10
情けは人の為ならずという言葉がある。
誤用されることが多いけれど、本来の意味は、他人に情けをかけることはその人の幸福の為だけにあらず、つまりは巡り巡って自分に恩恵が返ってくるということ。
有名なことわざ、しかし私にだけは適用されない。
情けは人の為なり。情け無用。情けが仇。
誰も、私に恩恵を返さない。自分の力だけで幸福を得たかのような訳知り顔をして、報いることなく次へ飛び立っていく。後の私の周りには何一つ残らない。手を差し伸べたはずの私だけが消耗している。
それでも生きていくなんて、土台無理な話だ。
最近よく教室で話しかけてくる人がいる。文化祭の準備期間に前後して、彼女は現れた。
その女子生徒と会話を交わした経験は皆無だったのだけれど、唐突に、一方的に押しかけて来られるようになった。意図せず知り合いになってしまった彼女は、落ち着いた容姿だけれど活発な性格で、私よりよほどクラス内のカーストが高い。彼女が友人たちとの時間を割いてまで私に構うことには理由があった。
「好きになった人が親友の恋人だった」
「親友から惚気話を聞かされたくない」
「他の人と会話することを名目に、親友を避けたい」
「ついでに悩みの相談もしたい」
新たな知り合いを開拓する行動原理にしては蔑むべきものだった。そんな自己満足のために時間と心労のコストを他人に負わせられる執念に、私はひどく感心までした。
共通の知人でない方が悩みを話せる、秘密を守れそう、席が近かった、として私に白羽の矢を立てられた。以降、私は頻繁に休み時間を彼女の自己満足に付き合わされることになった。
彼女との会話は悩みの相談に留まらず、主に雑談だった。価値観が噛み合うことはほとんどなく、生活も、勉強も、人付き合いも、鑑賞する動画や音楽や映画も、スマホで使うアプリも、位相が半周期分ずれたみたいに対照的だった。そのうえでなお今朝見た夢の話やペットの自慢や友人の痛快エピソードなんてものを語られるのは、うんざりさせられた。
いかにも楽しげに振る舞おうとする彼女の態度が居心地悪く、私はよく本を読んでやり過ごそうとしていた。折り悪く捕まったときには会話している間も手持無沙汰で、視線はスマホに逃げ道を求めていた。柄にもなく、メッセージアプリで先輩からの連絡が来ることを期待していた。
しかし、やがて関係性に変化が起こり始めた。
始まりは、発見。
彼女が私に話しかけない例外ケースが、一つあった。それは、私が読書をしている間だった。読み始める前はともかく、すでに読書に耽っている私を遮るように話しかけてくることだけは、一度としてなかった。彼女がそんな繊細な心を持ち合わせていたことには少し驚かされた。
本を巡って、あるとき、彼女が普段の明るい調子で私に言った。
「そういえばさ、いつもなんの本読んでるの? 難しいやつ?」
ついに来た、と私は思った。彼女から放たれるであろうと想定していた質問の一つ。その対策として、私はこのしばらくの期間は教室でライトノベルを広げないように努めてきたのだった。私は机の引き出しに収めてある本の題名を言った。
「『エンダーのゲーム』」
「ゲームなの?」
「……違う。SF小説」
「SFってさ、『スターウォーズ』みたいな?」
「大体そう」
「そっかあ。って、適当に流してるでしょ! もう」
悪意のつもりはなかった。私はスターウォーズをしっかりと観たことがなかったし、SFの定義は曖昧で、スペースオペラとの違いを知らなかったから。
「適当じゃない。たぶん合ってる」
「なんか難しそう。宇宙人とかUFOが出てたらSFなのかな? そういえばさ、昔読んだことある小説なんだけど、タイトルは――」
そして彼女がさも当たり前のように呟いた言葉は、私の注意を引くには十分だった。とても彼女が知るとは思えない、唐突に過ぎる作品名。
「……高校生の主人公が、夏休みのプールでヒロインと出会う、」
