12

 私には翼が無い。


 誰もが持つべき正当な権利を与えられていない。誰もが生まれながらに有するべき才能を獲得していない。それでも空を飛ぶことを夢見るから、私は一生救われない。飛ばずに走る鳥、泳ぐ鳥がいることは重々承知しているけれど、そんな彼らでさえ翼はある。私には翼が無く、つまりは何をすることも許されない。死にたくても死ねない。生きたくても上手く生きられない。翼をくださいと幼い頃から数知れず歌ったけれど、今も私には翼が無い。


 空から落ちる夢を見た。きっとあれが私の辿る戯曲そのもの。翼のある人たちに見下されながら、翼の無い私が落ちて行く。青空なんてまやかしで、私こそが雨粒で、地面に落ちた私は跡形もなく潰れ、猫のように忘れ去られるのだろう。

 私自身に相応しい死に方を思い描いたとき、自然と意識の向く場所がある。いつでも行ける、けれどここ最近は足が遠のいていた。理由は――はっきりとわかっていた。しかし今に至るまで、自覚しないように努めていた。だってそれは、まるで自分らしくない理由だったから。


 私が先輩を探しに旧校舎の屋上へ向かうことは必然だった。この瞬間に私が屋上の扉を開くことは、尊重や配慮という言葉で誤魔化し続けていた領域に、一歩を踏み出すことと同じだった。あるいは侵略という汚名を被ることも厭わずに、私は屋上を訪れた。

 果たして、先輩の姿はあった。その小さな背中に、翼は無かった。

 ――先輩も、私と同じなんだ。

 そんな事実を、ようやく思い知った。



「先輩」

 気圧差で生じた風に引き上げられるように、扉を開いた私は千条先輩の方へ自然に歩を進めていた。先輩に近寄るきっかけになるのなら、どんな些細なことでも構わなかった。けれど、すぐに立ち止まることを余儀なくされた。


「来てほしくなかった」

 冷たく研がれた先輩の声。その背中は震えていて、表情は見えないけれど、泣いていることがわかった。


「……話したいことがあります」

「やめなよ。きっとお互い傷つけ合うだけだ。不毛だよ。そんなものは最初から省いてしまうべきなんだ」

「違います。意味があるんです」

 大気の温度、風の速度、言葉の比重……正体の判然としない何か、無秩序な複数の要因が重なり合って、先輩の身体がわずかに傾いた。彼女の表情が私の視界に映った。

 私は驚き、声を上げそうになった。比喩ではなく本当に、未来を見てしまったのかと思った。


「意味は、なんだろう?」

 それは死人の面持ちだった。生きているのに、もう死んでいる。瞳に光はなく、苦しむ様子でもないのに涙を流している。もはや全ての可能性を失って、ただ一本道に放り出されているかのようだった。

 私は言葉を振り絞った。意味。

「……先輩が、今にも死を選ぶみたいですから」

「だから?」

「だから、最期の言葉を聞かせてください」

「ああ。そうだね」

 先輩が力のない笑みを浮かべた。


 こんなことしか言えない自分が嫌いだ。先輩の笑った意味も真に汲み取れず一つの達成感を味わっている自分がもっと嫌いだ。

「君に関係のある話をすると、天文部は廃部になる。部室は失われる。鍵は返さなくていいから、君の好きに使えばいい。ただし教師にはバレないように注意して」

「先輩は」

「私は――君がさっき言った通りだよ」

 いつでも死ねる、死んでいいように生きている。先輩がいつか言っていた。

 死を選ぶきっかけを、今日、先輩は見つけた。

 それはとても喜ばしいこと。

「違います」

 声に出してみれば否定は簡単だった。


「選んでない。それ以外の可能性を断たれただけじゃないですか」

「人の死はそういうものだよ」

「先輩は、いいんですか?」

「君は私をなんだと思ってるのさ」

 先輩が口元を歪めるようにして笑って――今度は自嘲だと理解できた――届かない空を見上げた。

「十河さん。私はずっと、君に引け目を感じていたんだ」

 理解できなかった。私は首を横に振る。

「……そんなはず、ないです」

「信じられない? なら、私の試みは成功していたんだろうね」

 幻想と実像が、少しずつ重なろうとする。


「私は、昔から他人が怖かった。学生も、教師も、家族も、道行く人も。みんな、私を貶めようとしていると思えてならなかった。実害を受けるだけじゃない、常に気を遣って、傷つけたり傷つけられたりしないように身を縮めながら生きていくことが、とても辛かった。友達のいる人たちが憎かった。でも、自分で友達を作る勇気も能力もなかった。私の蔑む人たちが全員、本当は自分より真っ当で優れた人たちだとはっきり自覚したとき、私は教室から逃げ出した。高校一年生の夏頃だったと思う。

