第10話 湖の異変
「あの、神様」
「名で呼べと言ったろう」
「ええと、あの、螺旋様」
「それで良い。何だ」
蛇に戻ろうか? それなら良いか? と何やらそわそわし出す螺旋様に、そうではなく、と首を横に振ってから、私はゆっくりと話した。きっと落ち着いて話せばわかってくれるはず。だって相手は神様なのだから。
「選別の儀において、螺旋様ご自身がお選びになったのは、姉の碧のはずです。姉は幼い頃からずっと螺旋様の花嫁になるために厳しく躾けられてきました。姉は、そのために生きて来たんです。螺旋様を惑わせてしまって申し訳ありません。ですが、私ではないのです。姉なんです。どんな償いでも致しますから、どうか、姉と添い遂げてください。螺旋様がお選びになったのは碧の方なんです。螺旋様の御心を浄化出来る力を持つのは、姉の碧なんです」
冷静に、落ち着いて。
そう言い聞かせていたはずなのに、気付けば私の目からはだばだばと涙が溢れていた。感情の高ぶりのままに「どんな償いでもする」なんて口を滑らせてしまったから、この場で首を刎ね飛ばされるかもしれない。その恐怖で身体が震える。映心様に向けられた刃が今度は私に飛んでくるのではと思い、思わず目をぎゅっとつぶる。
「……そうか」
だけど、螺旋様の返答はそれだけだった。
その言葉を最後に、神様は、私の手を離した。
とぽん、という音が聞こえて、恐る恐る目を開けると、そこには誰もいなかった。湖はいつものように穏やかで、鏡面のように滑らかだ。波紋の一つもない。
何とかわかってもらえた。
ホッとして腰が抜ける。
腰どころか魂まで抜けていたかもしれない。
何せ、村中を回って来たらしい映心様から肩を叩かれて気付いた時には、もうお昼を過ぎていたのだ。
「こんなところで何をしているのですか」
「え、っと。何してたんでしょうね、アハハ」
「昼食にしましょうか」
「そうですね」
よろよろと立ち上がり、湖に背を向けて歩き出す。
陽の光を受けてきらりと光った水面に違和感を少々覚えたけれど、大して気にも留めずに、私は神殿へと向かった。私は陸巫女なのだ。午後からの仕事だって山ほどある。さっさと腹ごしらえをしなければ。
その翌日のことだった。
神鏡湖に異変があったのは。
「映心様、これはどういうことなのでしょうか」
しゃがんで湖を覗き込み、隣にいる映心様に尋ねる。神様からの使いである映心様ならわかるのではないか、と。
が。
「水面が乱れていますね」
その一言である。
いや、それは私にだってわかります。
いままでこんなに波が立っているのを見たことがない。これではまるで――。
「ただの湖ですね。神様はおられません」
「え」
「恐らく、王都へ戻られたのでしょう。そういうお約束でしたから」
「そういえばそんなことをおっしゃってたかも」
王都はたくさんの人がいるから『
「我々が黙ってさえいれば、村人に悟られることはないでしょう。これまで通り過ごすだけです」
「そ、そうですね」
これまでずっとこの村が崇めていたのはあくまでもこの湖だ。神様だって姉が生まれるまでは村人に見つからないようにしていたのである。それでも多少は守ってくださっていたのか、凶作や水害もまぁ大した被害はなかった。死者は出たけれど。
姉が生まれて、婚姻の話が出てからも、だからといってものすごく豊かになったというわけでもない。ただ、長雨の季節の土砂災害は少なくなったらしい。それくらいのものだ。
だからきっと、いままで通りにしていれば大丈夫。
「それに、一応私にもそれなりの力を分け与えられています。代理くらいは務まるはずです」
「ほんとですか?!」
「翠殿が翠殿のままでいてくだされば、大丈夫かと。誠心誠意、この村のために尽くしてみせましょう」
「そういうことならお任せくださいっ! 真面目にっ! 勤勉に働いてみせますっ!」
差し出された手をぎゅっと握って、強く答える。
そうだ、これからは私と映心様で力を合わせてこの村を守っていこう。神様には王都を――ひいてはこの国をお守りになるという大事なお仕事があるのだから。姉もきっと、神様をお助けしながら末永く幸せに暮らすはずだ。
私はここで、姉は王都で、それぞれ巫女としての役目を果たすのだ。
そう決意して私は映心様と共に村のためにそれこそ朝から晩まで身を粉にして働いた。
そうして半月ほど経った頃だろうか。
今日も良く働いたとぐったり疲れて床に就き、明日やることを思い浮かべながらウトウトしていると、戸の向こうから「翠」と名を呼ばれた。びっくりして思わず身体を起こす。眠気も一気に吹っ飛んで、枕元に置いてあった上着を羽織った。
「ど、どなたですか!」
そう言いながら、サッと部屋の中を見回す。何か武器になるようなものはあっただろうか、と。けれど何も見当たらない。辛うじて使えそうなものといえば枕元に置いてある本くらいだ。それなりの厚さはあるし、表紙も硬いし、角で殴れば何とかなるだろうか。
そんなことを思っていると。
「もうおれの声を忘れてしまったのか」
しゅんと沈んだ声色で思い出す。この声は。
「螺旋様?!」
慌てて布団から出、這うようにして戸の前に移動し、開けようと手をかけてから気付く。駄目だ、私、上着を羽織っているとはいえ、夜着だ。さすがにこの恰好で神様の前に出るのは不敬にもほどがある。あと普通に恥ずかしい。
「良かった、思い出してくれたか」
「申し訳ございませんでした! 神様のお声を忘れるなど!」
「良い。それよりも中へ入れてくれ」
「えっ」
「『えっ』、って何だ、『えっ』って」
「いえ、あの、ちょっと……あの、私はいま夜着でして、その」
「だからどうした」
だからどうしたと言われれば返す言葉がない。だって相手は神様なのだ。こちらに拒否権などあるわけがない。けれどもこちらの御方は姉の夫なのである。向こうは気にせずとも、私は気になるし、姉だって良い気はしないだろう。
いや、そういえば姉は?!
どうしたものかと考えあぐねていると、「えっ、神様!?」と映心様の慌てたような声が聞こえた。
「おお、映心。よくやっているようだな」
「翠殿のお陰で、毎日勤勉に働かせていただいております」
「翠と共にいるのだから当然だな。それはそうと、その翠がおれを招き入れてくれんのだ。何でだ」
「何でだ、って。……あの、おわかりになりませんか」
「わからんな。おれは神だぞ?」
戸の向こうで螺旋様と映心様が何やら話している。
「神様の御前だからこそ、夜着姿をさらすことに抵抗があるのではないでしょうか」
そう! そうなの! 映心様、頑張って!
「おれは気にしないが」
気にしてーっ! 気にしてくださーいっ!
「神様はお気になさらずとも、下々の者は気にするんですよ」
そうです! 気にします! 何せ私、下々の者ですから!
「おれの巫女を下々呼ばわりしたな? よし、首を刎ねよう」
何で――!
ちょっと螺旋様、すぐに首を刎ねようとしすぎでは?!
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