第7話 待ちきれなかった
突然現れた見目麗しすぎる殿方に、私も姉も、まるで金縛りにでもあったかのごとくに動けないでいると、ぱたぱたと足音が聞こえて来た。きっと今度こそ映心様だ。もしかして映心様のお客様だろうか。でも、映心様は神様の使いの方だし、尋ねて来るお客様なんているのかな? いや、待って。神様の使いの方、ってことは尋ねて来るのも神様の関係者……と、目の前の男性と視線を合わせて気付く。ゆらりと揺れるように色の変わる、玉虫色の瞳。もしや。
「ら、螺旋様?!」
私がそう叫んだところで、目の前の美丈夫は満足気ににんまりと笑みを浮かべた。国が傾くどころか、夜空の星までもが零れ落ちてしまうのではと思うほどの美しい笑みである。
「そうだ。愛しいお前のことが待ちきれず、つい来てしまった。この姿を見せるのは初めてだが、気付くとはさすがだな。やはりおれの選んだ花嫁」
そう言うなり、私の手を取って引き寄せ、ぎゅっと抱き締めて来る。これまでもとぐろで軽くきゅっと絞められたことはあったけど、そうか、人間の姿だとこうなるよね! いや、こうなるのかな?! ていうか気のせいだろうか、ちょっと口調も違うような?
「ちょ、ちょっと、す――碧?! こ、こちらの御方は……?」
姉が、はふはふと鼻息荒く、真っ赤な顔で興奮しながら尋ねて来る。抱き締められたままの状態で「こちらの御方はね」と説明しようとした時、開けっ放しになっている戸の向こうから、映心様が、ひょ、っと顔を出した。そして、螺旋様を見るなり慌てて駆け寄り、片膝をつく。
「神様! まさかこちらにいらっしゃるとは! お出迎えもせずに、申し訳ございません!」
その言葉に、「神様?!」と姉が口元を押さえる。そして、慌てて着物と髪を気にし始めた。さっき直したから大丈夫だと思うけど、それでも神様の御前だもの、無理もないよね。
「構わん。それよりも映心、随分と堕落したのではあるまいか?」
険しい表情で映心様を見下ろし、冷ややかな声でそう言う。
映心様はというと、「面目次第もございません」と、深く頭を垂れるのみだ。
「いや、お前のせいではない。しかし、困ったな。いくら愛しき花嫁の妹とはいっても、目に余るようならば――」
「ま、待ってください」
何やら物騒な話になりそうで、思わず会話に割って入ってしまう。神様の言葉を遮るなんて絶対に不敬だけれども、『花嫁の妹』なんて言葉が出て来たら黙っていられない。もしかしてさっき二人で何やら休憩していたこともお見通しだったりするのかも。目に余るようならば、の後にどんな言葉が続くのかと考えるだけでも恐ろしい。
「螺旋様、その、せっかくですから、お茶でもいかがですか? その……、えっと、そのお姿なのであれば、お茶やお菓子もご一緒出来るのでは、と」
話を割ってまで言うようなことではないことはわかっている。だけれども螺旋様は話を中断させた私を咎めることもなく、さっきまでの険しい表情を途端に緩め、私の頭をゆっくりと撫でてきた。
「そうだ。そうだな。せっかくこの姿になったのだ。可愛いお前と一緒に茶でもいただくとしよう。映心、用意を」
「かしこまりました。直ちに」
きびきびとした動作で炊事場に向かう映心様を目で追っていると、「こら、おれ以外の男を見るな」と拗ねたような声が頭上から降って来た。思わず「申し訳ございません」と頭を下げようとしたけれど、そんなことをすれば、私の額が着地するのは螺旋様の胸である。それはさすがにちょっと恥ずかしい。
それで、さすがに抱き合ったままではお茶も飲みづらいからと説得し、何とか解放してもらったものの、膝が触れる距離、ぴったりと密着した状態で並んで座ることになってしまった。向かいに座る姉の視線はずっと螺旋様に注がれたままだ。気のせいかな、ちょっとギラギラしているような。
「お待たせいたしました」
映心様がお盆の上に湯呑を乗せて運んでくる。螺旋様は目の前に置かれた湯呑を持ち上げて、くん、と鼻を鳴らした。
「ふむ、良い香りだ。この場に碧がいるからだろうな。映心、命拾いしたな。これで茶の味にまで影響が出るようであればお前といえど首を刎ねていたところだ」
「く、首を!? 螺旋様、いくら何でもそれは! それに私がいるからって、私にそんな力は――」
いや、あると思っているのか螺旋様は。
だっていまの私は、『神様に選ばれた嫁巫女』、ということになっている。それを言うなら、この場に姉がいるだけで十分なはずだと思うけど。ていうか何? 嫁巫女ってお茶の味にもなんか影響あるの?!
「あの、神様」
姉が口を開いた。
「発言をお許しいただけますでしょうか」
両手をつき深く頭を下げ、おずおずと、そう尋ねる。
そうだ。普通はこれが正しいのだ。こんな気安く言葉を交わせるはずがないのである。
螺旋様は、目を細め、ふん、と鼻を鳴らした後で「構わん」と吐き捨てた。私と姉は母親ですら間違えるほど瓜二つであるというのに、私との態度に天と地ほどの差がある。
「姉は――、碧は幸せに暮らしておりますでしょうか」
「何?」
螺旋様の眉がぴくりと動く。眉間に深いしわが刻まれ、一目で気分を害したとわかる表情だ。姉がびくりと身体を強張らせ、「申し訳ございません!」と慌ててさらに深く頭を下げる。ほとんど床に額をつけている状態だ。
「何分、こちらからは湖の中を伺い知ることが出来ないものですから! 妹として、姉がどのように暮らしているかを案じたまでにございます!」
額を床に擦りつけたまま必死にそう訴える姉を見て、螺旋様は、少々面倒くさそうに小さく息を吐いたが、「
「良い、わかった。幸せも何も、このおれの寵愛を受けているのだから当然だ。これ以上の幸せなどあるわけがない。そうだろう、碧」
「ひえっ!? は、はい。それはもちろん」
急に名を呼ばれてどきりとする。
神様からの寵愛。これは本来は碧――いまは妹である私の振りをしている、目の前にいる姉が受けるべきのものだ。私が答えて良いものだろうかと、そんなことを考えてしまい、ほんの一瞬だけれども、返事が遅れる。
と。
「碧、どうした。何やら歯切れが悪くないか? まさか、このおれの愛を信じられないとでも?! 足りなかったか?!」
「い、いえ! 滅相もございません!」
「お前が望むのならば、どんなものでも用意しよう。このおれに出来んことなどないのだからな」
「それは存じ上げております! ですが、私はそんなにたくさんいただかなくても!」
「そうか? まだ足りなくはないか? 何せ、この後は婚姻の儀が控えているわけだし。おれにはよくわからんが、人間には他にも色々必要なものがあるんだろ?」
姉と話していた時とは別人かと思うくらいの甘い声で囁かれ、後頭部を撫でられる。
「恐れながら神様。一つよろしいでしょうか」
そこへ映心様が深く頭を下げながら加わって来た。
「どうした」
「婚姻の儀を執り行うということであれば、その後は初夜がお控えになられているかと存じますが」
「当然だ」
「人間の花嫁は初夜をことのほか大事にしていると」
「ほう。それは興味深い」
「互いに身を清め」
「ふむ。ならば浴場を設える必要があるな」
「酒を用意し」
「よし、最高級の酒を用意せねば」
「それから、照明にこだわるなど、床の雰囲気作りも重要とのことです」
「成る程、蓬莱山の宝の枝でも採ってきて飾るか」
いつの間にか映心様は顔を上げていて、ちょいちょいと螺旋様に手招かれ、肩を組まれている。それで、何だか秘密の相談でもするかのごとくに顔を近付けてひそひそととんでもないことを話しているのだ。
待って!
蓬莱山の宝の枝って、それ、伝説のやつでは?! 存在するの?!
何だかもうめまいがして来た。
ていうか、どうしよう。このままだと私が螺旋様と結婚することになっちゃう。さっきはこれからも私が碧の振りをして、なんて言われたけど、でも絶対に駄目だよ!
初夜とか、無理無理無理無理!
だって私の腿には痣があるのだ。
大人達からさんざん『醜い』と蔑まされてきた痣が。
それを見られたら終わりだ。
いまになって思えば螺旋様も蛇なわけだし、それを醜いなんて言ってはいけないとわかっているけれど、幼い頃からずっと大人達から醜い醜いと言われ続けてきたせいで、その考えがどうも拭えない。蛇を可愛いと思う気持ちと、この痣を醜いと思う気持ちはまた別なのだ。
そっと腿に触れる。
痛みはない。
ただ、あるだけだ。
ふと顔を上げれば、やはり少々興奮気味の姉の姿が目に入った。私と目がぱちりと合う。すい、とその視線が泳いで、隣の部屋を示した。
ちょっと向こうで。
そういうことだろうと思い、私は小さく頷いた。
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