雨の日に亡骸を見たことがある。

 それは猫だった。

 小学校に向かう途上。車に轢かれた末に息絶えた猫を、私は見つけた。

 首輪をしていなかったから、野良という印象を抱いた。でも、雨と血と泥に塗れて、見えなかっただけかもしれない。首輪を付けない飼い猫だっているはず。道路脇に打ち捨てられている猫は野良猫だと思い込む偏見が、小学三年生の私の中にはあった。

 要するに、私はその猫を知らなかった。初めて見る猫だった。きっと私の知らないどこかで生まれ、育ち、駆け回り、懸命に生きてきたのだと思う。幸福や不幸に思いを巡らせることもなく、無垢に生命を享受してきたのだと思う。けれど、死んでしまった。

 目の前に打ち捨てられた亡骸が、私がその猫を見る、初めての姿。そして最後の姿。二度と更新されることはない。――そう考えたとき、無性に悲しくなった。

 そんなの、まるで、最初から死んでいる状態で造られたみたいだ。

 潰れた身体が、原形。動かないことが、仕様。

 生きている状態を知らず、知る機会は永遠に失われた。知られないことは存在しないことと同じだから、生きてきた証さえ消し去られる。死んで生命が終わるどころか、元より虚無だったかのように。生も死も、存在しなかったかのように。

 生命の否定。他ならぬ私がやっていた。


 通学路には雨が降っていた。規則的な雨音の中に、調和を乱す飛沫の音が不意に断続して鳴り響く。私の足音だった。私は逃げるように駆け出していた。

 学校に向かって走りながら、全く動かない、ともすれば物のように見えるそれを、頭の中から必死に追い出そうとした。

 けれど、消えない。雨は洗い流してくれない。

 全部、雨のせいだ。雨が降るから。

 視界が悪くて轢かれた。血と体温が奪われた。助けてもらえなかった。生命の火が消えた。傘を差して俯く私が、見つける羽目になった。より一層、惨めに見えた。祈ることさえできなかった。

 雨は嫌いだ。


 教室の席に辿り着いても、私は猫のことを考えていた。

 朝の始業前の騒々しい空気の中にあって、思考が渦巻いていた。あの光景が脳裏に焼き付いて離れなかった。きっと一生残り続けると思った。

 猫の死を悼んでいたのではなかった。むしろ、悼むべき死すらないかのように思われたことが、堪らなく辛かった。

 軽々しい生命。存在しなかったことにされる生命。素直に悲しんでいればよかったのに、そんなことを連想している自分が醜悪に思えた。そして、いつか自分も同じ仕打ちに遭うような気がして、言いようのない恐怖に襲われていた。

 私だけなの?

 そんなはずがない。あってほしくない。猫は、クラスメイトのほとんどが使う通学路にいた。あの光景を、きっと半数以上は目撃している。私と同じように、悲痛と恐怖に押し潰されている人がいるはずだ。

 私はクラスメイトを求めた。それは馴れ合いとか、悪く言えば道連れと呼ばれるものかもしれなかった。許してほしい。そのときだけは、弱さに身を委ねたかった。

 私は席から立ち、顔を上げた。すると聞こえた言葉を、私は、はっきりと覚えている。

「お誕生日、おめでとう!」

 と。


 教卓の付近。複数人の誰かが欠けた輪になって、新たな誰かを迎え入れていた。

「ありがとう!」

 その人は応じた。

 周囲に拍手が生まれた。拍手は伝播し、万雷に変わった。教室中が賑々しく騒いで、祝いの言葉を連呼した。猫を惨めに仕立て上げたはずのあの雨が、人の声をかき消すことすらできずに外に追いやられていた。あまりにも無力だった。

 私は呆然と立ち尽くしていた。猫の死んだ朝に、そんな光景が広がっていること、そんな言葉が行き交っていることが信じられなくて。許せなくて。

 ――誕生日のお祝いなんて不謹慎だ。この瞬間も亡くなっている生命がある。

 ――生きる価値がその人にあるなんて、本気で考えて祝っているの。

 ――茶番で私を傷つけないで。

 ――猫の死は一度きりなのに。

 そう、言えなかった。


 無力感。私は、全てを否定されたような気分になった。あの猫と同じだった。世界に何ら影響を与えずに終わる生命と、存在を否定され消し去られる死。その末路を、私はすでに辿りつつあると感じた。

 ある瞬間、人形を吊るす糸がふっと切れたように、私は椅子に座り込んた。その様子を気遣う人、咎める人はいなかった。

 なおも、おめでとうが目の前を行き交い、私の生きる気力を失わせた。気が遠くなるまで、続いていた。

 雨は嫌いだ。



 曇天の下、数日来に降り続けていた雨の気配がまだ色濃く残っていた。梅雨の粘液が至る所に付着して、梅雨らしい不快感を発している。

 こんな天気でも及第点だと私は我慢する。雨さえ降っていなければ、と。

 放課後になって、私は天文部部室へと向かった。およそ一週間ぶりのことだった。

 差し伸べられた手を払い除けておいて、厚かましくも再び部室へと向かう足取りは、ひどく重い。道のりは泥のぬかるみのようで、心身共に疲れる。それでも部室を目指すのは、背後から私を追い立てる悪意と圧力の集合体があるから。二つのしがらみから、よりましな方を選んだ。私は、こんな風にしか生きられない。

