7
少しだけ私自身について記そうと思う。
あの夏の折、徒然なるままに書き残していたものだ。孤独は業の苗床になると聞いたことがあるけれど、それを体現するかのように、私の心を駆り立てる季節だった。
千条先輩のせいだと認めることは度し難い。しかし、先輩を死に追いやれるのなら、素直に認めてしまおう。いつだって先輩が私に影を落とすのだ。
私は、他人が当たり前にやっている事柄を上手く実行できない。
歩く、呼吸する、楽しむ、幸福を感じる、夢見る、努力する、前を向く、走る、手を伸ばす、やり直す、欲しがる、興味を持つ、捨てる、尊敬する、学ぶ、導く、慈しむ、書く、描く、言葉にする、遊ぶ、駆け回る、味わう、懐かしむ、作る、壊す、蓄積する、勇む、守る、自分らしく振る舞う、人と話す、人の目を見る、笑う、泣く、怒る、叫ぶ、喜ぶ、手を挙げる、話しかける、馴れ合う、伝える、嘘をつく、大声を上げる、糾弾する、触れる、手を繋ぐ、幸福を分かち合う、不幸を慰め合う、祝う、同調する、共有する、信じる、信じられる、助ける、助けられる、生かす、殺める、愛する、愛される――
才能も、権利さえも、与えられていないように感じられる。
事も無げにやってのける人たちを、私は遠巻きに眺めているだけ。
それは、空を飛ぶ鳥を地面から見上げている気分だった。私には翼がない。
永遠に地面を這いまわること、それ自体を辛いとは思わない。思わないけれど、辛いのは、周りを見渡したときに世界が翼のある人たちばかりで溢れていること。劣等感が、私を苛み、傷つける。
私が目と耳を塞ぐと、それを甘えだと誰かが言う。塞いだ手を引き剥がされて、また世界を直視させられる。いつまでも、劣等感と対峙する。
人間として当たり前の機能が私に欠如していることに、誰ひとりとして気づいてくれない。だから、甘えだなんて言葉が平然と行き交いする。
能ある鷹は爪を隠すと言う。
私には翼がなく、当然爪も持ち合わせていなかった。努力の仕方も知らないで、だから私は、無いはずの爪を隠す様を気取るようになった。そうしていれば、精神の均衡は保たれた。しかし環境は、思うようにいかなかった。
当然のように、爪を振るう気配のない私は、周囲から見下された。私は誰も傷つけるつもりはないのに、周囲はその強靭な爪でもって私を痛めつけた。過去から今の私にさえも届く、長い爪。
強者はそのまま力を振るい、弱者は群れて強くなった気になってやはり力を振るう。
私は嫉妬した。他者を蹴落として悦に浸れる強者たちと、群れて活きられる弱者たちに。同時に、どちらにもならない自分を称えるようになった。それが、爪を隠す鷹。
本当の私は、何も持たない。知っている。けれど、一時の心を救う欺瞞の中に私は生きていた。短い一生は、恥の多い生涯だった。
完成された家族を、私は知っている。
父と、母と、妹。
そこに私の居場所はない。一つの食卓を囲んでいても、私は壁を意識する。壁越しに見る彼らは、信頼を共有していて、まさしく完成された三人家族のように思えた。
私には翼がない。だから壁を乗り越えられない。
幼い時分は、私が出来損ないであることに、両親は気がつかなかった。それは私の欺瞞が上手かったからではなく、ただ見てもらえていなかったというだけ。張子の友人や成績、出席日数程度の結果だけが、関心の的であるようだった。
欺瞞に綻びが生じ、結果の数値にも影響が出始めたのが、中学の頃から。私の裡には焦燥が大半、同時に、一抹の安堵もあった。
私は、かすかに期待していたのだと思う。翼もないのに無い爪を隠し、地上から空を見上げるばかりの自分を、救ってくれること。私の欠陥を、両親だけは見出してくれて、車輪の下から抜け出させるために手を差し伸べてくれるのではないか、と。
両親は端的に、一言だけ告げた。
「まともにしろ」
私の手はあえなく叩かれた。それは、格下に接する態度に等しかった。両親の目に私は映っていない。気持ちを探ろうとも思っていない。まともな結果だけを求めている。
彼らにとって、私は犬のようだった。人間が犬の言葉を解す道理はなくて、尻尾を振りながら指示に従っているうちだけが、愛情を注いでやれるほどに可愛い。妹は上手く立ち回っているようだ。私は家族を諦めた。
傷つけられることのないように、私はひとりでいたい。
残念ながら、この世界にいる限り、私はひとりではなかった。私に傷をつける多数の人間たちに囲まれていた。
だから私はひとりでいられる世界を選ぶ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます