋人なんかじゃない。そんなんじゃない。全然、違う。――――お願いだから、もう、あんた、寝てよ」
……「あんた、寝てよ」という音が、わんわん頭の中で響く。子どもじゃないのに。どうして、どうしてそんなふうに、言うの。
おねえちゃんはやがて、ぐすぐすと泣きはじめた。泣きたいのはこっちだ、と思った。いつの間にか煙草は手から零れ落ちていて、ベランダのコンクリートの上で薄い朱に光っている。
◆ ◆ ◆
私は姉を信じていたのに。何もかもをさらけ出していたのに。姉はそうではなかった。
――私は姉に歩み寄り、「一本ちょうだい」と言う。
姉は涙で光る目を丸くしたが、ポケットを弄って、箱ごと渡してくれた。箱は半分ぐらいひしゃげていた。
「ライターも」
こくりと頷いた姉は、ライターも私に差し出す。ちいさな子どものよう。それに似つかわしくないブツ。
不慣れな手つきで適当に吸い始めた『わかば』は、本当に不味かったし、私は咳き込んだりえずいたりした。
でもいいのだ。この味は私にずっと残るから。
烟 寒河江 柊 @Sagae_Hiiragi
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