6
私は、生まれ育った街が嫌いだ。忘れたい思い出が染みついている。
早く出たい、出なければ、と焦燥感が募る。
それなのに、私が想像する死に場所は、いつもこの街の中。
泥を塗りたいと思う反抗心や敵愾心もあるのだろうけど、実際のところはおそらく違う。
現実は、私がまだこの街しか、世界を知らないだけだ。
季節は夏に移ろい、私の身と心は安寧の内にあった。つまりは、夏休みだった。
夏休みは素晴らしい。合法的に自室に引きこもっていられるから。イヤホンで耳を塞げば、家族の物音も届かない。私を傷つける一切を遮断して、夏休みは、死ぬまでの数少ない息継ぎの一つになる。
天文部部室に顔を出すつもりはなかった。あの場所は嫌いではないけれど、結局は学校の一部だ。千条先輩でさえも、特に行く予定のないことを仄めかしていた。
冬眠ではなく、夏眠。煩わしい一切を忘れて、私は静かに眠り続けていた。死んでいるみたいに生きている。それの許される数少ない時間が、夏休みだ。
けれど。
その特権を一日分放棄して、八月十八日、私は外出していた。目的は、和歌山県の南紀白浜への旅行。ひとりではなかった。同行者であり企画者は、先輩だった。
私が浅き夢から緩やかな覚醒を果たすと、山々の間を駆け抜ける特急列車の中に自分を発見した。
「おはよう」
ボックス席の斜向かいに座る千条先輩が、そう言って微笑んだ。
「……おはようございます」
本日二回目の挨拶であることを、私は覚えていた。
時刻は、八時。
随分と朝早い時間。出発はさらに早い。さすがに眠く、つい今しがたまで仮眠をとっていた。もう一度寝てもいいのだけど、あと一時間もしないうちに目的の駅に到着することを知っていたから、窓の外を眺めて過ごすことに決めた。見えるものは木ばかりだった。
代わり映えしない矩形の景色から、ふと先輩に視線を移すと、目が合った。
「睡眠は死に似ているね。人は生きていることの方が異常で、死ぬことでようやく正常な状態に還ることができる。だから人は、安らかな眠り、死に近い意識の消失を求める」
私はまだぼうっとする頭から必死に知識を掬い上げて、そうとはわからないように言葉に乗せた。
「……苦痛が伴わないのなら、誰も死を恐れない」
「まともな生物であればね」
先輩はまともらしく前髪を揺らし、
「睡眠が死であるなら、目覚めは誕生を意味するのかもね。ねえ十河さん、今日が君にとっての実りの多いバースディになることを祈るよ」
「よくわかりません」
毎日が誕生日だなんて考えたことはない。それに、私は誕生日が好きではなかった。目を閉じることにした。
「でもね、十河さん。幸先は良さそうだよ」
先輩のかすかに漏らした感嘆の吐息と、窓から差し込む光と音とのわずかな変化とを、私は感じ取った。だから、もう一度目を開いた。
輝く、青と青。空と海。両者を分断する、ただ一本の真一文字の水平線。
窓の外、景色が彼方まで広がっていた。
「良いね。何もない」
私もそう思った。それは良いことだと思った。
やがて白浜駅に到着したので、電車を降りて、バスに乗り換える。間隙に照りつける眩しい陽差しに、巡り回った夏を実感する。
白浜は、海水浴と温泉と海の幸とが有名な観光地。とは言え、私と先輩の主目的は、そのいずれにも当てはまらない、景勝地だった。
――
「死にたくなる景色というのがある」
ある日、先輩が言った。
「アメリカのサンフランシスコにあるゴールデンゲートブリッジは、世界一飛び降り自殺の多い観光地なんだ。原因に挙げられているのが、あまりに景色が綺麗だから。多くの自殺者は自殺が目的で訪れたのではないと言われるほど、見る人に死を想起させる絶景がある、だってさ」
興味があった。けれどアメリカは遠い。
だから日本の景勝地、いわゆる絶景の見られる自殺の名所に行こうと話がまとまった。
――
それが夏休み前のこと。
今日が決行日。私と先輩は、その場所に向かっていた。
三段壁。
紀伊半島南部、海に突き出す、高さ五十メートル以上あるという断崖絶壁。遥か遠い眼下で、波飛沫が岩壁に打ちつけている。その壮大な唸りの音に共鳴するみたいに、海風が頬をかすめていく。
どこまでも続くかのような褐色の岩の連なりは自然に過ぎて現実味がなくて、落ちていく自分を想像することは困難だった。
「同じことを考えているかもね」
風の合間を縫うように、先輩が言った。
「来て、わかったよ。ここでは死ねそうにない。安易な方法だから」