 軋み。埃。

 それらを越えた先に部室は変わらずあって、扉を開くと、変わらず千条先輩がいた。


「あら」

 と、先輩が声を出す。読書をしているようだった。部室内には、少女二人がケッテンクラートに乗って旅をするアニメのBGMがスマホから流れていた。

「こんにちは、十河さん。よく来てくれたね嬉しいよというのが本音だけどプレッシャーを与えかねないから、来たんだ、とここでは言っておくよ」

「別にどちらでも」

 つまびらかに話すなら意味がないと思う。それよりも、

「借りていた本をお返しします」

 私がカバンから取り出した書籍を、先輩が受け取る。

「もう読み終わったんだ。どうだった?」

「興味深い内容でした」

 淡白にすぎる私の感想でも、先輩は頷く。

「そうだね。生も死も押し付けてこないのがこの本の良いところだ。それにしても早く読み終わったね。もっとじっくり読みたくはない?」

 読みたかった。

「……大丈夫です。ありがとうございました」

 私は謙虚な人間を演じた。

「まあ、ここに置いておくから、いつでも読んでよ」

 部員でなくともいつでも来ていいとは言われたけれど、先輩は本気なのだろうか。今日は本を返却する都合があったわけで、今後の拘束は何もない。


 先輩はぱらぱらとページを捲り紙面に目を落とす。

「十河さんはどの死に方がいいと思った?」

 軽い口調で世間話のように言うものだから、呆れる。

「別に。取り立てては、何も」

「飛び降りなんてどうだろう?」

 本によると、地面がコンクリートであればまず助からず、七、八階程度の高さでは確実な死が訪れる。落ちている間は、まるで宙を飛んでいるような多幸感があると言う。懸念があるとすれば、

「七、八階程度の高さ……」

「飛び降りは悪くない。スタンダードでいて神秘的。けれど下準備が意外に多いことはネックだね。十河さんの言った通り、まずは場所の選定がある。落下先がコンクリートで、十分な高さのとれる建造物を探さないといけない。より慎重を期すなら、見つからない侵入経路も把握しておく必要がある」

 私は無視をする権利をやむなく放棄する。

「少なくとも、この学校では無理そうです」

「確かに、ここの屋上では高さが少し足りないかな。未遂で終わるのが一番厄介だ」

「どちらにしても入れないですけどね」

 屋上は立ち入り禁止のために施錠されているから。

「入れるよ」

「え?

 先輩はさしたることでもなさそうに言った。

「鍵を持ってるんだ」

「どうして」

「ここは天文部だよ。天文と屋上は一組であるべきだ」

 先輩が自身のカバンを物色し始めると、果たして、一つの鍵が手に握られていた。教室や部室の鍵とは形状からして違う。

「これを使って旧校舎の屋上に出られる。扉の錠が錆びているからコツがいるんだけど、」

「……」

「行ってみる?」

 行くことにした。



 屋上に憧れを抱かない人間なんて、いるのだろうか。

 それは狭い世界を抜け出して、置いてきた多くを見下せる場所だ。もしかしたら私に、息継ぎ以上の生をもたらしてくれるかもしれない。

 憧れるから、損をする。

 現実に旧校舎屋上の風を受けてみると、不思議なほどに私の心は動じなかった。何もない場所に、何も持たない私がいるようだった。私には翼がない。

 視線を上げれば、塔屋と給水塔の他に遮るもののない、開けた空が広がっている。何のご都合主義なのか、先刻まで立ち込めていたはずの暗雲がモーセの葦の海のように割れて、青の色が天を走っていた。しかしそれさえもどこか冷めた演出のように思えてしまう。

 視界は空で、心は虚。生きる方向に背中を押されることは、かくも無意味なようだった。

「気に入った?」

 先輩が私の顔も見ずに尋ねる。まるで答えがわかっているかのように。先輩も、いつかは同じことを思ったのだろうか。

「……気に入りました」

 あながち嘘ということもない。分不相応な期待を除けば、高い場所と人間のいない場所は好きだった。

 その点では部室にも同じことが言えるけれど、屋上にある大きな違いは、

「十河さん、端に行こうよ」

 より死に近いこと。

 転落防止のフェンスが立てられてあるのは残念だと思う。けれど針金で編んだ壁の向こうに死が透けて見えるのは、悪くない光景だった。


「こちら側なら見つからない」

 そう言って案内されたのは、学校外の街に面したフェンスだった。遠くの家々まで見渡すことができる。視線を下げれば、黒の路面が見えた。少しの力を入れて踏み出せば、そこに落ちることができる気がした。

