8
弁解しておくと、私は決して先輩に心を許してなどいなかった。
旅行を共にしたことにさしたる理由はなく、ましてや思い出を作りたかったはずもない。自殺の名所への純然たる興味が、偶然にも一致しただけ。一日限りの協力関係みたいなものと捉えている。
自分らしくもない行動に身を投じた代償か、翌日以降はずっと疲労に苛まれた。苛立ちを吐き出すかのように文章を書き殴ることもありながら、日々は光陰矢のごとく過ぎ去った。
そして夏休みが終わった。
登校初日、私は天文部に行かず、先輩と会うことはなかった。
理由はいくつかある。部室に行くことがもはや日常となりつつあることを気取られたくなかった。初日は早く帰って休みたかった。雨が降りそうだった。旅行を終えてから初めて先輩と顔を合わせることに、言いようのない不安と羞恥を抱えていた。
二日目も同じように帰宅した。
三日目に、ようやく私は重い腰を上げた。終業のチャイムを残響まで聞き遂げてから、席を発つ。帰り道に踵を返して、旧校舎へ向かった。
老朽化を体現する廊下と階段に、不思議と懐かしい感覚はなかった。約一か月半の別れを別れとは呼べそうになかった。
約二週間の別れではどうだろう。私は部室に入った。
パンダがいた。
「こんにちは、十河さん」
千条先輩もいた。
「……何ですか、それ」
ガラクタの人形が名前のない少女を救うゲームのBGMがスマホから流れる室内、窓辺の椅子に、抱えるほどに大きなサイズのパンダのぬいぐるみが座していた。呑気と哀愁をブレンドしたような表情を浮かべている。
「ジャイアントパンダ。クマの仲間だね。主食は笹。愛らしい白黒の模様が特徴的。前脚の指が七本ある」
「それは聞いてないです」
私は近寄って、パンダのぬいぐるみを触ってみた。新品の化学的な毛並み。持ち上げると見た目そのままに重量感がある。タグには、和歌山アドベンチャーワールドのロゴが表記されていた。白浜の有名な観光施設だ。
「行ってきたんですか?」
私は驚いて尋ねた。
「行ってないよ」
先輩はあっけらかんと答えた。
「白浜への旅行はあれきりだし、そのとき行っていないのは君のよく知るところだろう」
「だったらこのぬいぐるみは……」
いや、考えるまでもなく、
「ネットで買ったんですか」
「そうだよ」
「……意外です。好きだったんですね」
先輩が求めるように手を伸ばしてきたので、私はぬいぐるみを渡した。
「パンダを嫌う人間なんていないよ。これは私が人間であることの単なる証明さ」
何にせよ先輩は顔立ちが整っているから、パンダを膝に載せて大儀そうにその頭を撫でてやる姿は、妙に似合っていた。本当に好きなのだろうと思えた。
「実を言うと、パンダは見に行きたかった。しかし、日帰りではスケジュール上厳しかった。私は、自分の持つ時間があまりに少ないことを思い知ったよ」
「時間」
高校生が保護者無しに泊りがけの旅行をすることは、物理的にも精神的にもハードルが高い。私は二の足を踏んで、先輩もそれ以上踏み込むことはなかった。どちらに責任があるということもなく、強いて言えば私に天秤が傾くのだと思う。けれど、私は謝ることをしなかった。どうせ責任の奪い合いになるか、一方的に慰められると予想できる。余計な手間は省くべきだ。私にだって、時間はないから。
代わりに私は口を開いて、
「……こんなときだけは大人に嫉妬します」
大人になんてなりたくなかった。ずっと拒絶してきた。けれど、嫉妬の感情を抱くのは初めてのことだった。
先輩がパンダに視線を落としながら言った。
「大人というのは、時間と引き換えにお金を得て、お金と引き換えに時間を得ている輩なんだよ。エネルギーの変換にはロスが生じる。言わば敗北間際の自転車操業だ。しかしそうとは知らずに本人たちは満足した気になっている。私はあまり好まないな」
同感だと頷くことはできる。なりたくない存在になることを遠ざけて。なのに特権だけを得ようとして。上手くいかなくて。また時間がないことを痛感して。だからって、まだ大人にはなりたくない。
「でも、」
「対極はパンダだよ」
「……は?」
「パンダは良いよ。一日に十キロの笹を食べて、十二時間寝ていれば、愛されるんだ。あまりに自由で、人間を嘲笑うみたいだろう。でも可愛いから仕方がないんだ」
そう言って膝の上のパンダと向き合う先輩に、私は釈然としない気持ちだった。その嘲笑われる側に私や先輩だって含まれているのに。しかし、まさかパンダに嫉妬の感情を抱けるはずもなくて、私はため息を吐いた。
その後は、勧められるままパンダを触ったり、雑学を聞かせられたりなどした。そうしているうちに、私は先輩と部室で過ごす感覚をすっかり取り戻していた。同時に、先輩と本物のパンダを眺めに行く空想をひとり浮かべた。
二学期が始まる。苦痛の日々がまた始まる。
進むにしても、留まるにしても、十七歳の私に時間はなかった。