「安易、ですか?」
舞う髪の向こうで、先輩が頷いた。
「自殺の名所。断崖絶壁。絶景。お誂え向きのシチュエーション。ここで死んだら何も残らないだろうね。死体も、生者の後悔も」
「……綺麗でしょうね」
例えば、ある女の子がいたとする。彼女は何の不自由もなく暮らしていた。あるとき、彼女は死に魅入られ、若くして命を落とした。哀しい美談。涙誘うおとぎ話。儚い泡沫の物語。
「綺麗は、安易。だから誰も傷つかない」
「それは困ります」
「うん、損してばかりだ」
綺麗と言ったけれど、醜く死んでいった猫だっていることを私は忘れていない。
肝心なのは、意味を持つこと。生まれてきたことに意味がないのだから、死ぬことに意味が欲しい。たとえ他人をどうしようもなく傷つけてでも。それが、安易な事故や安易なセンチズムに塗り潰されるのは許せない。
「……あと、少し違うことを考えていました」
「なんだろう」
「ここでは死ねない。ここでなら生きられるかもしれない、って」
家が嫌い。学校が嫌い。あの街が嫌い。
この場所は、それら全てからかけ離れていて、私を安心させてくれる。もしも現れたときには崖下にくべてしまえばいい。
景勝地を見に来たのは何か死の理由にまつわるインスピレーションを求めていたのであって、死に場所を探していたわけではないのだけど。まさか“生き場所”を見つけてしまうなんて、茶番のようだった。
「皮肉だね。生者の列にも死者の列にも混じれないんだ、私と君は」
先輩が笑った。
私も笑った――いや、陽射しが眩しかっただけだ。
水平線に手を伸ばすかのように続く崖の一端を、私と先輩は歩いた。足元が、整備された歩道から剥き出しの自然へと徐々に移り変わっていって、良くも悪くも歩くのを飽きさせない。
その途中に見つけたのが、背丈ほどの大きさの岩。名称は、口紅の碑。
イメージ戦略が目的なのか、近年の三段壁は恋人の聖地として観光協会から推されているようで、その筆頭がこの碑石だった。若い男女が遺言を記して身投げした伝説があるそうだ。私も先輩もあえて口には出さなかったけれど、この地で死ぬ気の失せた原因の一つだった。
「ほら、一緒の写真撮ってあげるよ」
「絶対いりません」
三段壁の崖の直下にある地下洞窟に行った。入場料金を支払い、エレベーターで潜ることができる。地下三十六メートルで、岩をも削る波飛沫と、人をも呑み込む海流とを間近で見ることができる。昔、熊野水軍が船を隠すのに使っていたという逸話も相まって、暗い洞窟を探検のような心持で歩き回る。
途中、カメラを持った従業員に記念写真の撮影を提案された。今度は先輩も断った。
バスに乗って、千畳敷を訪れた。まるで岩で作られた浜辺といった風に、白から橙色の砂岩が畳のように海沿いの一面に広がっている。波の侵食によって、岩盤は幾何学的な地形を形作っている。波打ち際まで歩くことさえ大変だったけれど、私と先輩はそうした。
「落書きがある」
足下、岩を削って書かれた文字がいくつもあった。自然の中にも人間の業が見受けられる。書いた人間たちがみな三段壁の断崖からくべられる様を、私は願った。
「この落書きと、あの碑石と、何が違うんだろうね」
「メッセージ性ですか?」
「あるいは単に、場所や時間の経過というのもある。持ち上げる人間の有無も、そう」
風に晒されながら、互いにいくつもの理由を挙げた。そのどれもが正しいようで、唯一の答えは見つからなかった。口に出しては波にさらわれていって、比べることはできなかったけれど。
千畳敷と海とを見渡せる展望レストランで昼食を摂った。私は刺身定食を、先輩はマグロカツバーガーを注文した。
「もしも私が一番好きな食べものを訊かれたら、プリンと答えるよ」
「……そうですか」
「でも、一生食べ続けたい食べものなら、迷わずハンバーガーだね。たとえそれがたった十七年のほんの一生でも」
「美味しいですか?」
先輩は満足そうに頷いた。
白浜は温泉が有名な土地だけれど、流石にこの二人で入ることはお互いに遠慮した。代わりに、足湯に行くことにした。
御船足湯。海沿いの車道を千畳敷からずっと北へ走った先にある。木組みの屋根の下、足を浸かった。お湯は身体の芯から暖かく、潮風は涼しい。夏の暑さの中でも爽快だった。
遠くには、変わった形をした島、円月島を眺めることができる。
