雲はどうして其処にあるの?

色街アゲハ

雲はどうして其処にあるの?

 随分以前の事になりますが、当時の友人が私に語ってくれた事が、今も尚ふとした折に思い出されます。私の書いた物を読んで、彼の言った言葉、「キミの書く話は、まるで子供が”雲はどうして其処にあるの?”と聞いている様な感じがする。」


 察しが悪く、理解するにも時間の掛かる自分は、聴いた当初、単に”そんな物か”と思うに止まり、それ以上深く考える事無くその場は終わったのですが、後になって、何故かその言葉が幾度となく思い出され、そうする内に、そう言えばと、この言葉、”雲はどうして其処にあるの?” について考えを巡らす事になるのでした。


 確かに、この問いには何か、単に言葉の上だけに留まらない、世界と云う物に対する率直な疑問が含まれている様に思えて来ます。何か、大事な、言ってみれば私達の生きる世界の、根源に係わる、そんな雰囲気が感じられる様に思えてならないのです。


 そんな問いに対し、さて、一般的にどんな回答が用意されているのかな、と、ある時調べてみた事が有ります。検索結果は言うに及ばず、ある意味予想通りと言うべきか。そこに書かれていたのは、雲の出来る仕組み、即ち水蒸気の上空に於ける気圧及び温度差による……。後は言うまでもないですね。それは、実に科学的に、極めて現実世界に即した、至極真っ当な答えであったのです。


 その答え自体は今も書いた様に至極真っ当で、確かに雲の出来る仕組みを説明した物として優れた物である事は疑いありません。ただ、これが先の問いに対する答えとして適当か、と云う事になると、少しばかり首を傾げざるを得ない。何と云うか、根本的な所でずれた解答と云う印象を受けます。一見した所きちんと伝わっている様で、実は何一つ伝わっていない、そんな行き違いが其処にある様に思えてならないのです。


 投げ掛けられた問いは受け取られる事なく宙を彷徨い、早手の届かない遥か向こうの雲の上。代わって届けられるのは、ただ、其処にあるから其処にある、と云う、答えている様で答えになっていない、想いの抜き取られた言葉の羅列。それが不要とまでは言わない、でも今必要なのはそれじゃない。こんなに近しいのに、こんなにも、同じ処に立って、同じ澄み渡った空の下、見ている風景も同じ。でもその目に見えている世界はどうしようもなく違う物で。目の前の、誰よりも心の置ける人は、それなのに違う世界を生きる人。


 それを受け入れるには、その子は余りに傍らの大人の人を信じ切っていて、その子にとってそれは正に青天の関礫と云うべき出来事であったでしょう。信じて繋がれた手の先に何も無いと気付いた時の、地の底に落ちて行く様な気持ちなんて。自分がこの世界の何処にも居場所の無い独りぼっちだって事に気付く経験なんて、大の大人にだって、それは耐え難い経験であるに違いないでしょうから。


 唯一、自分に通ずるように思われた遠く揺らぐ雲の群れは、到底届き得ない高い高い空の上。平板に塗りたくられた青一色の空、ずっとそれを眺めている裡、何時しか近い、遠いの感覚が失われて、その気になりさえすれば直ぐにでも其処まで手が届くなんて、そんな錯覚すら抱いてしまったばっかりに。其処では、自分の居るこの地面の上の世界とは違ってゆったりと、じっと目を凝らしていなければ分からない程に緩やかに時の流れて行く、御伽か絵本の中でしか見た事の無い世界が、其処には確かにある様に思われて。


 不意に我に返って、自分が余りに不自由な地面に足裏の吸い付いたままでいる事に、不思議と不条理を覚えて、思わず零れたその言葉。”雲はどうして其処にあるの?”


 言葉足らずのその問い、その言葉には続きがあって、


 ”どうしてボクは、ワタシは、あそこまでいけないの? どうして雲は此処まで降りて来ないの?” と。だってあんなもはっきりと、其処にあるのに、と。空の上から吹き寄せる風は、この地上にまで届いて来て、確かに其処に繋がっている事に違いないと云うのに。


 ”もしかしたら……、” だから、”きっと、ボクは、ワタシは、間違ってここに毀れ落ちて来たんだ” そんな風に考えてしまうのかも知れません。元々、あんな風にふわりふわり、と時の流れも奥行きも、とても希薄な、そんな世界の只中で、雲に抱かれスヤスヤと、夢と目覚めの間を行ったり来たり、それすら違いの無い微睡の中で、気付いたら何時の間にかこの地上の世界に立って、話して、走り回って、何時しかその事を忘れてしまっていた? 


