11
空から落ちる夢を見た。
一面を青の風に囲われて、ただ一切の名の下に落ちて行く。
落ちながらにして、私は空を見上げていた。仰向けに落ちる私は、瞳を開けているだけでそれができた。いや、そんなことしかできなかった。
雲一つない、視界一杯のクリアスカイ。きっと美しい世界。なのに私の目は、その突き抜けるような青空の中に、飛蚊症のように蠢く小さな黒い点を捉えていた。無数に群れをなすそれらは、疑いようもなく、私の眼球や頭の中ではなく、確かに空に実在しているのだった。
黒い点たちは高い空を飛び回っている。落ちていく私がそう思うのだから間違いない。時間の二乗に比例して距離が開く。やがて点の集まりからぼやけた霞へと変わる様はまるで空に溶けていくかのようで、あるいは向こう側から見れば、私だって地に溶けていくように見えるのかもしれない。
地上まであといくつだろう。首を巡らせることも叶わないで、無益な計算を思い描いてはかき消す。もはや命潰えるその瞬間を望むようにさえなる。そうして、ようやく確信することがあった。
あの黒い点たちは、人だ。
彼らには翼がある。私には翼が無い。だから私だけが、落ちて行く。
人を酔わせる浮遊感や神秘もなく、感じるものはただ自分が無力であること。地面に叩きつけられたって、必然なのだから、仕方がない。雨の降らないことが数少ない救い。
「――」
寝覚めの悪い夢だった。
私はプラネタリムを目指すことにした。その場所は、離れた街の科学館ではなくて、通い飽きた学校にある。
厚手の遮光カーテンで閉め切った即席の暗室。唯一の光源は白い球型のホームプラネタリウムだった。そこから放たれた光が、天井に斑点模様を描いていた。星座を見出すことはひどく困難だけれど、私はそれを星空と呼ぶ。
幾分か経ってから、私は装置を止めて部屋を明るくした。
天文部部室。少し前の乱雑な内装とは違い、不要なものを脇に追いやって、部外者が座れるように椅子を同心円状に整列させている。円の中心に置くものは、ホームプラネタリウム。隅には受付と給仕を兼ねた机を設置し、申し訳程度にパンダのぬいぐるみを安座させている。
自分の手でレイアウトを変えておいて、その光景を顧みることでようやく文化祭が近づいていることを実感する。
「部員でもないのに働かせすぎですよ」
返ってくる言葉はない。
先輩の姿は、なかった。
知り合いの知り合いに水を差され終えた頃から、私は天文部に毎日顔を出すようにしていた。
そんないつも通りのある放課後のこと、千条先輩は突然立ち上がり言った。
「買い出しに行こう」
私は頷いた。言葉の意味は明白だった。
遠くから運ばれてくる吹奏楽部の演奏の音が、ここ最近は大きくなったように感じられる。それはもうそろそろ始まる文化祭に向けたラストスパートであるかも知れなかった。学校全体が浮足立つ時期だった。そして、文化祭を見据えて浮足立っているグループの区分けに、きっと天文部も含まれてしまっている。傍から見れば、という注釈を忘れてほしくはないけれど。
出展の準備にあたっては、部員でないにもかかわらず、気づけば私も手伝うことになっていた。毎日部室で暇を潰していた代償だろう。まあ、それを理由にクラスのほうの準備から合法的に逃れられるのだから、利害は一致している。
天文部では、プラネタリウム喫茶を開く予定だった。先輩の私物のホームプラネタリウムを使って星空を投影し、それを見せながら注文のドリンクを提供する。ドリンクは五十円程度の値段設定で、市販の飲料を紙コップに汲むだけの簡素なもの。
飲料品は文化祭の前日に用意するとして、今日は、部室の装飾に必要な物品を揃えに行く。こんなことでも後で廃部を免れられるのなら、文字通り安い買い物だと思った。
私と先輩は街に繰り出した。
買い出しと称しつつ、実質は帰宅の寄り道のような作業。気は楽だった――いや、楽だと考えていた。
「本屋以外でこの辺りに来ることなんてあるの?」
「全くないです」
「そう言うわりにすいすいと歩く」
「……まあ」
