13

 自分の人生に対して漠然とした焦燥感を抱いていた。

 当初は正体を「早く死ななければならない」だと考えていた。実際のところ、一面的には正しい。けれど、もう一面的には異なる。最近になってわかるようになった。


 それはきっと「生存を許されなければならない」。

 私は生きることを許可されていない。

 誰も私に、生きていていいと言ってくれない。

 自分でさえ自分の生きている価値を見出せていないのだから、他人の許しを得ていない私は、死んで然るべきなのだと思う。義務、あるいは自然の摂理。

 そうやって問いかけたくなる。



 天文部で先輩と話せる機会は残り少ない。だから私は部室に行くべきだ。

 けれど。

 翌日、私の足は躊躇いに沈んでいた。原因はどうしようもなく厳然と理解できていた。


 私は、拒絶されることが怖かった。

 例えば、正気に立ち返った先輩が知らぬうちに死を選んでいたり。例えば、先輩が私と関わらないで進む道を見つけていたり。

 私には翼が無いから。選択権なんてなくて。全ては先輩が私を受け入れてくれるかどうかにかかっていると思う。先輩に受け入れてもらえないことが怖かった。会いに行くべきであるのに、未確定の結果を遠ざけたい。同時に、会いに行きたい想いがあった。相反する二つのベクトルが身体の奥を締めつけるようで、苦しかった。


 私がこんな風に悩んでいるのだから、先輩だって同じように悩んでいてほしい。と、私の事情に先輩の事情を乗せてしまいそうになる。

 いっそ昨日が金曜日なら良かったのに。そうだったら、悩みは土日に預けられた。

 もしくは明日が金曜日なら良かった。まだ時間がある、と自分に言い訳ができた。

 でも、現実はそのどちらでもない。金曜日は、今日。

 金曜日が、初めて牙を剥いた。



 放課後。迷った末、私は部室に向かっていた。階段を上るにつれて、文化祭準備の喧騒が遠ざかっていく。クラス教室には一度も顔を出していない。本当に、先輩に会うためだけに登校していた。

 旧校舎の床が軋む音に遠慮するように、歩幅は小さく、足取りは遅くなる。反比例するように、思考だけが加速する。

 私を嘲笑う空室を想像する。

 吊り下がる死体を想像する。

 空虚と化した彼女を想像する。


 震える手を、ドアノブを強く握ることで否定して、私は部室の扉を開いた。

 息を呑む。聞こえた音は、『生まれ落ちる世界』。

 始まりと、終わりと、停滞とが全て内在するような静かな楽曲。聴く人の感情によって楽曲の印象が変わる、なんて話は私がたった今考えついたことだけれど、あれば面白いと思う。このとき私の抱いた印象は――


「やあ、十河さん」

「……」

「どうしたの? 幽霊でも見るような顔をして」

 千条先輩のいる部室、生きている彼女、私を映す彼女の瞳。

 心の裡で、焚き火の薪のように爆ぜる何かがあった。

 もっと素直な人間になりたかったと思う。そうだったら、きっと私は先輩に縋って、先輩の輪郭を確かめていたと思う。けれど、できなくて。そんな風にはなれなくて。私はひとりで、炎が消えるまでを耐えていた。

 私は瞬きに紛れるように顔を伏せ、黙って歩いて椅子に座る。


 いいえ、嘘。炎が消えるまでの最後の煌きを、一言だけ、正直に口に出した。

「……ありがとうございます」

 まだ私を拒絶しないでいてくれたことを。先輩との世界が継続することを。

 先輩の顔をまっすぐに見つめた。

「こちらこそ、だよ」

 私を見つめて、瞬くようにして言った。



 本を読む、スマホを触る、勉強をする――。ひとりで時間を潰す手段には枚挙に暇がない。それらのほとんどは、他人の視線から逃れる手段にほぼ等しい。目的なんて、そのくらいだと思っていた。

 それなのに、今、先輩は私と並んで椅子に座り、肩をぴたりと寄せて本を読んでいる。私も本を読んでいる。各々、別々の本。相手の呼吸のリズムまでよくわかった。私のページは一向に進まなかった。非効率的だった。

 どうしてこんな状況に? 事の変化は微睡みに揺れていたときのように緩やかで、気がつけばこうなっていた他にない。


 でも、私は野暮というものを知っているから、何も言わなかった。それに、この状況に一抹の居心地の良さを感じていることも事実だった。

 隣に座る先輩に、無関心を装いつつ視線をやる。先輩も同じように私を見ていることがあった。そうやって交差するときもあれば、しないときもある。なんだかもどかしい。もどかしさが、私の中に不思議な熱を生む。それが妙に心地良くて、私は繰り返し、先輩に視線をやる。交差しても、しなくても、私はすぐに視線を逸らしていた。


 そのさなか、ふと、先輩が呟いた。本に目を落としながら、さしたることでもなさそうに、

「暁」

 むせた。

「っ……はい」

「大した用事なんだけど」

「……なんですか?」

 先輩が不思議そうにこちらを一瞥する。

「あれ、驚かないの? 名前で呼んだのに」

「……」

 まずいと思った。

「え? 名前で呼びました?」

 こういうときに嘘を取り繕うのが下手だ。

「わかったから返事したんでしょう」

「……何も考えてません。音に反応しただけです。中国語の部屋です。サルトルです」

 先輩がぐいっと私のほうに詰め寄る。私は顔を背ける。

「昨日の、聞いてた?」

「っ、聞いてません。寝てました」

 私の嘘はあまりにも杜撰で。自分自身でも不明な動機に突き動かされて。これでは誰かに操られている人形みたいだった。私は何を守ろうとしているのだろう。


 先輩は、私の嘘もとかくに彼女なりの解釈を見つけたようだった。体勢を元に戻しつつ、上の空な調子で「へー」と呟いていた。

「聞かれてたんだ」

 私がおずおずとその表情を覗くと、見る見るうちに頬が染まっていくのがわかった。

「い、いいんだけどね、全然」

 言葉ほど平気そうではなかった。

 生まれたのは、逡巡や憂いの時間だった。

 先輩は目を回している。何か、撃鉄とか、着地するコインとか、跳ねる魚とか、飛び立つ鳥とか、きっかけを探しているようだった。けれど終焉を待つだけのこの部室には、人を動かすきっかけなんてあるはずもなく。あるとすれば、きっと先輩の心の中にだけ。


