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希死念慮という言葉がある。意味は、自らの死を願うこと。自殺願望ともとれるけど、それほど強い言葉ではない。もっと漠然とした、死に向かう感情。
誰しもの心にもあると思う。あまりにありふれているから、雑草のように他人に踏みつけられることが常だ。けれど雑草という名前の草がないように、私には私だけの、死を欲する情動がある。
人がひとりでプラネタリウムを目指す理由なんてたった二つに限られる。星が好きか、あるいは――死にたいか。
私は後者だった。
学校に通う日々。
あれから二日が経過しても、担任教師の元に「
とは言え、しばらく同じ手を使うことはできないと薄々感じていた。どこであの教師が目を光らせているかわからない。残り約二年の高校生活をなるべく休みなく通学する、そう考えるだけで苦痛だ。
――だったら、さっさと死ねばいい。
わかっている。希死念慮なんて言葉を崇高に使いたがっているくせに、あと二年もの通学スケジュールを立てているなんて、矛盾している。学校どころか人生から身を引くことが望みではないのか。
死にきれないで、生ききれない。ますます生まれてきた意味がわからない。
その日の四時限目は美術で、移動教室だった。
私は美術室のある旧校舎の一階に向けてひとりで歩いていた。すると何の因果か、知り合ったばかりのある人物と廊下ですれ違った。
千条先輩だった。
嫌なタイミングだった。私はひとりで教室の移動を行うことに欠片もやましいと感じることはないのだけど、世間的には人権を持たざる者の晒のように扱われているから。ここでの遭遇は、嘲笑の材料を掴まれたことに近かった。赤の他人以上顔見知り以下の間柄なんて厄介でしかないと、私は改めて痛感する。
会釈するはずもなく、私は先輩の脇を通り抜けた。
先輩が私の横で、同じ速度で、同じ方向に歩いていた。
「やあ」
「……こんにちは」
「こんにちは。十河さんは爪が綺麗だね」
私が手を隠すように教科書の持ち方を変えると、表紙を見た先輩が言った。
「次、美術なんだ。私は苦手だな。数学よりもよほど社会に出て何の役にも立たない科目のはずなのに、教師も学生も気づいていないんだ」
「向こうに用事でもあるんですか」
「ないよ。十河さんに話したいことがあって一緒に歩いてる。本当は来週のつもりだったんだけど、ここで会ったのも合縁奇縁だから、今にしよう」
自ずと私は歩くペースを落とす。先輩は周囲を一瞥して距離が空いていることを確認し、私の耳元に顔を近づけた。
「昼休み、天文部の部室に来てほしい」
訝しむ私に、先輩は重ねて言う。
「旧校舎の三階にある」
話も何も、次の行き先が示されただけだ。RPGのおつかいを受けている気分。天文部なんて聞いたこともなかった。
「なぜ?」
「来たらわかるよ」
「……」
「まあ、警戒するだろうなと思う。でも不利益はないよ。部室には君と私以外に誰もいない。望むなら、私が外に出て君だけを招き入れるのでも構わない。あとはお昼のご飯とデザートをご馳走するよ」
「……別にそこまで譲歩しなくても」
いいですけど。
美術室に近付くにつれて増すクラスメイトたちの喧騒に急かされて、私は詳細もわからぬままに先輩に首肯を返していた。
昼休み、天文部部室の千条先輩を訪ねる。
結局、そういうことになっていた。
美術の授業は、同じ大机に座る真向かいの生徒とペアを組み、相手の似顔絵を描くというものだった。私は友好も敵対もしていない女子の似顔絵に、職人気質を装って黙々と取り組んだ。つまらない、帰りたい、人の顔を見据え続けると気分が悪くなる、かと言って相手に失礼のないよう最低限のクオリティを確保しないといけない。犯罪者の更生プログラムのような時間だった。
数学よりもよほど社会に出て何の役にも立たない科目。
そう評するのは、きっと正しい。
階段を踏みしめる度、耳障りな軋みが響く。窓から差し込む薄ぼけた昼の陽光が、かび臭い埃の演舞を白日の下に暴き出す。
