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陰口の魅力の最たる点は、誰も傷つかないことだ。
誹謗中傷は当人の与り知らないところで繰り広げられる。当人の名誉は守られ、言った側は心に余裕が生まれる。だから、誰も傷つかない。陰口は世界を平和にすると思う。
「陰口なんてつまらないものはやめろ。面と向かって言え」
たまにそんなことを言う人がいて、視野の狭さに愕然とさせられる。
あなたの知らない世界にあるから陰口なのに。きっと妄想の中に敵を作って、架空の誹謗中傷を言われた気になっているのだろう。とても野蛮で、陰湿だ。
私は面と向かって誹謗中傷を受けることを好むような、マゾヒストでも妄想家でも戦争論者でもない。私は誰にも傷つけられたくない。言ってもらいたいものは、陰口に限る。
文化祭の出展は、パンケーキを扱う喫茶店に決まった。
クラス教室の話だ。普段から比較的よく口を開く学生二人が、クラスの前で司会と書記の立場を執って、そのような結果を出した。まばらな拍手は、多数決の明暗。担任教師は見守っていただけの仕事で得意げに頷いていた。
挙手も拍手もしていない私の担当は、準備期間中では内装、文化祭当日では配膳と呼び込みの業務に充てられた。何の業務にしてもサボることになるだろうと確信があった。
夏休みが明けてまだ数回目のHRで、そんな話し合いをしている。気が早いと思う。聞こえたところによると、正式な準備期間に入るよりも前から、自主的に水面下で動き出すそうだ。具体的なことは知らない。何か、色々とやるのだと思う。私が誘われたときには断ることになるだろうと確信があった。
それから、いずれの確信も現実となり、私はクラスで文化祭の作業が発生するたびに教室から抜け出していた。一応は文化系の部活に所属しているから、クラスを蔑ろにする権利は持ち合わせているはず。とは言え、そんな背景を一々説明することは冗長で、時間の無駄だろうから、黙って姿を消すことにした。
心の裡の私が言う――あなたは、楽しめない理由を自分で作っているだけだ。
言われた私が言う――創造主が誰であれ、その理由は客観的にも真実だ。
「うちのクラスは演劇をやるよ」
居心地の悪さから逃れた先、天文部部室で千条先輩が言った。放送部の少年少女たちが自身の傷と向き合いながら交流するゲームのBGMが流れていた。
「先輩も舞台に立つんですか?」
「まさか」
先輩が吹き出して笑い、からかうように首を傾げる。
「出てほしい?」
改めて、先輩について想う。
顔は整っていて、スタイルや姿勢も良い。長台詞でもすらすらと唱えてみせそう。ただし、多人数と話し、多人数の前に立つ姿は全く想像がつかない。興味はあるけれど、実現の見込みはなさそうだった。
「……演目は何ですか?」
正直に言えば、お互いに参加する予定のない出し物の話を進めても野暮だと思う。けれど、少なからずある後ろめたさを幾分和らげられる気がしていた。
「未定のようだよ。でもベタなものは避けたいんだってさ」
「ベタと言うと、『ロミオとジュリエット』とか」
「『キャッツ』とかね」
「……それはブロードウェイです」
指摘してみたけれど、私が文化祭について常識を振りかざすのも変な話だった。
私は中学一年生のときを除いて文化祭にまともに参加したことがなく、その参加した文化祭でさえ、ろくな思い出がなかった。失敗を改善して次に活かせるのが人間だから、私は今に至るまで文化祭の不参加を心がけている。
「十河さんは、メイド服を着て接客をするんでしょう?」
「……するように見えますか?」
「黒と白の正統派が似合うと思うな」
「する前提で話さないでください」
対岸の火事ばかりを語る私と先輩は、此岸の火元に見て見ぬふりをしていた。つまりは、文化祭における天文部の出展のこと。
先日、先輩は、天文部が廃部の危機にあると言った。
曰く、部員がたった一名で活動実績もない天文部は、文化祭に出展しなければ廃部を通告されると言う。しかし逆を言えば、出展さえすれば問題は解消する。そこで先輩の打ち出したアイデアが、ホームプラネタリウムを使って星空を投影する、喫茶店だった。
と、以上が私の把握している範囲。現在のところ、実現に向けた検討や準備を先輩が進める様子はなかった。話題に上ったことさえ、ホームプラネタリウムを持って来た日が最後だった。
廃部の危機と聞いて最初こそ驚いたものの、先輩が悠然としているから、私から藪を突くことはしなかった。おそらく先輩には先輩なりに引いた予定があって、口に出さないということは、過不足なく進んでいるということ。一々こちらから確認するのは失礼で、不要な手順は省くべきだ。
そもそもの話として、私は部に所属していない。先輩に関わる道理も、権利も持ち合わせていないのだ。とは言えたまの放課後に部室を訪れては時間を潰しているから、対価としての手伝いを要求されるときには応じようと思う。仕方がないけれど。
そうしてまた、一日が終わる。
教室で迎える休み時間。私は、不定期に行う慣習を実行した。
スマートフォンの録音アプリを起動して、机の中に秘密にしまい、教室を出る。五分以上の間隔を空けて、休み時間の終了前に席に戻る。こうすることで、不在時にクラスメイトたちが教室で交わす会話を録音して、後で聞くことができる。
クラスの文化祭の準備に貢献しない私を、彼らはどう思っているのだろう。
その証言を求めて、帰宅してから、私は自室で録音ファイルを再生する。
会話の内容は、はっきりと聞き取れた。そこに、私について言及する言葉は全くなかった。十河暁という存在は、影も形もないかのようだった。
私は安堵する。機械の前でさえ、このクラスの陰口のシステムは有効に働いているようだった。完璧な陰口の前では、傷つく人はいない。
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