「そうそう! その女の子が実はUFOみたいな飛行機に乗って戦ってるんだよね。で、男の子と一緒に軍の人たちから逃げ出すやつ。ラストなんて私ぼろぼろ泣いちゃった」
私は驚いていた。
彼女が口にしたタイトルは、ライトノベルの古い名作の一つだった。これまで自分と同年代の読者を見つける機会はなかった。まさかそれが、一見そういった趣味とは無縁そうな目の前の彼女であるなんて、とても思えなかった。
「意外。ラノベなのに」
「あ、ごめん。ラノベって?」
「……ライトノベル。漫画みたいな表紙で、挿絵がたくさん入ってるような文庫本」
「へー、そうやって言うんだね。だったらあとそっち系で読んだことあるのは――」
並べられる数々の作品も、同様に名作だった。けれど、ライトノベルという呼称すら知らない人が手を出す作品とは考えづらい。
「何がきっかけで読んだの?」
「あー……えっと……友達がハマってたから、じゃあ私も読んでみよっかなって」
歯切れの悪い様子だった。もしかしたら、件の好きになってしまった親友の彼氏のことかもしれない。私が彼女に期待しかけた共通の嗜好の片鱗は塵と消えたけれど、とは言え作品に傷がつくことはない。
「どれもSFでいいと思う」
「あ、そうなんだ」
「科学や超科学が出てくるものは大体そう」
「えー、超が付くと何か変わるの?」
「説明できないものになる」
「んん?」
「未知とか、未来とか、奇跡とか。説明できないものを説明して物語を作るのがSF」
何が琴線に触れたのかわからないけれど、彼女は見る見るうちに瞳を輝かせ、感嘆の声を上げた。
「ねえねえ、もっと聞かせてよ。おすすめの本とか!」
「だったら――」
そんな風にして、私と彼女との間に流れる空気は幾分か向上の兆しを見せた。不思議なもので、一旦一つの大きな共通項が見つかると、これまで反りが合わずに捨て置かれていた話題までもが会話の材料に活きるようになった。やがて私は、授業が終わってすぐに本を読み出すことや、会話の最中にスマホを触ることが少なくなっていった。
教室で、先輩からメッセージが来ることは一度もなかった。
先輩は、気づいていたのだろうか。
私が天文部に行く頻度は以前と変わらなかった。何も言わずに、先輩の前では平静の自分を装い続けていた。
事の次第を先輩に報告しようかと悩むこともあった。その度に、私は傲慢な自分を自覚せずにはいられなかった。クラスカーストの高い女子から秘密の寄る辺にされて、任意に空き時間を埋めることができる――なんてことをあたかも勲章のごとく掲げているみたいで、その姿は想像するだに愚かしいように思えた。まさに私が反目していた人間たちの一端そのもの。
最も恥ずべきことは、私がこんな程度の事象で、先輩を傷つける恐れがあるだとか、先輩にリードしているなんて、少なからず考えていたことだ。傲慢で、卑屈で、失礼だ。自分の中に今もなお息づいていた浅ましい人格の存在は、私を愕然とさせた。
結果、私は身動きがとれず、ただ時間に押し流されていった。
やはりまた、外界と内面の変化するきっかけが起こった。
昼休みの後の移動教室で、私は授業のために物理実験室に向かっていた。途中の道筋に職員室がある。偶然にもその扉から出てきて遭遇したのは、意外な人物だった。
千条先輩だった。
「先輩」
私が声をかけると、先輩は大きな瞳をより丸くした。
――思い返せば、浮かない表情だったかもしれない。
「ああ……奇遇だね。これから授業か。頑張ってね。勉強は頑張ったぶんだけ身につくからね。じゃあ、また今度」
「いや、待ってくださいよ」
私は先輩のカーディガンの裾を掴んで引き留めた。
「何かありました? 職員室なんて」
「さあ、どうだろう。十河さんに追いかけられるのは新鮮で悪くないね」
「……別に追いかけてません」
私は手を離した。先輩は立ち去ることなく、窓の外を見つめながら言葉を紡いだ。
「十河さんの手は綺麗だね」
変わった冗談だと思った。似たような軽口を前にも聞いた気がする。
「……はあ」
