14

 十一月を迎えることと、廃部によって部室を失うことは同義だった。

 思い出も、安寧も、接点も、共に過ぎ去っていった。

 失う恐怖がいずれに向いていたかと言えば、きっといずれにも向いていた。自分の選択がもたらした結果としても、こればかりは慰めにならない。


 部室を訪れた最後の日。私が努めて冷静に振る舞っていた傍で、先輩は吹っ切れたように晴れやかな様子だった。不思議で、演技だろうとさえ思った。けれど、どうもそうではなかったみたいで。

 先輩から私に、ある提案があった。



 冬の大気が、私の零した息を白く染め上げる。感情を可視化させるみたいに。

 校門で人を待つ。まばらな人の流れの中にあって、たったひとりを待っている。

 誰とも混ざらないようにと、空に向かって息を吐く。晴れ渡った青空に、一瞬の白い雲が生まれる。嫌いではないかな、と少し思う。

 聞こえる足音があった。こちらに近づく音だった。

 正面に視線を据えたとき、彼女がいた。


「待たせちゃったね。暁」

 千条灯先輩。

 私を見つけてくれた人。

 先輩と肩を並べて下校する。初めてではないのに、新鮮な感覚が身を包む。それは呼吸を弾ませる。

 私はここにいる。先輩といる。先輩がそう言ったから。


『明日から、一緒に帰ろうよ』

 天文部が無くなっても、共に時間を過ごすこと。私がどこかたじろいでいた提案を、先輩は事も無げにやってみせた。ずるい、と思った。でも、私は頷いた。

 たじろぐと言えば、まだ天文部があった頃、部活終わりに先輩と下校する機会を、私はできる限り避けていた。だって共に下校するなんて行為は相手の歩調を自分に従わせてかつプライベートの時間を犠牲にさせることだから私の信条に合わなくて先輩の流儀を尊重したくて――いえ、嘘。先輩から鬱陶しく思われること、ただそれだけが怖くて足踏みしていた。


 現実は、今。

 先輩の手は、私に杞憂を教えてくれる。

 手を繋ぎたいと、少し思った。

「学校は楽しい?」

 私の気を知らないみたいに、おかしな問いかけ。

「楽しくないから学校って言うんですよ」

「何それ。勉強になる」

「先輩はどうですか?」

「私はね――」

 吐息。白い感情。

 先輩は変わった。端的に言うと、保健室登校をやめて、教室へ行き、毎日授業を受けるようになった。卒業に向けての出席数の調整、とのこと。

 先輩が世間一般曰くの通常の生徒らしくなったことで、養護教諭から私に対して感謝があった。見当違いも甚だしい。生きている限り、元より先輩はそうするつもりだったと思う。私はきっと関係ない。


「目的のための消化作業だと思えば、案外耐えられるよ」

 やはり晴れやかに、先輩は言った。

「学校を出るために、学校へ行く……」

「皮肉だね」

 翼がないから、そんなことばかりに取り囲まれる。

「でもそう割り切れたのは、褒めてくれる人がいるからだよ」

「そんな人がいるんですか」

「暁」

 とぼけてみたけど、ダメだった。まっすぐに見つめられると、私は弱い。

「暁に会えるから、毎日学校に行けるの。褒めてもらいたくて、最後までいられるの。だから、ね?」

「はい。よくできました」

「えへへ」

 先輩、少し幼くなることがある。いいのだろうか。私は好きだった。


 とは言え、実に年上らしく振る舞う姿もままあって、今日は自然な成り行きで喫茶店に誘われた。

 私の最寄り駅の前にある、駅ビル内のコーヒーチェーン。フラペチーノに、先輩のおすすめのカスタマイズをした。そのお代を奢ってもらって、最初は遠慮したけれど、「これくらい格好つけさせて」なんて言われると断れなかった。とても甘くて美味しくて、ゆっくり味わおうと思った。

 窓に面したカウンターで、隣同士に座る。ずっと会話することはなくて、読書や勉強といったそれぞれの作業に没する。話そうと思ったときは、いつだって応じてくれた。

 やがて席を離れるまでの時間は、部活の頃より短い。けれど密に思えた。

 私と先輩を繋ぐ本質は、変わらずに在り続けた。



 私と違って、先輩はこれから電車に乗って帰る。だから、今日はここでお別れ。

「改札まで送ります」

 口をついて出たのは、私の言葉。

「えー?」

 にまにまと笑う先輩がいる。

「いいの?」

「はい」

「じゃあ、お願いしようかな」

 自然と、隣に並び。

 自然と、私の手を握る、先輩の手があった。

「ありがとう。こうしたかった」

「……別に」

 いいですけど。


 私も同じことを思っていた気がする。喫茶店から駅の改札まで、ただの五分くらいの道程に同行を願い出た理由って、何があるだろう。理由はどこから来て、どこへ行くのだろう。煩雑な思考は、たった一つの言葉で解決する。――私も繋ぎたかったんです。

 思い出は、心に残っている。安寧は、あなたを想えば生まれる。接点は、これからいくらだって作れる。

「――だったらいいな、って」

 口に出していないはずの私の想いに、先輩は優しく頷いてくれた。



 世間で良いとされることが理解できなかった。

 親からは時に愛情を注がれ、時に厳しく躾けられた。躾けられるのは嫌だったし、私を喜ばせるための行為は全て的外れで、愛情が好ましいものとも感じられなかった。だから血の繋がりさえ辛いことばかりだった。

 おめでとうの言葉は全く好きになれない。特に、誕生日。私は生まれてきてよかったなんて一度も思ったことがない。形だけの祝福が交わされる光景は耐え難かった。


 善意を押し付けられることは苦痛だ。

 世間には同調圧力的な善意のキャッチコピーが飛び交う。ひとりの人間の生命は地球より重いだとか、死ぬな生きろなどと出鱈目に宣っている。

 人間には死の権利があると思う。自分の命を自分で任意に終わらせられる権利があるはずだ。翼のない私でさえ、この命だけは、他者に不可侵の所有物だと信じたい。そうでないと、救われないから。生きろという言葉は、人の最低限の権利さえ奪おうとする、卑怯で愚劣な言葉だ。


 生きたいと願うことだって同様に。それは、ひしめき合う大勢の見物客たちに肩を入れ、押し退け、踏みにじってまで、満開の桜を謳歌する行為に似ている。とても野蛮で、卑しいこと。

 息をするみたいに容易に生きられる人間ほど、極端な生を望む傾向にある。だから余計に醜く見える。

 私は、生きたいと願うことだけは、何があっても決してなかった。



 旧校舎の屋上に出るのは久しぶりだった。

 用もなければ来ようとは思えない。屋上は、良くも悪くも、強烈な記憶があまりに色濃く定着した場所だった。

 フェンスのある一か所に、数本が切断され、その後補修された跡が残っていた。打ち捨てられているみたいなこの場所に、今も見回りがあることに少し驚く。

 近づき、眼下を一望して、あの日の先輩を想う。フェンスの向こう側に広がる死に手を伸ばしていた先輩を。

 途端に、私は奇妙な浮遊感を覚えた。終始地面に足を着けていたはずなのに。

 一瞬のことだった。後味は、弱い酸が胸に滴るような不快。

 振り払うように、私は後退りする。


「良い眺めだね」

「……先輩」

 私を傍で見守るように立つ、灯先輩がいた。

「でも、風が少し強いかな。壁際に行こうよ」

「はい」

 塔屋のほうに戻る先輩に、私は付き従う。いつだって先輩の声は、私の心の不快を消し去ってくれる。


 暦は十二月を巡っていた。時間の流れを速いと思うことが、一生のうちに幾度あるだろう。否応なしに生きている間はいつも緩慢に思えていたのに。ちょうどその少ない機会に私は直面していた。先輩も同じことを考えているだろうか。考えていてくれると、嬉しいけれど。

 だから先輩の提案で、放課後、屋上に来た。卒業という終わりを据えて、限りある時間を燃やしに来た。

 冬の只中とは言え、今日は珍しく暖かな気温だった。空もよく晴れている。日なたの当たる壁を背に、私たちはホットの缶コーヒーに口を付ける。微糖で甘くて、温かくて、日光が身体を流れるかのよう。