 それか、或いは、もしかしたら気付いていなかっただけで、かつては雲もちゃんとこの地上に当たり前の様にあって、照り付ける陽の、乾いて罅割れた地面の上に覆い被さり、その身からチョロチョロと音を立てて零れる水の、萎れて項垂れた小さな花を潤して、そんな眺めに自分も花も綻んで、ああ良かったねえ、嬉しいねえ、笑い合ってゆるゆる目の前を過ぎて行く雲の後を、日の傾く時まで何時までも、そんな中に居たのかも知れない、と。それが、少し他の事に気を取られてよそ見をしたばっかりに、不意に見上げる空の上、雲は大きく遠ざかり、遂に幾ら手を伸ばしても、到底届き得ない所まで遠退いてしまっていた? もしかしたら、変わってしまったのは、雲の方ではなくて、自分の方だった? 自ら望んでかつて居た、そんな世界から遠ざかり、今居る世界へと迷い込んでいた?


 だからこそ、今問い掛けずにいられないのでしょう。”雲はどうして其処にあるの?” その理由が雲に有るのか自分に有るのか、知る事も出来ず、放り出された様に、気付くとこの地まで追い遣られる様にいた自分の、寄る辺なさ、頼りなさ。世界から切り離されて、何時しか迷子の、二度と元に戻る事叶わないこの二本の足で、立って、歩いて彷徨うだけの。


 知りたいのは、こんな心の奥にずうっと先まで続く、心の中でしか展開の仕様の無い、それは余りに理不尽な、到底叶う事の無い、御伽か魔法か、その両方か。


 そんな問いに答える事なんて。この文章にしてからが、単にその問いの意味する所を紐解いただけに止まり、その答えはおろか、其処に至る迄の道筋を見出す事すら覚束ない、まだその入り口に立ったばかりの。


 そして、この問いが、長い間ほぼ手付かずのまま放置されていた、その事に今更ながら驚かざるを得ない。昨今の人間の文明の進み具合、実に目覚ましく、自分がぼんやりとしている間に、その足取りは最早理解の外、取り残され時代遅れの前時代的人間扱いも已む無し、と云った有様。そんな中で、まるで意図的とでも云った様に、この問いが今に至る迄ないがしろにされて来た。其の意図する処ですら今の今まで考える事すらされなかった事。


 全ては心の中でのみの出来事に過ぎなくて。でも、だからこそ現実の世界の理など意にも掛けない風に何処迄も、それは最早別の世界での出来事、其処だけの理で以て展開されているとでも云った様な所まで、それは突き進んで行く。


 考え序でに、果たしてそんな世界が有り得るのだろうか、と。有り得るとしたら、それはどんな理の元、それは成り立っているのだろうか、と。そして、それが現実の世界に現われるのだとしたら、それはどんな理屈で以て表し得るのだろうか、などと、益体も無い事柄に気を取られて、終いには何を考えているのか、それすら分からなくなって。遂には、この問いを発した幼い子と同じく、遠く離れた雲を眺める様に、世界から遠く離れた彷徨う、一人取り残された自身を見い出す事になるのでした。


 前述の水蒸気云々、これもまたそんな逡巡の途中で副次的に得られた物であったのでしょう。ただ、残念ながら、それは答えには成り得ず、また別の問いに対する答えにならざるを得なかった。空の上に有るが故に、どうあっても手の届かない存在であるのに、眺めている裡に、ほんの一瞬でも、もしかしたら届くかも知れない、そんな気を起こさせる。答えなど出る筈もないのに、もしかしたらそこに至る迄の答えを見い出せるかも知れない。そんな世迷い事に心を占められて。


「だから、まだ答えは出ていないんだよ。」


「見えてるのに?」


「見えてるのに。」


「其処にあるのに?」


「其処にあるのに。」


「何時か分かる? 大人になるまでには分かる?」


「分からない。もしかしたらもっと早いかも知れないし、それとも、ずっと先、人の世の先の先、それが途絶えてしまった後になっても、それは分からないままかも知れない。」


 答えはおろか、まだその入り口にすら立っていないこの問いに、手掛かりも足掛かりも見出せず、何処に向かって良いのかすら分からないこの新しくも最も古い問いの一つに、これからも、これから先も、ふと思い出したかの様に、人はそれがほんの僅かの間であったとしても、心を占められる事になるのでしょう。


 もしかしたら、人の世の移り変わるのは、こんな長じて意味を見い出せなくなった問い、そんな事に心を割く必要を感じなくなってしまった問いに、新たな命を吹き込んで、再び誰かにその答えを追い求めるように促す為なのかも知れませんね。




                           終


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雲はどうして其処にあるの? 色街アゲハ @iromatiageha

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