 不登校がよかったんだけど、それはできなかった。この期に及んで退学や留年になることも怖かったし、何より学校に行くよう親に強制されたから。私は保健室登校になった。

 知ってるかな。保健室登校って、気の向いた授業にだけ出席して、あとは保健室にこもっていればいいんだよ。最初のうちは悪くなかった。でも、やっぱりそこも自分の居場所とは思えなかった。怪我をした生徒の来たときが、特にそうだった。目に見える傷で手厚く扱われている人が羨ましくて、同時に、誰にも認められない傷を主張している自分が糾弾されているみたいに感じられた。結局、どこにいても心は摩耗していくんだよ」


 先輩が、苦しみに堪えるように言葉を区切る。きっと今も、先輩は心を削りながら喋っているのだと思う。

 私は尋ねた。残酷な行いなのかもしれない。

「……天文部は、どうして?」

「保健室登校の次が、部室登校だよ」

 私の造語だけど、と。


「去年のことだった。随分と時間がかかったよ。空き教室を探し出して、比較的最近で廃部になったクラブを再建した。それが天文部だった。顧問は、保健室の先生に担当してもらった。社会復帰の一助とか、健全な精神を養うためとか、そんな無理を言ってね。ようやく手に入れた部室は、紛れもなく、私の居場所だった」

 逆接の言葉を私は予感する。その通りに、先輩は言った。

「部室も屋上も手に入れて、それでも私の心は救われなかった。だって、そこには私の意志なんてなかったから。他にできることがなくて、流されて、偶然行き着いただけなんだ。植物の種が、落とされた場所に芽吹くのと変わらない。私は何一つ選んでいなかった」


 私にはわかる気がした。翼を持たない人の行動は、いつもゼロかマイナスで。ゼロを引き当てたところで、決して得をしたわけではない。得していないのに喜ぶなんて損しているのと同じだから、喜ぶことはできない。だから、いつまでも救われない。

「十河さん」

 私の名前が呼ばれる。

 先輩は、空でも、遠くの街並みでもなく、私を見て言った。

「例外は君だった」


 なおも瞳は暗く、ただ困惑する私が映っている。

「君が私を見出してくれたから、私はその手を取ろうと決めた」

「……わかりません。先輩が私を見出したんでしょう」

「そうかな」

 最初に先輩が話しかけてきたことがきっかけだ。それから、部に勧誘された。自由に部室に来ていいと言われた。本を薦められた。屋上の扉を開いてくれた。旅行に連れ出してくれた。たくさんの話を聞かせてくれた。全部、先輩からだった。

 言おうとしたけれど、抑えた。今は先輩の話を聞きたかった。


「あの日は、部活の一環という名目で、先生とプラネタリウムに行っていた。そこで君に出会った。前にも言ったかもしれないけど、私が初対面の他人とあんなに多くを話せたのは初めてのことだった」

 そんなのは私だって初めてだった。

「私は君に親近感みたいなものを抱いて、もっと話したいと思った。だから天文部に勧誘した。――というのは、半分、嘘」

「……嘘?」

 先輩が痛みを噛みしめるようにして言う。

「本当は、君が私よりほんの少し不幸に見えたからだよ」


 その瞬間、私の頭の中で、与えられた全ての歯車が音を立てて噛み合った。

 私と先輩は、きっと本質的には似ている。だから、私には、先輩の求めた理想が手に取るように理解できた。

「君の欲するものを考えて、その通りに振る舞った。教師や生徒に見咎められない空間。自分を否定しない理解者。空に近づける場所。生命を軽んじる会話。どれも私自身が欲したものだった。君に与えることで、自分が強くなったかのように錯覚できた。その安寧こそが、私に必要なものだった。嫌な言い方をすれば、マウントって言うんだろうね」

