第8話 お帰りなさいませ
「て、撤回撤回撤回! 撤回するから!」
どうにか螺旋様を説き伏せて、別室に移動した私達である。
戸をぴたりと閉めるや否や、小声ではあったけれどもかなりの勢いでそう詰め寄られ、驚きのあまり声が詰まる。
「は、はぁ? 撤回、って?」
やっとのことで声を絞り出すと、その言葉に被せるように「聞いてないわよ、あんなに素敵な方だなんて! 何が蛇よ! 騙したわね! 私が花嫁になるから! 脱いで! これ脱いで! 早く!」と言って、私が着ている白無垢に手をかける。婚姻の儀が終わるまでは、基本的にはこれを着ていなくてはならないようで、あの時姉と交換したそのままのものだ。間違っても、ずっと同じものなんて汚くない? などと思ってはいけない。
「ちょ、ちょっと待って。騙してなんかないんだってば。ねぇ落ち着いて、碧。いま脱ぐから!」
「早くして! 私があの方の花嫁になるんだから!」
「わかってるってば! 引っ張らないで! 破けちゃう!」
「破けたりしないわよ! 神様が御用意した花嫁衣裳よ?!」
小声でぎゃいぎゃいと揉めつつ、衣装を交換する。
ちらりと戸の隙間から螺旋様と映心様の様子を伺ってみたけれど、二人は何やらとても熱心に議論を交わしているようで、こちらには一切気付いていない。
手早く着物を交換し、姿見で確認する。着物を交換しただけだというのに、さっきまでとは別人に思えるのが不思議だ。私は嫁巫女の『
「さぁっ、戻りましょ!」
ウキウキと声を弾ませ、雲の上でも歩いているがごとくに浮かれている姉の姿を見れば、正直色々思うところはある。面倒なこと、汚れ仕事は私に押し付け、結婚相手が大蛇と知るや絶対に嫌だと駄々をこね、けれど、人の姿になった神様を見て、ころりと態度を変える。こんな人が嫁巫女で本当に大丈夫なのだろうか、と。
でも、全ては神様がそう決めたのだ。元々選ばれていたのは姉の碧なのである。私はただ、掃除が得意だったというだけで、湖底の清掃を任されただけ。元に戻っただけだ。
さすがにそんな浮ついた姿を見せるわけにはいかないということはしっかり理解している姉は、戸を開けた瞬間に、「戻りました」と落ち着いた声を出した。こちらに気付いた神様が、パァっと表情を明るくさせる。
「来たか、碧。こっち。こっちだ。早く隣に」
わずかな距離だというのにそれすらも惜しく思うのか、パタパタと手招いて姉を呼ぶ。そして姉はというと、まんざらでもない表情をして、小走りに神様の元へと移動した。私は、それまで姉が座っていたところに静かに腰を下ろす。良かった、バレてないみたい。
「螺旋様、そろそろ」
一刻も早く神様の花嫁になりたいのだろう、姉がしなだれかかって甘えた声を出す。神様は一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐにまた笑みを浮かべて姉の肩を抱いた。
「うむ、そうだな。――映心」
「はい」
「今後は定期的にこちらにも顔を出すことにした。信じて良いな? 万が一にもおれを裏切るようなことがあれば、即首を刎ねる故、そのつもりで」
「かしこまりました」
映心様は、さらりと告げられた、馘首宣告にも一切動じることもなかった。そして、ちらりと私を見、「ですが」と続ける。
「その心配はないかと」
そう言って、深く頭を垂れる。
その言葉に神様は、ほう、と息を吐いた。
何が何やらわからないけれど、映心様の首が無事ならばそれで良い。
「陸巫女」
「――っは、はい」
「巫女業を怠るな。お前のことも――信じている」
「かしこまりました」
深く頭を垂れてそう答える。
これが本来の姿なのだ。私は姉とは違う。神様と対等に言葉を交わすことなんて、本来はあってはならない。
私は陸の巫女なのだ。
巫女業を怠るなんて、そんなわけはない。
神様が信じてくださるというのなら、なおさら。
それに、それこそが私の仕事なのだ。
現にいま、私の頭の中は、伸び放題の雑草を刈り取ることでいっぱいだ。それにたぶん村の見回りもしていないだろうし、神殿にも埃が溜まってた。今日は忙しいぞ……。
神様が姉の肩を抱いたまま、音もなく湖へと潜っていく。二人を飲み込んだ水面は、波紋を一つ浮かべたただけだ。
