第2話 姉からのお願い
「それで、一体何があったの?」
お茶とお菓子を勧めながら続きを促すと、姉は実に優雅な所作でお菓子の包みを開いて、控えめに齧った。小さい頃から神様の花嫁として厳しく躾けられてきた姉は、こんな時でもせいぜい手づかみで食べるくらいの『やけ食い』しか出来ない。これでもきっと彼女の方では相当に「行儀の悪い行為」のはずだ。私は、いつも通りに大口を開けてがぶりとかぶりついちゃうけど。それを見て姉は「翠ったら下品なんだから」と吹き出すのである。
それでも一応、気心の知れた妹と二人きり、ということもあってか、いつもぴしりと伸びた背中を丸め、足を投げだして座っている。少しでも素の自分をさらけ出してくれているようで嬉しい。
それで、姉の話ではこうだ。
婚姻の儀は湖の底で行われることになっていた。白無垢を纏った花嫁しか入ることは許されないということで、姉はたった一人で湖の底へと潜っていった。なので、私はもちろん、両親でさえも、あの湖の底で一体何が起こったのかはまったくわからない。どれだけ荘厳な儀式が執り行われたのか、そしてそもそも、湖の神様とはどのようなお方なのかさえ。
けれども、使者でさえあれだけの美しさなのだ。であれば神様はそれ以上に麗しい方に違いない。大人達も、また、姉の方でもそう思っていた。そして、鏡のように滑らかで美しい湖の中で、毎日幸せに暮らすのだ。
――と誰もが思っていた。
のだが。
「湖の底はそれはそれは酷いものだったの。そこら中ヘドロみたいなものが沈んでて汚いし、その真ん中に、大きな蛇がいるのよ」
「大きな蛇?」
大蛇が住んでいるなんて初めて聞いた。神様の飼い蛇か何かだろうか。
私は小さい頃から野山を駆けずり回っていたから、蛇なんて慣れっこだ。それに大腿の痣の件も相まって、妙に親近感があるというか、なんというか。薄くなっているとはいえ、長い付き合いである。正直ちょっと愛着も湧く。そういう理由で、私の中で蛇は特別な生き物だったりする。大人達は必要以上に嫌っているけど。でも普通に可愛くない? あのまん丸な眼とか、最高に可愛くない? なんて大きな声では言えないけど。
「そう。それで、その蛇もとても汚いのよ。苔まみれのヘドロまみれで、一日中うねうね動いてて気味悪くって。そういうのに慣れ親しんでる翠じゃあるまいし、私、蛇なんて絶対に無理! 汚いし、蛇もいるし、あんなところなんて耐えられないわ」
「それは……大変だったね。それで、その、神様は? もうお会いしたの?」
「それがまだなのよ」
それも馬鹿にしてると思わない? 姉はそう言って、飲み終えた湯呑を置く。
「実は婚礼の儀もまだなの。その蛇が言うには、まずは湖底の掃除からなんですって。それがきれいにならないことには、儀式なんて出来ないって」
「掃除って、そのヘドロを?」
「そうなの。だけど、そんなのどう考えたって私がやることじゃないわよ。私、神様の花嫁よ? 私には無理!」
「えっと、誰か他にいないの? 神様のお世話をする方とか」
何せ、神様は少なくとも二度、こちらに使いの方を寄越しているのだ。ただまぁ、その使いの方というのは――。
「翠殿。お茶のお代わりをお持ちしました」
すぅ、と戸が開いて、すらりとした細身の男性が姿を現す。
彼の名は
十八になり、姉の婚姻の準備が始まった時に湖から現れ「神様の命により、嫁巫女様の妹君をお手伝いするために参りました」と言って、この神殿に住み着くようになったのである。大人達の話では、彼こそが、私達が産まれた際に婚姻話を持って来た、そして選別の儀を執り行った方なのだという。まさか神様ともあろう御方が、従者を一人しか持っていないなんてことはないと思うんだけど。
確かに男手があるのは助かる。
この村の言い伝えでは、陸にいる巫女は一人だけ。母は私が