 指先だけでも届かせたくて、私は右手でフェンスを掴んだ。金属の軋む音がした。

「ここからでは道路に落ちるだろうね」

 先輩が私と同じ方を眺めて言った。

「高さは十メートルくらい、ですか」

「やっぱりもう少し欲しいところかな。学校の外なのも惜しい」

 と言って、今度は背後、学校の敷地側に振り返った。

「あちらは土になっているから、確実性はまた下がる。残念だけれど」

 先輩は、学校の中に落ちて死にたいのだろうか。

 意外に思った。学校に好意的なようには決して見えない。いや、嫌っているからこそ、なのかもしれない。自身の死でもって刻み込むメッセージ。その価値を、私はまだ知らない。

「十河さんは、どこに落ちたい?」

 私の心を読んだみたいに、皮肉めいた言葉。

「……わかりません」

「屋上の鍵はいつでも貸すよ。ああそうだ、部室の鍵もね」

 私にできるのは、風に紛れて頷くだけだった。



 それから私はしばらく風に吹かれた後、備え付けられていた梯子を伝って、塔屋の上に登った。より一段、空へと近い場所。すると、より遠くの景色まで見渡せるようになった。梯子を登るコストに見合うとは思えなかったけれど。

 やがて先輩もやって来て、塔屋の縁から足を投げ出すようにして座った。私も隣でそれにならう。横に並んで、共に屋上のコンクリートを眺める。プラネタリウムのときを思い出す。私と先輩は、こういうことを何度も繰り返しているように思う。

「ねえ十河さん、人間に自由意志はないって知ってた?」

「……因果律や運命論ですか」

 最初に連想したのはそれだった。人間の行動は全て神様の思惑や宇宙の法則によって決定づけられているという話。

「そうかもしれない。あるいは、少し違う。ここではもっとシンプルに、人が自分で好き勝手に物事を選択できる、自由な意志について考えよう」

 先輩は左右の人差し指を一本ずつ立てて見せる。

「君の目の前に、二つのボールがある。二つの違いは、右にあるか左にあるかというだけ。あとは大きさも色も同じだし、君からの距離も等しい。ここから好きな方を手に取れと言われたら、どちらを選ぶかな」

 黒いテーブルの上に二つの白いボールが置かれている様子を私は想像した。手に取るとすれば、

「左を」

「なぜ?」

「……特にはありません」

「なんとなく、だね」

 その通りだった。

「それはね、言い換えると、君は自分では理解できず出処すら把握できない要因に突き動かされて行動したことになる。まるで人形師に踊らされるマリオネットのように。これでは自由な意志と呼べないだろう」


 私は操られてなんていない、という反論は通じそうになかった。今の私は、身体に糸が張られていることさえ知らないままに、自分の意志で動いていると勘違いしている人形に過ぎない……というのが先輩の弁。

「右のボールを取ります。右利きなので」

 すると先輩は、意地悪っぽく息を漏らした。

「なおも君の行動は、自由に由来するものではない。何故なら、合理的なルールに則って行動することに、意志の介在する余地はないから。例えるなら自律ロボットのルーティーンだね。プログラムに定められた通りにのみ行動することは、とても機械的で、自由とは言い難い」

「どう転んでも、自由はないんですね」

 先輩は頷く。

「私たちは、たった一つのボールさえ自由に選べないんだ」


 気づけば無彩色のコンクリートを夕陽のオレンジが照らしていて、ああ、もう夕方なんだと感じた。その光と先輩の話は、奇妙にも私の心に寂寥感をもたらした。

「……理由なんて持たない方がいい」

「それは違うかな」

 否定の言葉に、私は少し驚いて先輩の顔に振り向いた。いつか向き合った凛麗な瞳が、私をまっすぐ見つめていた。

「ここに二つの選択肢がある。得体の知れない黒幕の手で踊る人形と、自分のルールに愚直に従って行動するロボット。十河さんはどちらになりたい?」

 尋ねられて、私は気がつく。

「後者。ロボットに」

「どうして?」

「私は思考しているから」

 あるいは、そう証明したいから。

 生きていて感じる苦痛や悲しみは、確かに私の内に生じて、私を追い詰めている。そんなものまで他人に奪われて、不幸面されるのを許すわけにはいかない。

 私のルールは私が決めた。そのルールに従うことも、私自身が決定した。そう主張する意志が、とても重要なもののように思えた。


「同感だよ、十河さん。私は、造り物でも紛い物でも、あるいは欠けていても壊れていても、全てが自分の意志だと信じたい。そのために、理由がいる。不自由を謳歌するロボットになろう。そして、いつか死ぬんだ」

 屋上に、夕闇が近づいていた。





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