「錯覚」

 私は言い直した。

「……気づきませんでした」

「うん、そうだといいな」

 信じている様子はなかった。


「君といる間だけは、私のプライドは保たれた。矛盾するようだけど、君と死の話をすることが、自分を生き永らえさせるみたいだった。本当に、楽しかったんだよ」

 でも、

「やがて気づくんだ。本当の私は脆くて、君の前で格好つけている姿はとても卑屈だ。教室に通う君のほうがずっと偉いよ。なのに偉そうに威張っている自分が醜くて、情けなくて、嫌になる。その劣等感を隠そうとして、また偉そうな先輩を演じる。少ない知識をひけらかす。ねえ、十河さん。私はずっと、君に引け目を感じていた」

 屋上を風が吹き抜ける。冬を目前に据えた風は冷たいはずで、でも私には何も感じられない。もうすっかり大気と自分は同化してしまった。

「……」

 先輩が弱い人だって構わない、と唱えるのは私の自由。同様に、先輩が死ぬのは先輩の自由。それを止める権利なんて、私は持っていない。私には翼が無い。


「私なりに頑張ったんだよ。最近は特にね。君に偽った姿に見合うような活躍を目指した。そう、文化祭のこと。天文部が廃部になると忠告されたから、回避するためにプラネタリウム喫茶を考えた。色んな人に頭を下げた。似合わないことをしたと思う。必死だった。やればできるんだって、一時は自分を褒めたよ。だけど、努力は無駄だったみたいだ。廃部は決まった、覆せないってさ。最悪だ」

 また一粒、熱のない涙が流れた。

「……頑張ってくれて、ありがとうございました」

「やめて。感謝なんてしないでよ。私の努力なんて報われない。努力だと認めてもらうことさえないんだ。どちらにしたって最悪だよ。私は、こんな思いをするために生まれてきたんじゃない」

 叫んで、涙が流れて、風にさらわれて。先輩の質量が世界に溶けていくかのようで。


「それとも、私は心の底で別のことを考えていた。私はこれまで、ずっと幸せを手放して生きてきた。皆が我先にと他人を押しのけてまで幸せを得ようとする中で、私だけは我慢してきた。だからさ、そういった私に振り分けられるべき幸せのゲージみたいなものが、実はどこかに貯まっていて、記録されていて、望んだ瞬間に解放されるはずだって、なんとなく信じてた。そう信じておけば救われた。その瞬間が、今日であるべきなんだ。そうでないなら、私が手放してきた幸せはどこに行ってしまったんだろう。我慢したぶんが返って来ない。努力して取り戻すこともできない。だったら、私はもう死んだほうがいい。死にたいんだ。生きている意味なんてないんだ」


 独白を経て、いつしか先輩は私に背を向けていた。その視線の行く先は、屋上の縁にあるフェンスの向こう、飛び降りて落ちるであろう死の地点にあった。風が吹く。導かれるように、先輩が歩き出す。

 フェンスに辿り着いた先輩は、荒々しいペンチのような工具を懐から取り出した。バチリ。甲高い音がして、フェンスの内の一本が切断されていた。


「……先輩!」

 硬直から解かれたかのように、ようやく私は足を動かすことを思い出した。

 先輩の背中に追いすがる。しかし心の抵抗が、触れることを許さなかった。伸ばせば手の届く距離で、言葉を紡ぐ。

「死ぬのはそれが理由ですか? 天文部を守れなかったことが?」

「いや、積もり積もった全てだよ。わかるだろう」

「私にはわかっても、他の人たちにはわからないと思います。いいんですか? 勝手な憶測が、先輩の死を侮辱しますよ。世界だって、のうのうと続いていきます」

 バチリ。三本目の切断。そこで先輩の手がはたと止まった。


「そうか。だから、君がいてくれたんだね」

「……何を、」

「十河さん。君が決めてよ」

 振り返った先輩は、笑っていた。涙を流す死相に、まるで最後とばかりに、本心から救いを求めるような微笑が浮かぶ。

「私がこれから死ぬ理由を、君に選んでほしい」


 