それを見届けた映心様がこちらを見て、にこりと笑う。そして、
「お帰りなさいませ、翠殿」
と言った。
「え、っと。いや、私はずっと、その、ここに」
「お帰りなさいませ」
「あの」
「お帰りなさいませ」
「あの、もしかして」
「お帰りなさいませ」
「ごめんなさい、あの、もしかして、ですけど」
笑顔の圧がすごい。
私の言葉に対してとにかく「お帰りなさいませ」しか言わない映心様のその笑顔が怖い。
「私達が入れ替わったの、気付いて、たり?」
「気付かないとでも?」
バレた! という気持ちよりも、やっと「お帰りなさいませ」以外の言葉を聞けたことにちょっと安堵する。ついでに言えば、貼り付けたような笑みではなく、ちょっと呆れたような表情になっていて、それに関しても少しホッとした。
「私は、神様がお作りになったこの湖の精。『映心』、その名の通り、『御心を映す者』にございます。いままで私は翠殿の勤勉な御心を映しておりましたが、お二人が入れ替わってからは嫁巫女様の御心を映すこととなりましたので、言いつけ通りに草刈りだの清掃だのに従事しようとも、どうにも身体がうまく動かず、休息を求めてしまうのです。それで、おかしいな、と」
湖の周りがあんなに荒れ放題だったのはそういうことだったのかと合点がいくと同時に、まさか姉がそんなに怠惰な人間だったのかと衝撃を受ける。花嫁修業の反動が出たのかもしれないけど。
でも確かに、姉がこれまでに叩き込まれたのは、神様の花嫁にふさわしい女性となるような礼儀作法などが主で、掃除だの洗濯だのといった手が汚れるような家事は教えられていないのだ。やり方もわからないだろうし、そもそも自分がやる仕事だなんて思っていない。
「翠殿が湖底に溜まった
「そっか、きれいになったから、顔を出していなかったもんね」
「というわけで、湖の周りがあのようになってしまった、と。申し訳ございません」
「そんな! 私こそ」
成る程、その時近くにいる人間の心根によって、働き者になったり、怠け者になったりするってわけね。てことは私も責任重大だわ。
色々と合点がいったところで、はた、と思い出すのだ。それよりも大切なことを。あまりの恐怖にカタカタと身体中が震える。映心様にあっさりバレたということは。
「翠殿、どうなされました?」
「あ、あのあのあのあの」
「どうしたのですか?」
「こ、ここここここれって、その、か、神様はご存知だったりします、かね? だ、だって映心様にもわかるんだったら……!」
「ふふっ。さぁ、どうでしょうか」
「ど、どうでしょうかって! 映心様! 笑ってる場合ではないです!」
「そうおっしゃられましても、神様の御心は図りかねます」
「あ、あの、これってやっぱり相当まずい、ですよね?!」
いますぐ謝罪した方が良い?
あぁでも、巫女業を怠るなと釘を刺されたばかりなのだ。まずはやるべきことをやらなくちゃ。
うう、と涙を堪えながら立てかけてあった草刈り鎌を手に取る。私もお手伝いいたします、と映心様もそれに続いた。
「もし」
刈った草を集めるための熊手を担いだ映心様が、ぽつりと言う。
「神様が何もかもご存知だとして」
「え、あ、はい」
「翠殿と嫁巫女様に対してお怒りになったのであれば、いまこうして五体満足でいられるはずがありません。この村もまた、跡形もなく消えているでしょう」
「え、怖」
「ですからつまり、もし仮に、全てをご存知だったとしても、お怒りではない、ということです」
「あ、な、成る程……」
言われてみればそうかも。そうだよね。ということは、まだ気付いていらっしゃらないか、あるいは気付いた上で許してくださっているか、だ。
そのことにホッと胸を撫で下ろす。
「……うん?」
ということは、だ。
まだ気付いていらっしゃらないと仮定すると――。
「例えば、後からこの事実を知って、大激怒されるという展開は……」
「それはあり得るでしょうね」
「ですよねぇ!」
てことはやっぱり危機は脱してないってことだよね?!
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