さらに北を目指した先、京都大学白浜水族館に向かった。一般的な水族館と違い、魚が展示されているのは、入り口すぐの大水槽と最後の小水槽群だけ。ほとんどの展示は、白浜近海に生息する、ウニやイソギンチャク、カイやエビやカニのような無脊椎動物が占めている。
大学が運営するだけあって、娯楽目的から一線を画す、学術的な色合いの強い施設だった。だからこそ、私は思いのほか嵌り込んで、展示や解説プレートに見入ってしまった。
「もう少しここに居たい?」
ベンチに座ってクエを眺めていた私に、先輩が告げる。
「……別に。そこまでじゃありませんから」
「正直に言っていいよ。魚も物も、一期一会は大事だよ。いつ死んでもいいように、じっくりと見ておくんだ」
「確かに……そうですね」
私は素直に頷いて、また水槽に向き合った。見納め、と表現していいかもしれない。またここに来る保証なんてなかったのだから。
先輩のかすかに笑う声が聞こえた。意識したぶんだけ、時間は早く流れていった。
水族館のすぐ目の前の海に、円月島が浮かんでいる。私と先輩が外に出た頃は、ちょうど白浜の日の入りの時刻だった。
円月島というのは呼称で、正しい名前は高嶋。その島は、中央に大きな空洞がある。まるでアーチの下のような、向こうの景色まで貫く穴。波の侵食によってできたものらしい。その形から、円月島と呼ばれる所以になっている。ここから見た穴の大きさは、夕陽に程近い。
夕闇迫る海の上。沈みゆく夕陽が、その空洞にぴたりと重なった。
円月を通して、夕陽が見えた。黒い影となった島から、橙に揺らめく炎が覗き、世界の隅に射していた。
その光景を、綺麗だと思った。
私は、思い出す。
当初覚えていた、旅行に対する抵抗感。ひとりでも行ける場所に、二人で行くことに意味があるとは思えなかった。ましてや友情や仲間意識めいたものを先輩に感じていたわけでもなくて、むしろ心を開かないようにと努めていた。
興味や意地から旅行を安請け合いして、ひとりの間は後悔して、今はこうやって、先輩と共に夕陽を眺めている。楽しかったと、思ってしまう自分がいる。
学校の外で先輩と過ごす経験は、出会ったときのプラネタリウムを除けば初めてのことだった。それどころか、こんなにも長い時間を。だから、楽しいと感じられるなんて、私は知らなかった。
一度は否定を下した私に、その言葉を口にする資格はないのかもしれない。だからせめて、先輩もそうであるようにと、炎があるうちに願っていた。
白良浜は、海水浴場として知られる有名な場所。名称通りの真っ白な砂浜が見渡す限りに続いている。
多くの人の幸福が集まるその場所も、陽の落ちた後では静かなものだった。人影は少なく、かすかな喧騒さえ、遠くから寄せる波と風とにかき消されるようだった。
帰りのバスを待ちながら、先輩は堤防に座って夜の音に耳を傾けていた。私も隣で同じようにした。
ふと前置きなく、さしたることでもなさそうに、先輩は言葉を紡いだ。
「死にたくなるね」
先輩が視線を上げたから、私も続いた。見上げた夜空には、プラネタリウムで知った星々と三日月が並んでいた。
「これから現実に帰依することを考えると、死にたくなる。かと言って今日みたいな日々がずっと続いたって、やはりいつかは何かが私を殺しに来るんだ。これから待ち受けるものは不幸ばかりだよ」
――先輩は今日が楽しかったんだ。
そう思った。同時に、私は心の裡を抑えた。確証もないのに決めつけたって損するだけだ。私の心との相関なんて、あるはずがないのだから。
触れたわけでもないのに、胸が痛んだ。
生温い潮風に包まれた幸福は、後味が悪い。
「先輩」
「うん」
「今日はありがとうございました」
「あはは」
まるで無邪気な少女のように。心地良い疲労と星空と海とが、そんな風に先輩の笑みを彩っていた。
「私も。同じことを思っていたよ。十河さん」
確かなことは数少ない。真実なんて、これくらいなんだ。
帰りの電車。
観光帰りの多くの乗客たちが座席を埋める中で、私と先輩はわずかに見出した隣合わせの空席二つに身を投じていた。先輩は眠っていた。私は目覚めたまま、夢を見ていた。
「先輩。今度は――」
次なんてあるはずがないのに。
ひとり言にしたって、随分と愚かだった。
私は目を閉じた。すると思い出すのは、死にたいと思えなかった自殺の名所。
――景勝地が綺麗だったから。
生まれ育った街で、私は死を選ぼうと決めた。
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