第4話 大蛇様の正体は

「大蛇様をお名前で、ですか?」

「もし、碧が嫌でなければ、だが」


 そう言うなり、長い首をにょろりと持ち上げ、私から視線を逸らす。もしかしてちょっと照れてたり? まさか。でも、何だかすっごく可愛い!


「嫌なんてことはございません。あの、これからもここに住まわせていただくことになるのですから、ぜひともお名前を教えていただきとうございます」


 名前を聞いたら姉にもちゃんと伝えなくちゃ。それで、碧が思っているような恐ろしい大蛇様ではないんだよってことも。見た目は確かに大きくてちょっと威圧的かもしれないけれども、全然怖いことなんてなかったよ、って。それどころか表情豊かでめちゃくちゃ可愛いんだから! って。いや、可愛く見えるのは私だけかもしれないけど。


螺旋らせんだ」

「螺旋様とおっしゃるのですね。ではこれからはそう呼ばせていただきます」

「頼む」

「それでは螺旋様、顎の下の苔に取り掛からせていただいても?」

「うむ」


 私の手が届くように位置を調整してくださった螺旋様は、やはり目をうっとりと細めている。


「痛くないですか?」

「いや」

「痒かったりですとか」

「全然」

「くすぐったかったり」

「それなら多少は。でも、気にしなくて良い。むしろ」


 碧の手は心地が良い。


 その言葉と共に、またしても手をぺろりと舐められる。さっきはかなり驚いたけど、二回目なのでさすがに多少の心構えは出来た。恐らく、大蛇様にとってはたいして深い意味のない行動なのだろうと思う。当然ながら大蛇様には私達のような手がないわけだし。きっと、人間でいうところの握手とか、そういうやつだと思う。これも姉に報告しなくちゃね。


 結局、螺旋様のお身体をきれいにするのにも三日かかった。

 

「碧、ここの生活は退屈ではないか」


 すっかりきれいになった湖底は、はるか遠くまで見渡せるほどで、そこを悠々と泳ぐ螺旋様の身体は、まるで玉虫色の宝石だ。これなら湖の神様もきっとお喜びになるはずだと、私は満足感でいっぱいである。


「退屈ではありません」


 何せずっとやることがあったのだ。といってもひたすら掃除だったけど。それに、身体が軽くなったのが嬉しいと言って、螺旋様は私をその背に乗せ、湖の中を悠々と泳いでくださったのである。景色はほとんど変わらないけれど、まるで空を飛んでいるみたいで気持ちが良い。それから、螺旋様が泳ぐ様をぼぅっと眺めるもの好きだ。キラキラと降り注ぐ陽の光を受ける螺旋様のお姿は丁寧に磨き上げられた宝石のようである。私! 私です! 私がきれいにしたんです! と、何だか誇らしい気持ちになる。見る人なんて私しかいないんだけど。


「この湖の中にいる限り、疲労や空腹を感じることはないが、人間というのは、食や休息に楽しみや癒しを求めるものだと聞いたが」

「そうですね。もちろん、あるに越したことはないです」


 特に姉は甘いお菓子が大好きだし、いくらお腹が空かないと言っても、そういう甘味というのは別腹なのだ。


 神様の花嫁になるにあたり、姉が楽しみにしていたのは優雅で贅沢な暮らしだった。もちろん嫁巫女としての務めはあるだろうけれど、それでもきっと、きれいな着物を纏い、たくさんのきれいなものに囲まれ、そして美味しいものを山ほど食べられるだろう。人々からは崇められ、女性からは羨望の眼差しを向けられるはずだ、と。


 けれど蓋を開けてみれば――、これだ。


 視界が不明瞭になるほどに汚れた湖底の掃除を課せられ、その上、苔まみれの大蛇様のお身体を清めなくてはならない。湖の中では疲れることも腹が空くこともなく、ただただ黙々と目の前の汚物を片付けるのみ。夢にまで見た神様との華やかで幸せな結婚生活の始まりがこれでは、出鼻をくじかれても仕方がない。


「ちなみにこちらではそういった、娯楽といいますか、嗜好品のようなものは――」

ここにはないが、もちろん外から用意することは出来る。もし碧が望むのならば、どんなものでも」

「本当ですか?」


 良かった!

 じゃあ姉と交代する前に彼女のために美味しいものとか、きれいなものをたくさん用意してもらおう! そしたらきっと碧は喜んで嫁ぐはず!


「もちろんだ。も見違えるようになった。その礼もしたい。何なりと申してみよ」

「ありがとうござい――ううん?」


 我が湖って言った?

 我が湖、って、ここは神様の湖のはずでは……?


 まさか。

 まさかと思うけど。


「え、っと。その」

「どうした。遠慮せずとも良いのだぞ。この私に出来ぬことなど何もない。碧が嫁いで来てくれなかったら、あともう少しで危うく荒御魂あらみたまとなって、この村を水の底に沈めてしまうところだったのだからな。礼をしたい」


 荒御魂!?

 いま荒御魂っておっしゃった、わよね?!


「ちょ、ちょっとあの、一点確認させていただけますでしょうか」

「何だ?」

「あの、えっと、ご、ご無礼を承知ではございますが、その」

「どうした。私とお前の仲ではないか。何をそんなに畏まっている」

「か」

「か?」

「かみ」

「紙? 紙が欲しいのか? 何か書き物でもするのか? あぁそうか、陸にいる妹巫女への手紙だな。どれいますぐに――」

「い、いえいえいえ! ではなく! 紙ではなく! あの、か、神、神様でしょうか? その、あお――えっと、私の旦那様の?」


 まさか。

 違うよね?

 違うと言って!

 だって私達、聞いてないし!

 神様が大蛇だなんて聞いてないし!

 姉だってきっとびっくりする。ううん、びっくりなんて生易しいものじゃない。もしかしたら倒れてしまうかも。まさか自分の夫が大蛇だったなんて知ったら……!

 

 だからお願い、違うと言って!


 必死に祈った。

 これでも一応は巫女なのだ。

 祈りの力は人よりあるはず。

 そう思って必死に祈った。

 どうかどうか違いますように。

 いくら何でも姉のお相手が大蛇だなんて、と。


 が。


「何をいまさら。我こそがこの湖に住まう神、そしてお前の夫となる螺旋である」


 ですよねえええええええええ!


 私の祈りはむなしく、どうやらこの目の前の大蛇様が姉の――いまは私だけれど――結婚相手らしい。


「長かった」


 がくり、と肩を落とす私をぐるりと囲み、螺旋様がぽつりと言う。


「どれだけ、この日を待ったか」

「え」

「お前が生まれて来る日を、私の元に嫁いで来る日を、ずっとずっと待っていた」


 しみじみとそう言って、私の身体にほおずりをする。その声が寂しそうで、思わずその身体に触れた。玉虫色のその身体は、ふに、と軽く指で押すとそこだけが少し色が変わる。


「碧が一刻ほどここを空けた時、もう戻って来ないのではと思った。良かった、戻って来てくれて。お前はずっと私といてくれるな?」


 縋るような目を向けられ、祈るような声でそう言われてしまえば、あともう少しで姉と交代するというのに、


「もちろんです、螺旋様」


 そう答えるしかなかった。


 それに、正直なことを言えば、この美しい大蛇様と離れるのはちょっと寂しくもある。

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