私は人を傷つけないことを信条に掲げていた。

 人を傷つける余地のある行動は実に多くある。例えば優秀さを誇る行為は、周囲の劣等感を呼び起こしてしまう。勝者は敗者に配慮して、勝利を謳うことなく謙虚であるべき。鼎談の場でひとりを差し置いて二人のみで語り合うことは、恥ずべき行い。好きなものの話は興味を持たない人の耳に入って不快にさせないよう、潜めて喋る必要がある。誹謗中傷は罪で、当人を前にせず発する誹謗中傷、陰口はむしろ推奨される。


 私は人が傷つくプロセスに敏感だった。被害と加害のどちらをも心得ていた。繊細すぎるのかもしれない。何にせよ、人の行動の全ては常に他者を傷つける可能性を孕んでいるはずだった。だから、人が自分らしく生きることは悪だと私は考えた。

 ひとりひとりが感情を押し殺すことで誰も傷つけ合わない社会を築けるのなら、それこそが最大多数の最大幸福の実現だと考えた。

 全員がそう考えてくれたなら、どれほど良かっただろう。

 現実は、誰もが傷つけることに鈍感だった。


 無自覚に他人の気分を害したり尊厳を踏みにじったりしながら、好き勝手に暮らしている。規則を逸脱すること、自分らしくあることを、さも正義のように誇っている。空間への配慮に欠けている。呼吸の一つにも気を配らない。

 私の無抵抗は、彼らの無自覚によって蹂躙された。私が傷ついた分だけ、彼らが幸せを謳歌しているように見えた。

 多数決が正誤を決定するのであれば、正しいのは彼らということになる。神の前で人を傷つけないよりも、傷つけた後で神に許しを乞う方が賢い――そういう世界だった。


 頭では理解して、なおも私は人を傷つける生き方ができなかった。

 私は弱い。翼が無い。人生は永久に好転しない。

 私は自分の善性を信じることができない。

 ルールを守るのは、外れて断罪されることを恐れるから。復讐されることが怖くて復讐できない。他人を傷つけない方法は心得ていても、傷を癒す方法を心得ていない。怒りや悲しみを抱えても、発散する手段を知らずに、分解されないゴミのようにただ胸の中で堆く積もっていく。私は、悪いことをする度胸がなくて、仕方なく善人でいるだけだ。


 例えば、自傷行為。

 自傷行為をする人間の心理が、心の痛みの視覚化にあると聞いた。心の痛みは目には見えず、頭で処理することが難しい。だから、リストカットのような、目で見える明確な傷を作って眺めることが安心に繋がるそう。

 私は死にたいけれど、自傷行為に走ったことはなかった。ただでさえ厄介な心の痛みに肉体の痛みまでも加えて、その傷を周囲に誇示しながら延々と生きていくような、そんな度胸さえ私にはない。


 大切なことは目には見えないと言う。けれど、目に見えないものが大切であるとは限らない。誰も彼もがババ抜きのジョーカーのように他者に押しつけ合っている傷や怒りや悲しみを、私だけが傷一つない肉体に抱えたまま沈んでいく。


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