第3話 湖底に住まう大蛇

 湖の中は思ったより深かった。

 けれども、姉から聞いていた通り、陸と同じように呼吸が出来る。水の中にいる、という感覚はさほどないものの、あれだけの高さから落ちたはずなのに、湖底へはふわりと着地することが出来たところから推察するに、やはり水中ではあるらしい。


 それで、だ。


「うっわ……」


 きたなっ。


 という言葉は辛うじて飲み込んだ。

 何せどんなに汚れていようとも、ここは神様の住まう湖なのだ。

 けれども、思わずそう口走ってしまいそうになる。 

 何せ辺り一面がヘドロまみれなのだ。潜るにつれてどんどん視界が悪くなっていくほどに。

 掃除をするも何も、道具は何を使えば良いのか。そもそも、このヘドロはどこに捨てれば良いのか。これは掃除の心得のない姉だって途方に暮れるだろう。それでも一応、姉の三日間の頑張りらしき小さなヘドロの塊はあった。一箇所に集めてみたりはしたらしい。まだまだ残ってるけど。


 とりあえず、今回、姉が私を訪ねて来たことから湖の外へ自由に行き来出来ることはわかった。だったら、このヘドロは湖の外に出せば良いのではないだろうか。そしてそれを陸にいる姉――はやってくれないかもだけど、きっと映心様ならどこかへ埋めてくれるはずだ。よし、その作戦で行こう。


 そうと決まればちゃちゃっとやったろうじゃない。


 そう意気込んで、どすどすと鼻息荒く一番大きなヘドロの山に向かって歩き出す。

 さっさとここをきれいにしないと姉が嫁げない。姉の幸せな結婚生活のためにも早くしなくちゃ。


 そう思って、そのヘドロの塊に手を伸ばす。


 と。


「花嫁よ」


 ヘドロの山が、もぞり、と動いた。


「ひょわ!」


 ヘドロと思っていたそれは、とぐろを巻いた大蛇だったのだ。驚いて飛び退る私に向かって、にょろり、と首を伸ばしてくる。そうだ、姉も言っていた。湖底には大蛇がいると。思った以上の大きさだ。ここまで来ると大蛇というよりも龍である。


 でっっっか!


 予想以上に大きいな!

 でも、可愛い!

 いや、可愛いとか言ったらさすがに不敬かな?!


「一刻も、どこへ行っていた」

「え、っと。申し訳ございません。あの、書置きを残しておいたのですが」

「私は見ていない」

「あの、実は家に忘れ物を。それで取りに帰っただけでして」

「一刻もか」

「申し訳ありません、妹のすいとついつい話し込んでしまいました」

「そうか。それで、何を」

「え」

「何を取りに行って来たのかと聞いている」

「え、あ、あぁ!」


 それはですね、と袂から長い紐を取り出した。良かった、念の為に持ってきておいて。


「こちらです」

「何だそれは」

「これは、たすきです。あの、これをこうして……」


 口で説明するより早いだろう、と手早くたすき掛けをし、袖を押さえる。


「はい、このように!」

「……だから、それは何だと聞いている」


 えっ、伝わってない?!

 そうか、大蛇様にはわからないのか。使わないもんね、どう考えても。


「ええと、これはですね。着物の袖が邪魔にならないように押さえるものでして」

「ほう」

「これから湖底の大掃除をするにあたり、この袖がどうしても邪魔で」

「成る程。そこまで気が回らずに申し訳ない」

「い、いえいえっ! 大蛇様が気に病む必要はございません!」


 わからなくても仕方がないよね。だって蛇は着物なんて着ないし。


「というわけですので、早速始めてもよろしいでしょうか?」

「うむ。頼む」


 そう言うや、大蛇様は再びとぐろの中に首をうずめた。この大蛇様が何なのかはわからないが、とりあえず。気にしないでおこう。可能性として考えられるのは神様の飼い蛇だ。一応姉の振りをしないとだから、言葉遣いも気を付けなくちゃ。


 それからは、休みなく働いた。

 ヘドロの掃除は思っていたよりも大変だったけれど、予定よりも早くに片付きそう。というのも、一回目を湖の外に出した時、たまたま近くを通りがかった映心様に「これから湖底のヘドロをここに運ぶので、どこか適当なところに埋めてもらえませんか」とお願いしたところ、快く引き受けてくれたからだ。それで、二回目にヘドロを運んで来た時には最初に運んだものはすっかり撤去されていたのである。さすがは働き者の映心様! そりゃあ神様の湖の周りにヘドロが積み上がっていたら景観を損ねてしまうし、神聖さが薄れてしまうもんね。本当に助かります!


 約三日、働きに働いて、やっと湖底のヘドロはすべてなくなった。これで終わりかと思ったけれど、まだ汚れているところはある。


 大蛇様の身体だ。


「大蛇様」


 つん、とその大きな身体にそっと触れる。その身体には、苔がびっしりと生えていて、その苔にもヘドロが絡みつき、酷い有様である。


「どうした花嫁」

「あの、出過ぎた真似でしたら申し訳ないのですけれど」

「何だ。申してみよ」

「大蛇様のお身体もきれいにして差し上げたいのですが、ご迷惑ではありませんか?」

「迷惑? 何故そう思った?」

「あの、例えばですけれど、こちらの苔、あった方が良かったりするのでは、と。その、なんていうか、大蛇様のお身体に必要なものだったりするのかも、と思いまして。私、大蛇様のお身体のことはよく存じ上げないものですから」


 人間が衣服を纏うように、もしかしたら大蛇様も苔を纏っている方が何かと都合が良い、なんてことも当然考えられると思ったのだ。だとしてもヘドロまみれなのは嫌だろうけど。


 そう思い、恐る恐るそう尋ねてみると、大蛇様はポカーンとした顔をした。蛇の表情なんてわかるわけがないはずなのに、なぜかそう思った。なんだかかなり驚いているように見えたのだ。


「……そんなことはない。これまでは脱皮を待っていたが、ここまで酷いとそれも一苦労でな。花嫁さえ良ければそれも頼みたいと思っていたところだ」

「あ、そうか、脱皮なさいますよね。でも、取り除いた方が良いのであれば」


 では、失礼して、と苔に手をかける。爪を引っ掛けて力まかせに剥がしてみると、苔の下にあったのは、玉虫色に輝く美しい鱗だ。思わず「わぁ」と声が出る。


「どうした。何かおかしいか」

「いえ、あまりにも美しくて」

「美しい?」

「ご自身のお身体をご覧になったことはないのですか? こんなにおきれいなのに」

「もうずっと見ていない。湖底は見ての通り――といってもいまは花嫁のお陰で見違えるようにきれいになったが、酷いものだったからな。視界もずっと悪かったし、気付けば身体もこの有様で」

「そうだったんですね。もう少しの辛抱ですよ。すぐにきれいにして差し上げますからね。もし、痛かったりしたら申し訳ありません」

「構わぬ」


 その言葉通り、大蛇様は私が少々手荒く苔を剥がしても痛がる素振りも、嫌がる素振りも見せなかった。ただ稀に、その大きな瞳をきょろりとこちらに向けてうっとりと細める。瞼のある蛇なんて初めて見たけど、表情がわかりやすくて助かる。そして、そんな瞳を見れば、もしかしたら痛いとか痒いとかではなく、むしろ気持ちが良いのでは、なんて思ったりして。


「花嫁よ」

「はい」

「まだ名を聞いていなかったな」

「そういえば。え、っと、碧と申します」

「碧か」


 あおい、あおい、と何度も小さな声で繰り返す。その声も何だか弾んでいるような気がする。最初、ここに来た時の大蛇様はヘドロにまみれていて、ぐったりとしており、動きも何だか緩慢だったのだ。もしかしたら身体中にびっしりと付着しているヘドロや苔のせいで動きが鈍かったのかもしれないし、周囲の環境が良くなったことで元気になったのかもしれない。だとしたら嬉しい。


「もし良ければ、だが」


 顎の下の苔に取り掛かろうとした時、ぺろり、とその長い舌が私の右手を撫でた。突然のことに驚いて、「ひゃあ」とおかしな声が出る。大蛇様は「驚かせて済まなかった」と丁寧に詫びた後でもう一度、「碧がもし良ければだが」と言い直した。


「どうなさいました?」


 やや後退して、しっかりと視線を合わせる。

 そしてそう尋ねると。


「私のことも名前で呼んでもらえまいか」


 もじり、と身をくねらせて、大蛇様はそう言った。

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