時間の貴重さに自覚した矢先、思わぬ事態に巻き込まれることになる。
ある放課後のこと、千条先輩は突然立ち上がり言った。
「星を見よう」
私がなんと返そうかと思案しているうちに、先輩は部室の隅にあった紙袋の中から一つの箱を取り出した。一辺の長さが先輩の細い腰ほどの立方体。外装には、プラネタリウムの投影機らしい球体の写真が、星空を背景に描かれていた。
「ホームプラネタリウムだよ」
聞いたことがあった。単三乾電池や家庭の電源で容易に動作する小型のプラネタリウムで、部屋の壁や天井に星空を投影することができる。私も少し興味があった。
「実はあるきっかけがあってね。まあそれは後で話そう。先に、星を見よう」
そう言うなり、先輩はてきぱきと準備を進めた。ホームプラネタリウムを箱から取り出し、部室の中央の机に置く。窓のカーテン――仮にも地学研究室なだけあって分厚い遮光カーテンだ――を閉じる。スマホから、雨の降りしきる街でプラネタリウムの案内ロボットの少女と出会うゲームのBGMを流し始める。部室の照明を消す。真っ暗になった部室の中で、先輩はホームプラネタリウムのスイッチに手をかけた。
私はその間に二人分のコーヒーを用意していた。星空を見上げながら飲むホットコーヒーは格別に違いないと思ったから。
「映すよ」
私は目を閉じた。より深い闇へ落ちる。コーヒーの湯気と香りが鼻孔をくすぐる。
スイッチの切り替わる音が聞こえた。
私は目を開けた。
「……」
天井に照らし出された光の斑点模様を見る。そして私が思ったことはと言えば、期待外れという他になかった。天井に光が当たっている、ただそれだけの空虚な眺め。
「どうかな」
「……微妙です」
先輩は、嘘か真かはさておき、私に同調してみせた。
「私も自宅で落胆したよ。ただのライトみたいだ。投影範囲の狭いのが良くない。人間が肉眼で捉えられる星なんて八千個くらいなのに、万単位でこんなにごちゃごちゃと押し込めるべきじゃないね。しかもデジタル式で映しているから、一つ一つの星がぼやけて見える。安価の製品だとこれくらいが限度かな」
「日中なのも問題ですね」
先輩が機敏に事を進めていたから指摘を遠慮したけれど、カーテンの縁からわずかな陽光が侵食して、投影光を妨げている。さらには段々と暗室に目が慣れてきたせいで、今や傍にいる先輩の表情さえわかってしまう。
「気に入らない、か」
先輩が私に顔を向けた。その瞳は、人工の星よりか弱い輝きを湛えていた。
「……いいえ」
気に入らないのは、そんな目をする先輩の方だ。私はコーヒーに口をつけた。苦い潤いが頭を駆け抜けていった。
「コーヒーと音楽は良いと思います」
完璧な星空でなくとも楽しめる程度には、雰囲気作りの役割を果たしていると思う。
「そう」
先輩は吐息と共にコーヒーに口をつけ、会話の沈黙に浸り、天井の星々を見上げた。五感を反芻するように、何度かそうした。やがて、
「十河さん、施設のプラネタリウムで見られる最多の星の数を知っている?」
「三万くらい、ですか」
よく行く科学館では、確かそうだったと記憶している。とは言え、比較的古い施設だから少ない方ではと思う。
先輩が首を振った。
「四千二百万」
「……途方もない数ですね」
素直に驚いた。
「本当に。しかもそれは、光学式に限った話なんだよ。デジタル式なら理論上は無限に投影できるらしい。ねえ、傲慢なことだと思わないかな」
人間の肉眼で捉えられる星は、八千個程度なのに。
「……見えないものまで見ようとすること」
「そう。そして、その星々は全て真実で、全て彼らのものなんだ。無限に存在するうちの一つですら、私や君のものにはならないんだ」
この部室で見上げる星の数はいくつだろう。映る範囲は狭いし鮮明ではないけれど、密度は申し分なく高い。偽物の中のより偽物の星々に、何を願えばいいのだろう。
「もし私に主張できるたった一つの所有権があるとすれば、それが私の命だよ。こればかりは譲れない」
「だから、捨てることに意味があるんですね」
「捨てることでようやく証明できる。私はプラネタリウムが好きだよ。謙虚で無価値な私に、牙があることを示してくれるから」
優しい残酷。脳裏に浮かんだのは、そんな言葉。
黙々と光を放ち続けるホームプラネタリウムに私は手を触れて、
「わりと気に入りそうです、これ」
私なりの本心だった。
先輩が頷く。それはちょうど流れていた曲の切り替わる静寂の間隙で、呼吸の一つさえよく聞こえた。
「私も同感だよ。だから何にせよ、これを文化祭で使おうと思う」
「……文化祭?」
「そうそう。そこで何かしら出展しないと、天文部は廃部だからね」
「……」
やがて次の曲が奏でられても、私は脳裏を埋める疑問符を振り払うことができなかった。
廃部?
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