 意を決したように、唇が固く引き結ばれた。

 いつとはなしに、ページを押さえる私の両手に綺麗な彫刻が添えられていた。それは先輩の手だった。また、熱が生まれた。先輩と私の手とが、繋がれたまま星に引かれ、ゆっくりと膝の上に落ちる。紙の擦れる音がした。

「暁」

 三度、私の名前が呼ばれる。

「灯……先輩」

 返してみる。恥ずかしい。何をやっているんだろう。とても素面とは思えない。恥ずかしい。


 同じ胸裏が先輩にもあるようで、閉じた唇がわなわなと震えていた。いよいよ顔が真っ赤で、泣き出すんじゃないかとさえ思えて見えた。でも、もしかするとそれは、慣れていない人が必死に隠そうとする笑顔に似ているのかもしれず、先輩にはちぐはぐだった。

「暁……笑ってる」

 隙間から、おかしそうに。自己申告?

 違う。先輩は私のことを言っていた。嘘、頬が緩んでるなんて。でも実際、私は感覚が朦朧とするほど顔が熱く、万が一を否定はできなくて。なら手で触れて確かめるか、あるいは覆って隠そうとするも、その手は先輩に繋がれてしまっていた。自分の知らない表情を、私は晒し続けることを強いられた。先回り? あまりに酷い仕打ちだった。

「……先輩に、言われたくないです」

 抵抗してみた。手を繋いだまま。効果はなかった。


 お互いが落ち着きを取り戻すための空白。

 言葉にしなくても伝わる。先輩が、昨日の続きを望んでいることを。だから私は、高鳴る鼓動を抑えて、空白を打ち破る先輩を待つ。

「あのさ、暁」

「はい」

 先輩が視線を逸らしつつぼそぼそと呟く。まだ横顔が夕暮れのように赤い。

「どうしたんです?」

 私が顔を寄せると、聞こえたのは、

「キスしたい」

 とんでもないことを言い出した。


「何言ってるんですか馬鹿」

 馬鹿とか言ってしまった。

「わからない。感情が湧いてきて収まらない。キスしてくれたら収まる」

「わからないって……」

 先輩の張り詰めた感情が解かれるように、

「暁、私のこと好きなんでしょう」

 屋上での失言が思い起こされる。それを掲げられることは、困る。私はあたふたと説得を構成する。

「先輩、人間に自由意志はないっていつか言ってたじゃないですか。理由なく行動するのは後ろで誰かに操られている人形と変わらないって。気を確かに持ってくだ、」

「うるさい」

 うるさいとか言われてしまった。

「良いか悪いかだけ言ってよ」

 熱に浮かされたように頬は赤く、瞳は黒く澄みきって。もう後戻りが利かないことをわかっているみたいだった。

「い、い」

 いや待ってください今は疲れておかしくなってるんです冷静に考えてみましょうよだって私たち女同士だし、


 早とちりな先輩は、私を抱き寄せた。

「――」

 私たちが重なった。

 絡む指。肩を掴む手。頰を掠める髪。触れる唇。それらは、彼女の態度ほどに強引じゃなかった。優しく、柔らかかった。少ししょっぱいのは涙のせいかな。泣いていないはずなのに。きっと、あの日の思い出が宿っているから。でも、その向こうにある唇は甘い。くすぐったくて焦れったい。いずれ離れても、その味が私の中に残り続けることに違いないと、どこか達観して感じていた。事実、そうなった。

「ごめんなさい」

 惚けた目をして言う。

「好き」

 また重なった。



 ずっと思っていた。私は生存を許されたかった。

 私は生きるのが苦手だった。生き方は、歩き方や立ち方と似ている。両足があれば当たり前に使える機能とされて、教えてさえもらえない。私はその機能を、意識しなければ使えない人間だった。

 苦しみの中、私は見様見真似に真剣に歩いていた。中途半端にできていたか、あるいは最初から見向きもされていなかったのか、私の困難は誰にも認めてもらえなかった。


 私の生命は、無色透明。データ上の見かけにだけあって、現実は蔑ろにされている。心臓の鼓動さえ聞かれずに、生きている・生き続ける扱いで捨て置かれる。誰の目にも留まることがない。

「生きろ」と出鱈目に言われることがある。簡単な言葉。その実は、「他人様に迷惑をかけるな」という以上の意味を持たない。


 本当は、怖かった。自分が生きていることにさえ、自信が持てなくなっている私。いつか、雨の日の猫のように消えてしまう気がしていた。

 生存の許しという言葉は、誤魔化しだったかもしれない。

 私がずっと願っていたのは、恐怖から解かれることだった。透明な私を見つけて、手を引いて、生きていていいと、あなたは生きていると、誰かに言ってほしかった。慣性や惰性じゃなくて、ひとりで必死に繋いだ私自身の生命。生きていることを認められたかった。ただそれだけでよかった。


 やっとわかる。

 先輩だったんだ。






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