「雑貨屋に興味があったんだね」
「ただの通り道です。場所くらい知ってます」
先輩と訪れた場所は、私の最寄り駅を降りてすぐにあるショッピングモールだった。県内屈指の規模で、大抵のジャンルの店が中に揃っている。特に本屋が広くて良い。まずは雑貨屋を巡ろうと先輩が言って、取り急ぎロフトを目指していた。慣れているはずの私が先輩の前を行く形だった。
「人がいなければ私も習慣的に来たいんだけどね。一応は通学定期の範囲内だし」
「平日ですから、これでも少ない方ですよ」
「そう? じゃあまた十河さんがいてくれるときを選ぶよ」
「……」
「十河さんの背中って新鮮かもしれない」
そんなのはこっちの台詞だった。
さすが地元民、とか先輩の囃し立てる声が背後から聞こえてくるけれど、実は気が気でなかった。白浜の旅行を経てもなお、先輩の前を歩くことは初めてで、私は威風堂々のふりをするのに精一杯だった。不快にさせたくないと思っている。頼られたいなんて思っている。肩肘も胸も張る。前にいるから表情を見られないのは、不幸中の幸い。
「ここですから」
黄色いカラーが目印のテナント、目的のロフトに到着した。館内マップも見ずに歩き出したけれど、うろ覚えだった位置はかろうじて正しくて、着いた瞬間に達成感があった。いや、ひとりきりのチャレンジで何を勝手に浮き沈みしているのだろう。
「本当だね。ありがとう」
先輩が前に出る。新鮮な感覚が消えていって、少しだけ名残惜しい。どうして? わからなかった。後ろにいたって表情は見られずに済むのだと、今さらながらに思い出した。
店内で、紙コップや掃除用品、紙や油性ペン、立て看板に使えそうなボードなどを集めて回った。事前に購入を検討していたものは、あと一つ。
「こんなにあるものなんだ」
「多いですね」
間接照明を探していた。プラネタリウムを使うには、室内を暗くする必要がある。すると移動に危険が伴うから、足元を照らすために設置する予定だった。
人気があるのか、売り場が大きく、商品が数多くある。それが却って知識のない私のニーズを曖昧にさせる。こんなときでもなければ間接照明に関わる機会はなかったと思う。
「これなんて十河さんに似合いそうだね」
「……身に着けるものみたいに言わないでください」
私が手をこまねいている間に、先輩は次々と商品を手に取って光の加減やサイズ感、値段を確認していく。
「LEDキャンドルって選択もありだね」
「……光が揺らめいているのは良いですね」
「よし、この線でいこうか」
「あまり小さいと蹴飛ばしてしまうかもしれません」
「そうだね。じゃあ、これくらいのサイズで」
「光が強すぎませんか?」
「明るさは調節できるみたいだよ」
道案内で一仕事した気分になっていたことはもはや過去の話で、むしろ故意に忘れ去って、私はほとんど先輩の目利きに寄りかかっていた。
明るさも色も調整可能なLEDキャンドルが、当面の第一候補になった。
実際の購入は、後日改めて検討を重ねてからということになった。私の提案が採用された。そんな程度のことがわずかばかりの貢献に感じられて。そんな程度のことを誇りみたいに思っている自分が恥ずかしい。情けない話だけれど、能天気な自己欺瞞が確かにあった。
再び買い出しに行く機会は、訪れなかった。
文化祭の準備期間に入った。その瞬間から、周囲の時間が慌ただしく過ぎていくのを感じる。
天文部では、二日ほどのうちにあらかたの内装と外装を済ませた。それは机と椅子を並べてプラスアルファ程度の、実に簡素な仕上がりだった。けれど、私は自分に容赦をしたい。担当したのは主に私ひとりで、千条先輩は、軽く意見を擦り合わせた後にどこかへ行ってしまったのだった。
ここ数日、先輩は天文部に姿を見せていなかった。連絡さえも途切れがちだった。
私はクラスの手伝いを全く無視して天文部に来ていたけれど、先輩は、そうではないのかもしれない。あるいは、出展の申請や手続きか何かで、教師や委員会と目下揉めている最中なのかもしれない。
確証は一つとしてなく、尋ねることもできず。余計な口を挟みたくない心の枷が働いて、私は事態の進展を待つばかりだった。
ひとりでいる間は手持ち無沙汰で、例の夢のせいでプラネタリウムに浸る暇さえあった。星の勉強と間接照明の設置の構想にも時間を費やした。無為な努力だと自覚はしているけれど、先輩のいない部室への違和感から目を背けていたかった。
十月二十三日。ひとまず私は、芯を食わないようなメッセージを先輩に送る。
『少しの間、部室を留守にします』
数十分待っても返信や既読は確認できなかったけれど、文面通りに出かけることにした。
さしたる目的もなく、学内を歩く。旧校舎から降りる度、離れる度、喧騒が増す。準備に賑わう学内は、普段使うことのない木材や油性ペンやガムテープの匂いが漂うようだった。ほら、人が騒ぐと地球に悪い、と先輩みたいなことを思う。
どこから来たのか、学生ばかりいる。目を引くための色鮮やかなポスターで壁と窓が埋め尽くされている。その景観は駅前の繁華街に似ている。娯楽の代わりに情緒がない。
見える限りの人たちは、一様に楽しそうだ。労働にも誇りを持っているようだった。明るい世界、されど私には影さえ与えてくれない。
あてどなく歩くと他人にぶつかると、先輩が言っていた気がする。
そのようなわけで、廊下を歩いていた私は、他人にぶつかりそうになった。咄嗟に避けようとして、足の踏み場を変える。しかしその先には、作成途中の看板らしきものが敷かれてあって。踏まないようにとさらに足先をずらすと、身体の重心が崩れ。ついには転んでしまった。
「大丈夫ですか?」
一切の怪我はないのに、こんなときに限って目聡く介抱される。さらには一帯のリーダーか文化祭委員みたいな人が現れて、廊下の作業スペースの縮小を指示しだす始末だった。私は余計な罪悪感を抱え込む。ここでは自由に転ぶこともできない。
「保健室に行きましょう」
「……いえ」
ひとりで行くと応えて、その場を後にした。
適当な言葉で離れたけれど、私は本当に保健室に向かっていた。生来的に嘘をつけない性分だった。誰も見てなくても赤信号で止まるし、燃えるゴミは燃えるゴミ箱に捨てる。別に善人ということはなく、悪行に手をつける度胸がなかった。
言行一致、保健室の引き戸を開く。
清潔な白と、薬品の匂い。そういえば、初めて訪れる。こんな時期だからさぞここも人が多いだろうと思っていたけれど、室内は無人で、先生さえもいなかった。
にもかかわらず、耳をつんざくような少女の声が聞こえた。激情、あるいは悲壮。私が戸を開閉する音は容易くかき消された。
――その声音を、知っている気がした。
疑惑がノイズになって、頭の回転を鈍らせた。
保健室には、誰もいない。声は、もう一枚の扉を隔てた先、隣の準備室らしい一室から聞こえていた。
激しい少女の声に、応える男性の声があった。宥めるような、諭すような、くぐもった低い声で、扉を隔てているせいで上手く聞き取れない。
何度も少女は言葉を発する。それは叫びに似ていた。
無作法にも私は、扉に嵌め込まれた小さな透明のガラス窓に歩み寄り、隣室の様子を覗き込む――心の裡の、止める自分を置き去りにして。
息を呑む。
千条先輩の姿があった。
「 」
声量に反して、言葉が頭に入ってこなかった。
声を荒げる先輩を、その切実な瞳の色を、初めて見た。普段の飄々とした様子からは全くかけ離れていた。全身を弓なりに折るのは、感情の矢を放つために引き絞るようにも、花が生命を使い果たして枯れていくようにも見えた。必死になって、心情らしきものを訴えかけていた。
一際大きな叫びがあった。まるで無力な女の子みたいに、先輩が感情を発露して、崩れ落ちそうになる。白衣を羽織った、おそらく対話相手であろう人が支えようとするのを、風を薙ぐような手振りで拒絶する。
私の立つ場所からはその相手をよく視認できなかった。というより、私は得体の知れない衝撃に打ちのめされ、身が竦んでしまっていた。切り取られた矩形の世界で、先輩だけが私の全てだった。
先輩は、どうして? 何のために?