湖周辺は巫女以外立ち入ることを禁じられているため、結構な力仕事でも巫女が一人で行わなければならないのである。村を回る御用聞きは帯同が許されているけど、父も含む歴代の婿達は、「それも巫女の仕事だ」とあまり手伝わなかったらしい。
けれど、神様が直々に手伝いとして寄越してきたのならば話は別だ。映心様のお陰で一日中かかっていた草刈りも半日で終わるし、御用聞きもずっと楽になったし、味気なかった食卓も随分とにぎやかになった。
「ずるいわ、翠ばっかり」
「えっ?!」
「私だって映心様みたいな素敵な方と一緒にいたい」
「えっ? そんなこと言っちゃ駄目でしょ! 碧は神様の花嫁なのよ?!」
「だって、その肝心の夫である神様には会えないし、湖底は汚いし、せめて映心様みたいな従者の一人でもいたら目の保養にもなるというのに、蛇よ? 蛇しかいないんだから。私、きっと騙されたんだわ。何が神様の花嫁よ。 何が女の最上の幸せよ。こんなことなら私が陸巫女になれば良かった! 翠はずるい!」
わぁぁん、と声を上げて泣く。その姿を見れば本当に不憫に思うけれど、かといって私に何が出来るというのか。だって選ばれたのは姉なのだ。ずるいって言われても。
ひとしきりワンワンと泣いた後、むく、と顔を上げた碧は、「お願い、翠」と私の手を取った。
「え、何」
「あなた掃除得意よね?」
「それは、まぁ、毎日やってるし……」
「掃除だけで良いから」
「は、はぁ?」
「湖底のヘドロ掃除だけで良いから替わってくれない?」
「えっ?! 駄目に決まってるじゃない。私は花嫁じゃないんだし」
「大丈夫よ、私達、そっくりだもの。それに私、まだ神様にだってお会いしてないのよ? バレやしないわよ」
「それは、そうかもだけど」
この会話は映心様もお聞きになっているはず……と思ったけど、彼はいつの間にか席を外していた。聞かれてないなら、大丈夫、なのかな。
「じゃ、じゃあ、掃除だけ、なら」
「もちろんよ。湖底がきれいになりさえすれば、神様が来てくださるはずなの。そしたら、また戻れば良いんだから」
「そ、そうだよね。掃除だけ、掃除だけなら」
「あっ、出来ればあの蛇もどうにかしてほしいんだけど。追い出してよ」
「駄目よ。神様の飼い蛇かもしれないでしょ」
「仕方ないわね。神様にお会い出来たら直接お願いすることにするわ。花嫁のお願いだもの、聞いてくれるわよね」
そういうことで、私達はその場で着ているものを交換し、入れ替わったのである。私達は実はこれまでも、日常的にちょいちょいと入れ替わっていた。
というのも、姉は幼い頃から花嫁になるため、『花嫁修業』と称して様々な作法やら勉強やらで自由な時間なんてなかった。私が外で陸巫女になるために湖の管理法を学んだり、炊事洗濯掃除の手ほどきを受けたり、村中を回って御用聞きをしたりと、のびのび暮らしている間、姉はずっと神様の花嫁としての重圧に耐えていたのだ。それが可哀想で、私が簡単なお使いを頼まれた時なんかは、こっそりと入れ替わって、姉にも外の空気を吸わせたりして。
家族の誰も気付かなかった。
母親でさえもだ。
お互いに、お互いを演じるのだって慣れている。
だからきっと大丈夫。
絶対にバレない。
現に――。
いま、映心様だって、一切疑うことなく見送ってくれている。姉に成りすました私を、私に成りすました姉の隣で。
唯一の懸念事項としては、果たして私にも湖に潜る資格があるのだろうか、という点だったか、そこは問題がないようだった。一応私だって『巫女』なのだ。ちゃぷ、と恐る恐るつま先を浸してみると、不思議な感触である。水の中のはずなのに、温度も水圧も感じない。ただ、空気の膜を破ったかのような感触だった。
ここでためらっていたらさすがに映心様に怪しまれる。
そう思い、ぎゅっと目を瞑って、鏡のようなその湖の中に飛び込んだ。
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