「信じてないのかな。本当に綺麗だと思ってるんだよ。この世界では、他人を指差すその手の汚れている人間があまりに多いんだ。彼らには指を差されたくない。だから、十河さんなら歓迎だよ」
そんなことを言われてもわからなかった。私は他人の手をほとんど知らない。誰彼問わず、見咎められないようにと、ずっと目を伏せ続けていたから。たった今の視線の先には、自身の腕を抱くように掴む、先輩のか細い手があった。その手は紛れもなく、汚れてはいなかった。
「先輩、」
私は手を伸ばそうとした。望まれた通りに指差すのでも良かった。けれど、その試みは達成されないままに終わった。
「何やってんのー、十河ちゃん!」
最近よく話しかけてくるようになった女子生徒が、鷹揚に私の肩に手を乗せてきたのだった。振り向くと、憎たらしく無邪気な笑顔があった。
「隣のクラスに遊びに行ってたんだけどさ、けっこう時間経っててやばいなーって思って教室戻ったら誰もいなくて! ありえないよねー、もう」
「……」
私は今、私がコミュニケーションにおいて最も嫌悪することの一つを当事者として被っていた。
知り合いの知り合いが水を差すこと。
主役面して無自覚に他人の関係性に割り込み、爪を立てる最低の行為。
私は視界が滲むほどの憤りを、必死に抑えつけた。
「……友達がいるなら早く行った方がいい」
「十河ちゃんもでしょ! そっちの子は友達?」
馴れ馴れしい。子なんて言葉で先輩を示してほしくない。友達なんて言葉で先輩を括ってほしくない。
「……先輩は、」
「知り合いだよ。三年生だけどね」
先輩はこちらを一瞥し、また彼方へと視線を放った。
「そうなんですか! 十河ちゃん、何繋がりの先輩なの? 部活とかやってたっけ?」
関心があるなら本人に訊け。先輩をいない者のように扱うな。
「本のことたくさん知ってるし文芸部かな? そういえば、××ちゃんも文芸部なんだよ。でもなんか幽霊部員多いって言ってたし、十河ちゃんとは話したことないのかも。っていうか、××ちゃんが一番幽霊部員なんだよねー。この前なんかさ――」
胸が苦しかった。息が詰まるようだった。
この苦渋の時間が終わりますようにと、私はぎゅっと目を閉じた。
そして、薄っすらと目を開くと、そこには変化が生じていた。先輩の姿がなかった。
「あ、先輩さん行っちゃった」
どうしてそんなにも無自覚に無礼な言葉を吐けるのか、信じられなかった。
「やば、もうすぐチャイム鳴るじゃん。行こ!」
あろうことか、彼女は私に向けて手を差し出してきた。冗談のつもりなのかもしれないけれど、私には、それが世界で最も汚れたものに思えた。
彼女を無視して、私は駆け出した。もう一枚たりとも、心の障壁を外すつもりはなかった。
後日、結局彼女は勝手に失恋から立ち直り、私から離れていった。感謝の一言があったかどうかは定かでなく、もはや私にはどうでもよかった。
立つ鳥跡を濁さずなんて鳥の傲慢で、踏みにじられた者の心情を鳥たちは知らない。不幸と書かれたメイクやアクセサリーを幸福の上に着飾って遊んでいるだけの鳥たちに、わかるはずがない。
同じ離れていくのでも、先輩は違った。先輩は、知り合いの知り合いに水を差される苦痛から背を向けた。それだけでなく、自分自身が反転して加害者にならないようにと、私と彼女の交流を尊重したのだ。それは弱さであり、優しさだった。
私はいつも勘違いしそうになる。先輩を、遠く俗人離れした、孤独を愛する気高い人のように。しかし、先輩だって本当は私と一つしか歳が変わらなくて、希死念慮を持つのに相応しい心の脆さを抱えた人だった。その一端を初めて垣間見せたのが、あの瞬間だったのかもしれない。
先輩の弱さと優しさに、私は報いることができるのだろうか。報いたかった。でも、その手段を、まだ私は知らなかった。
誰に水を差されることもない。そんな日々だけが、ずっと続けばいいと思った。
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