 きっと私は先輩を死なせてあげるべきなんだ。


 自分の身に置き換えてみれば簡単にわかること。他人の嫌がることをしてはいけません。望みは進んで叶えてあげましょう。人間関係の大原則。

 先輩は先輩であり、同じ部のメンバーで、同じ目標を持った同志。悩んでいた仲間がようやく踏み出した決意の一歩を、全力で応援してあげるのが絆のはず。足を引っ張るなんてことは論外。人の道を外れた最低の行い。

 私は先輩の苦しみを知っている。死への信仰を共有している。だからこそ、私が先輩の背中を押してあげるべきだ。

 この上なく正しく、わかりきったこと。

 それなのに。


「……」

 工具を握る先輩の右手に、私は自分の右手を添えた。

 先輩が期待するみたいに顔を上げる。

 私は工具を奪い、背後に投げ捨てた。甲高い音が屋上に響き渡った。

 ややあって、先輩が疲れたように呟いた。


「どうしたの、十河さん」

 私はかぶりを振った。先輩の手に触れた感覚が残っていた。そこに温度はなかった。けれど触れた瞬間から、私の手には熱が生じていた。その熱が、どうしようもなく私を掻き立てた。

「私は、先輩の理由を決めません」

「脅しみたいに言うんだね」

「そう取ってもらって構いません」

「なら、どうしてそんなに悲しそうなの?」

 決まっている。私には翼が無いから。先輩を地上に縛りつけようとしているから。


「さっきの話、半分正しくて、半分間違っています。私は……先輩のことが嫌いでした」

 言葉にすること。それはなんて簡単で、無遠慮で、残酷なんだろう。

 人間関係は、総じて心と心の接触。接触した心は摩耗する。削れて落ちていく塵を綺麗だと呼びたくはなかった。だから私は、自分をひとりでいるべき人間だと思う。誰も傷つけず、誰にも傷つけられない場所で、ひとりきり夢を見ていたい。

 私は今、一番やりたくないことをやっている。しかし間違いなく私自身の選択だった。


「君に嫌われることは、堪えるね」

 先輩が本当に辛そうに見えて、私の胸が締めつけられる。すると内側の棘が刺さる。あとはもうどうしたって傷つくだけだ。

「先輩には、わかるはずです」

 口に出さないか、知らないふりで誤魔化しているだけだ。私と先輩は本質的に同じで、だからこんな感情が生まれる。


「嫌いでした。目障りでした。羨ましかった」

 私から見た先輩は、自分に近い考えとより多い知識を持って、なおかつ自分にない恵まれた環境にあった。孤独よりも孤高に相応しい人だった。私が抱えたのは、同族嫌悪と嫉妬と劣等感。そして、相反するように、

「憧れでした」

 本当は認めたくなかった。他人を拒むと決めた私が、今さらになってこんな感情を向けることになるなんて。人間は裏切る生き物だと知っているはずなのに。裏切られることに怯えたり、後悔したりするくらいなら、始めから受け入れないようにと決めていた。

 だけどいくら黒く塗りつぶしても、際限なく湧き上がるほどの、好意があって、


「好きでした」


 ――。

 ――。

 ――ここまで言うつもりじゃなかった。

 先輩が驚くように瞬きをした。しかしすぐに、その瞳は細く収斂する。

「私は弱いし嘘つきだよ。君に好かれる人間じゃない」

「そんなこともひっくるめて言っています」

「最低な人間だよ。本当の私は、君に何もかも劣って、」

「うるさい」

 うるさいとか言ってしまった。


「私の好きな人の悪口を言わないでください」

 もっと顔でも赤らめながら堂々と言えれば良かったのだけれど。私は擦れるような声で叫んでいた。本当に伝えたいことの他に考えている余裕がなくて。 


 先輩が、乾いたため息を吐く。

「十河さん。私の考える『好き』の定義には、『相手の幸せを願うこと』が含まれている。もし君が真に私を想ってくれるとしたら、すべきことは、」

「逆です」

 私は、私の言うべきことを知っている。

 それは、先輩の死を満たす理由でも、私の抱いた好意でもない。

 保健室での先輩の慟哭を聞いたとき、それから、先輩が走り去ったとき、私の頭に天文部のことはほとんどなかった。あったのは、先輩の感情。そればかりを考えていた。きっとその瞬間から、私の言葉は決まっていたんだと思う。