生まれる疑問は、私を置き去りにして流れていく。身体と意識が、扉の前に張りつけられている。気力が、思考が、握るドアノブの冷たさに奪われる。
これは、私が初めて見る先輩の素顔ではないか。先輩が自身のためにずっと隠し続けてきたものを、私が盗み見ていることは、とても罪深く、だから早く背を向けて立ち去るべきで、なのに私はそれすらも達成できない。
頭がわずかに音を摘み取り始める。次のような言葉が羅列される。
「廃部」「嫌です」「許してください」「頑張ったじゃないですか」「放課後」「どうしてこんな目に」「天文部は」「部室は」「他にいらないのに」「なんで私ばかり」「お願いします」「努力しました」「何一つも」「これ以上」「助けてください」「最後です」「もう一度だけ」「活動」「部員」「文化祭」「プラネタリウム」「約束」「それだけを」
「――十河、さん?」
先輩の視線と言葉が、その瞬間にはっきりと私に向けられた。
怯えるような動揺が先輩の表情に広がる。それはガラス窓越しでも鮮明に、私の意識を揺り動かす。
扉の開く音が、二つ重なる。
私は訳もわからないままに扉を開こうとした。そして先輩もまた扉を開いていた。彼女の背後にあった、準備室から廊下に続く出入口。
先輩は外へ走り出していた。何もかもを捨て去るように、逃げ出すように。
その横顔に、光る粒を見た気がした。
涙。救いを祈り、流すもの。
――先輩。
私は、声をかけただろうか。喉が痛かった。でも、心の中で呟いただけでも痛くなるから、わからなかった。言って拒まれたこと、言えずに引き留められなかったこと、どちらにしたって悲しい。悲しくて、嫌になる。
「君は、そうか」
視線を軋ませた先、室内に残っていたのは、見覚えのある顔の男性。先輩と初めて出会った日、共にプラネタリウムに来ていた人。
「……教師ですか?」
「僕は養護教諭だよ。それより、彼女を探しに行かないと、」
「先輩と何を話していたんですか?」
他人の話を遮る。こういうことは苦手で、あまりしたくない。けれど、この養護教諭や先輩のほうから話を切り出してくるのを悠長に待つ余裕なんて、今の私には欠片も残っていなかった。
「千条さんから聞かされては……いないんだろうね」
養護教諭は責められている自覚もなさそうに言った。
「天文部は、今月中に廃部になることが決定していたんだ」
「……」
「学校側の正式な決定だよ」
それは、私が先輩から聞かされていた話とは違っていた。
「……文化祭で、活動実績を作ればいいって」
「君たちには申し訳ないけど、それでも不十分だっていうのが、上の先生たちの考えなんだ。でも、一つだけ――」
希望らしい響きは、しかしすぐさま潰える。
「文化祭で出展をすれば、今年一杯は活動を続けていいと言われていた」
つまりは、廃部までの猶予が二か月程度だけ延長されるということ。くだらない。
「急すぎます。そんな……」
言いかけて、気がつく。少し前から、裏で動いていた先輩。私の前で浮かない表情を見せることの増えた先輩。
「先月には出ていた話だよ。僕や教頭から、廃部決定の話が千条さんには伝えられていた。それから彼女は、撤回を求めてずっと交渉を続けていた」
何かが、辛い。蚊帳の外に置かれていたこと? 先輩を苦しめていたこと? 違う。先輩が傷ついていたとして、どうして私が辛いのか。欺瞞だ。なのに、心臓が幾本もの針で貫かれたかのように痛かった。
「……保健室の先生が、どうしてそんなに事情通なんですか」
八つ当たりに似た感情をぶつける。感触は虚空を抜けるようで、
「僕は、天文部の顧問も務めている。さらに言えば、千条さんの先生役でもある」
天文部の顧問。その情報だけでも、私を驚かせるのに十分だった。しかし、
「なんですか? 先生役って……」
養護教諭が困ったように眉を寄せる。ややあってから、彼は淡々とその事実を告げた。
聞くんじゃなかった。こんな風に、第三者から裏で言われていいことじゃなかった。
先輩から聞きたかった。
「先輩に会いに行きます」
私は廊下へ飛び出す。
ひとりでいいと私が言ったのを、養護教諭が聞こえていないみたいに無視をする。自身も探し役を買って出て、どこかへと向かった。
別に、どうだっていい。私の言葉なんて、いつも他人に届かない。いつからか、届かせたいとも思っていなかった。
――でも、先輩だけは。
自然、足が駆け出していた。想いの行き着く、一つの場所を目指していた。
死を見つめる人はみな弱い。
私は、先輩の強さを誤解していた。先輩の強さとは、痛みから目を背けることへの慣れだった。だからそれは、どうしようもなく、弱さの裏返しだった。
誤解、いや、否定。死を語る先輩が、弱くないはずがないと、わかっていたのに、否定した。先輩の弱さを否定すると、私まで強くなった気になれた。身勝手な同一視。無断で影に入って、共に引き上げられるように仕向けていた。
そんなことをするということは、きっと、そういうことなんだろう。
酸素が足りなくなって、苦しい。理解する私と、走る私、その速度にずれが生じる。同じ道を辿れていると、いいのだけど。でも、現実の私の行き先は一つだけだから、別れてしまえば仕方ない、捨てていく。今は、ただ先輩に会いたかった。
階段を一段飛ばしで駆け上がりながら、こう考えた。
私には翼が無い。
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