「そういえばさ、小春日和の正しい意味って知ってる?」

「冬でも春のように暖かい日のこと、ですか」

「暁は賢いね。そう、だから冬の季語なんだよ。春って付いているのにアンバランスだ」

 私は頷く。寒きに功を覚えないから、冬はそんな日ばかりでいいと思った。

「昔、小学生の頃に習字の課題があって。冬休みの宿題だったかな」

「習字」

「冬にまつわる四文字の言葉を書き認めてきなさい、って課題だった。他の生徒は『初日の出』や『西高東低』なんて書いていて、私は『小春日和』を選んだ」

 先輩が視線を投げかける先は、屋上のコンクリートの床。私や先輩にとって、大抵の過去の思い出は、足元からしか掬えない。


「どうなったんですか?」

「バッシング。冬の言葉じゃないと他の生徒に難癖をつけられた。担任教師でさえ困り顔で書き直すように言い含めてきてね」

「その教師も、意味を知らなかったんでしょうか」

「さすがに知っていたんじゃないかな。でもきっと、声の大きい小学生たちの同調圧力に屈したんだと思う」

「最悪ですね」

 教員なんて、元々信頼に足る存在とは思っていないけれど。

「結局、私はその場で書き直した。何に変えたかはもう覚えてないな」

 酷い話だった。浅学が集団心理で膨れ上がって真実を踏み荒らしていく様は、気分を悪くさせる。

「不甲斐ない先輩で悪いね」

「そんなことじゃありません」

「じゃあ、何を思っているの?」

「……私も好きだなって。小春日和」

 私には、他人を助けられる力なんてないから。理解者を気取ることしかできない。


 でも、確かに私はその言葉と、選んだ先輩のことを好ましいと思った。冬に春を想う、そういう生き方が私にも適している。

「そうか。ありがとう」

「どう、いたしまして」

 お礼なんて、私にはもったいない。だけど、先輩の些細な言葉さえ取りこぼしたくなくて、私はしばしば謙虚な自分を忘れる。

「こいつめ」

 先輩の手が、私の頭を撫でた。

 髪の間を梳くように。水面をかき回すように。柔らかく、繊細でいて温かく。

「さらさらだね」

「……」

 緊張で1センチの収縮、羞恥で1センチの膨張。そんなプラスマイナスで、私の全身は硬直した。

「瞳が白黒してる」

「何言っているかわかりません」

「嫌じゃない?」

「……別に」

 いいですけど。


「私もね、けっこう楽しい」

「そうですか」

「ずっと続けてようかな」

「ずっとって、いつまでですか?」

「そんなの、一生だよ。一生撫でる」

「一生って――」

 いつまでですか? 言いかけて、躊躇われた。

 先輩も気づいたのか、私からゆっくり手を離した。


「先輩、」

「暁」

 屈託のない笑みがあって、

「二十四日は空いてる? 冬休みに入る頃だけど」

「空いてますよ」

「水族館は好きだったっけ?」

「……別に。普通です」

「わかりやすいね」

 顔を綻ばせる先輩の方こそわかりやすいと思うけれど。

「二十四日、一緒に遊びに出かけようよ。水族館にさ」

 すぐさま頷くことは簡単で、しかしその前に、私は先輩の示した言葉の意味にはたと思い至る。

 十二月二十四日、一緒に遊びに出かける――。

「行きます。行けます。絶対に」

 私は万感の想いで頷いた。

「よかった」

 先輩も、願いを胸に抱くかのように、深く頷いた。



 西の空に橙と紺の境界線が引かれた頃、私たちはもう一度、フェンスの傍に行った。

 空と死の淵と言える場所。だから私は高い所が好きだった。そのはずだった。

 見下ろすと、薄闇と乾いた空気のわだかまる町がある。ここからの一望は、まるで現実味の欠けたテラリウムのよう。走行する車、電車、光の籠る住宅は、どれもその無機物らしさに拍車がかかっている。樹木が葉を揺らしている。そのためだけの、緩やかな風が吹いている。

 ピンセットで付けて回ったみたいな、一帯に点々と散らばる人影。あまりに遠く小さくて、ぼやけた点のように見える。


 落下してしまえば、私も一瞬のうちにそのうちの一つの点へと成り果てる。

 点に至るまで、落下すること。

 想像して見下ろす、遥か下の地面。見つめるだけで、その視界だけが引き延ばされて、ぐんぐんと身体が落ちていくかのようだった。

 浮遊感。やがて、衝撃。

 ひしゃげる自分、もう何も見えず、聞こえず、口を利けなくなる私を想像する。その姿こそが、自身に残された死の権利を遺憾なく発揮し、ようやく世界にノーを突きつけた達成者の様相――

 今は、恐怖を感じていた。


「……」

 金網に死を透かすうち、私たちは、どちらともなく手を繋いでいた。

 それがどんなにかありがたくて。

 彼女だけが行ってしまわないようにと引き留める、あるいは私を救ってもらう、あるいは一緒に落下する最期の瞬間まで繋がる、そんな風に、強く。

 ――ごめんなさい。



 生きたいと願うことは、野蛮で卑しい。

 同様に、死の恐怖を感じることは傲慢だと思っていた。だってそれは、生にしがみつこうとして生じる摩擦みたいなものだから。



 ごめんなさい。

 私は傲慢になりつつあった。



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