 真正面から先輩に訴えかける。


「私を殺してください」

 お願いします、と。

 無性に泣きたくなった。でも、泣けなかった。


「先輩のいない世界なんていらない。私自身も死ねばいい」

 私は最低な人間だ。

「一緒に、連れて行ってください」

 私は最低な人間だ。

 今度こそ、先輩の瞳が大きく見開かれた。

「……違う。そうじゃないんだよ。十河さん」

 悪い夢にうなされているみたいに、先輩が声を荒げる。

「君には、生きていて……」


 言葉を詰まらせた。そう、先輩にその言葉は使えない。私に死の理由を委ねた先輩が、まるで自分ひとりを棚に上げるかのような「君に生きていてほしい」なんて言えるはずがない。

 そして先輩には、私の望みを叶えることもできない。だって、先輩は、優しい人だから。自身を殺すことはできても、他人を殺すことは決してできない。直接手をかけないにしたって、私が後を追って死ぬ可能性に思い当たってしまえば、それが行動の枷になる。私には本当にその覚悟があった。


 ――ねえ、先輩。

 やっと見つけられた気がする。雑草のように心に芽生える希死念慮。私を追いやるもの、あるいは導くもの。私が死を選ぶための、最たる理由の正体。

「先輩のことが、好きだから」

 私、先輩になら殺されてもいい。

 それが、十七歳の私の、旅の終着点。

けれど、実現しないことに確信があった。きっと今、同じ考えに行き着いている。

 ――先輩。

 いつからか、私は先輩のことが好きだった。彼女の死を、自分の死と同じくらいに願うようになった。そして、それ以上に強く、彼女の生を望むようになってしまっていた。

 ――先輩も、そう想ってくれているなら。


 自分は死にたい。でも、相手には死んでほしくない。そんな身勝手でエゴな想いを、私と先輩は思いがけず共有していた。

 これは、極めて理性的な暴走。翼の無い私の悪足掻き。私は、先輩を生かすための行動をしていた。選択権は押しつけた。今、バトンは先輩の手にある。

「……先輩」

 生きてください。

 でなければ、私を殺してください。


 死の受容で染まった湖に、水面が揺れて、淀みが生まれる。その原因は、冬の風でも、理不尽なこの世界でも、先輩の弱さでもなくて、どうしようもなく私にあった。

 私の目の前で、先輩は葛藤しているようだった。まるで普通の少女のように、零した涙の数だけ可能性を模索しては失っていく。そう、失うに足る可能性があった。先輩はもう死人ではなかった。私の罪がそうさせた。


「……十河さん」

 先輩が、震える声で言う。

「本当は、君の気持ちなんてどうでもいいんだよ」

「はい」

「私はずっと他人に蔑ろにされて生きてきた。だから、今さら君ひとりの気持ちを踏みにじったっていいはずなんだよ。そうでしょう?」

「はい」

「私は生きたくなんてない」

 自分がどんな表情をしているか、わからなかった。乱反射する光が先輩の瞳の中にあって、私の映り込む余地がなかったから。でも、確かに先輩は私をまっすぐに見つめていた。

「私は、あなたに死んでほしくない」


 もう泣いていなかった。最後の涙は枯れ尽きたとばかりに、泣きたくても泣けなくて顔をしかめている。

「あなたを殺すくらいなら、私は生きるよ」


 ぎゅっと目を閉じて。

 先輩が私に寄りかかる。華奢な身体が私の腕の中にあった。それは崩れ落ちる様に似ていたかもしれない。しかし、先輩の足には、また歩き出す力があった。私はそれを、嬉しいと感じていた。

「はい」

 私は今日も死ねなかった。



 寒いのは苦手。よって冬は嫌いだ。

 暑いのはほとんど苦にならないのに、寒いのはどうしようもなく居た堪れない。かと言って夏が好きなわけではなく。冬は寒いし、夏はクーラーの空調で寒い。どこにも居場所がないことを自覚する瞬間は、いつだって寒い。


 天文部の部室に空調機の類はなかった。だから私は室内でありながら冬にコートを羽織って過ごすことが常だった。けれど、今日だけは制服姿のままでいる。屋上から戻った私は、寒さを凌ぐために、初めて千条先輩と寄り添っていた。

「どうして上手くいかないんだろうね」

 空を目指して吐露した言葉は、部室の壁に染み入って消える。

 部室の片隅、隣り合わせの椅子で、私の右隣に座る先輩が呟いた。一音ごとに生まれる身体の振動が、寄り添う私に伝わってくる。


「人間が悪いんです」

「君だって含まれているんだよ」

「……すみません」

 天文部が廃部になることは確定事項だった。私と先輩は、文化祭への出展を放棄して、今月末までの活動期限を選ぶことにした。役目を失ったレイアウトが、今や虚しい。すぐに元に戻そうとは、少し思えない。


 あの屋上で、私は、死に向かう先輩を引き留めた。部室だけでなく死という救いまで先輩から取り上げてしまった。殺してもらえないのなら、断罪されたかった。

 先輩が意地悪っぽく笑う。

「十河さん。謝るの下手だって言われるでしょう」

 私は頷いた。はっきり指摘されたことはないけれど、思い返せば、私が謝罪したときに良い顔をした人はずいぶんと少なかった気がする。

「そういうところ、好きだよ」

 先輩だけがそう言ってくれた。


 先輩と接して生じた熱は、部室の空気に伝播して、気だるくも心地よい時間を生み出していた。ここに居続けたい想いは決して激しくはなく、だけど取り上げられると悲しい。いつか失うことを知りながら、目を背けて、かけがえのない時間を無為に消費する。メメント・モリに背を向けたモラトリアム。許してほしい。今だけは、先輩とこうして過ごしていたかった。


 窓辺から、緩やかな角度の西日が射し込んでいた。舞い上がっている埃は、光の粒子のようで、分解される部室の残滓のようで。もしも世界の終わりがこんな風なら、きっとまだまだ捨てたものじゃない。

「先輩は、生きていたいと思いますか?」

 返事は、すぐに。

「思わないよ」

 くすぐったい。

「十河さんは?」

 私も、すぐに。

「思いません」

 願うものは、自分の死と、相手の生。

 想いを通わせてもなお、私と先輩の関係は歪だ。それぞれが、欠けているピース。欠けているからこそ、ぴたりと嵌る。


「ねえ、十河さん。『人生に正解はない』と言われたことはある?」

「似た旨のことなら」

「聞いてどう思った?」

「無責任。本当は不正解を認めないくせに」

 歩み方、人格、コミュニケーション、勤学の是非、職業の選択、恋愛の形――。

「同じだね。私は絶望した」

 小さな嘆息。


「生き方に正解がないなんて真っ赤な嘘で、本当は限りある正解の道を他人と押し合い圧し合いしながら進んで行かなくちゃならない。一歩でも踏み外せば、苦痛と敗北感を押しつけられる。なのにいくら頑張ったって、道を踏み外さない努力を努力だとは認めてもらえない。絶対にね。正解のない問題にマルは付かない。付けられるのはバツだけだ。私は目の前が真っ暗になった」

 何が言いたいかというと、

「人生に、正解はない。正解のない問題は、くだらない。だから、人生は、くだらないんだ。三段論法で証明される」

 私は俯くようにして笑った。少し先輩に寄りかかってしまったけれど、許してもらえた。


 生命なんてものは病気か、あるいは機械の故障のようなもの。だから、死んでいる状態こそが正常――そう聞いたことがある。

 睡眠と死はよく似ている。正常に導かれるように、私は目を閉じた。先輩の隣ではよく眠れそうだった。


 瞼の作る薄闇の中で、声を聞いた。

「暁」

 私の名前。先輩が、確かに言った。

 理解より早く、心臓が跳ねるようだった。私はそれを必死に抑えつけた。身体が熱い。動揺を悟られたくなくて、寝たふりに没してしまう。

「寝てるの?」

「……」

「ねえ、やっとわかったよ。こういうことだったんだね」

「……」

「君がいて、温かいよ。きっと私は、こんな想いをしたくて生まれてきたんだ。この温度のためだったんだ」

「……」

「ありがとう、暁。私を見出してくれて、ありがとう」


 制服に涙の落ちる音がした。

 私は一層目を閉じた。この時間が永遠のものになりますようにと、祈るように、シャッターを切るように、ぎゅっと。逃げ場を失った熱が身体中を巡り続ける。

 やがて眠りに落ちるまで、そうしていた。




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