美術の時間が終わると昼休みだった。授業終わりのその足で、私は旧校舎三階にあるという天文部部室を目指して、階段を上っていた。クラス教室がないため人気がなく、段数に比例して喧騒が遠のいていく。その点には好感が持てそうだった。
とは言え、その一点だけ。私を呼びだした先輩の意図はわからないし、彼女とそれにまつわるものを受け入れることは到底できそうにない。
先輩が教師と共にプラネタリウムを訪れていた理由を、尋ねることはできなかった。「死にたくなったときにプラネタリウムに行く」と言っていたけれど、教師と密会するほどの余裕のある彼女なら、きっと嘘だ。生きる余裕のある人間に、そんなことを軽々しく語って欲しくなかった。
三階に辿り着く。古びた無人の廊下が続いていた。ふらりと歩いて、「地学準備室」の錆びたネームプレートが掲げられている教室を見つける。地学なんて科目がカリキュラムにあったかと考えつつその教室の扉に目をやると、「天文部部室」と印刷されたA4用紙が貼られていた。
念のため、廊下の端から端まで歩いてみる。同様の文字列はついぞ現れなかった。
私は意を決し、地学準備室こと天文部部室の扉を叩く。
「どうぞ」
あの声が聞こえる。扉を開けると、アールグレイの仄かな香りと、アンドロイドとロボットが命もないのに戦い続けるゲームのBGMが流れていた。部屋の窓辺に、パイプ椅子に腰かけて文庫本を開く先輩の姿があった。彼女は顔を上げて、私に微笑みかける。
「来てくれて感謝するよ、十河さん」
「いえ」
こんなことでお礼を言われたってどうにもならない。
「まあ遠慮しないで、座って座って」
私は近くのパイプ椅子を引き寄せて腰を下ろす。入れ替わりに先輩が立ち上がり、こちらに背を向けて机上で何かの作業を始めた。
部室は、ごくありふれた小教室のようだった。変わったものといえば、電気ケトル(お湯を沸かしている)、スマートフォン(音楽を再生している)、本棚(古そうな資料と学術書と教科書と小説が混在している)、
「緑茶、紅茶、コーヒー、カフェラテ。どれが好き?」
千条先輩(私の返答を聞き、ホットのインスタントコーヒーを紙コップに注いでいる)。
「……どうも」
私は受け取ったコーヒーに、一緒に支給された砂糖とフレッシュをかき混ぜて、口をつける。普通の味、のはず。でも学校という極限の場所においては、不思議と美味しく感じられた。気圧や酸素濃度の低下が人間の味覚を鈍くさせ、味のハードルを下げるというから、それに近い現象が起こっていてもおかしくはないと思う。
先輩が元の椅子に座り、紙コップの紅茶を飲んで一息つく。
「天文部にようこそ。実はね、私がここの部長を務めている」
「部長」
「部員は私ひとりだけ。活動らしい活動もしていない」
「いいことじゃないですか」
本当に、心の底から感じた。学校という狭く息苦しい社会に、隔絶された自分だけの国を一つ所有しているようなものだ。普通なら没収されるような私物をこうして持ち込んでいるし、昼休みに雑談に使うためだけに鍵を開ける権利まである。辺境にあるから他者に侵害される恐れもない。さぞ心休まることだと思った。
「確かにいいことだよ。学校って息が詰まるからね。ここでなら私は窒息しない。去年のこの時期くらいに私が見つけて、部員ゼロの部を復活させるという名目で合法的に手に入れた。以来、好きに使っているよ」
「……羨ましい限りです」
本当に、そう思った。ここは逃げ道で、安住の地だ。どうして私にはこういう場所が与えられないのだろう。私は先輩への嫉妬が心の裡に渦巻くのを感じた――感じていた、情けないことに。
「で、本題なんだけどさ」
先輩があっけらかんと言った。
「十河さん、よかったら天文部に入部してほしい」
さすがに言葉が出なかった。
「気に入らなかった?」
「……いえ、おかしな話だと思って」
「おかしくないさ。私が君の立場なら、すぐに承諾するんだけどね」
「私が先輩の立場なら、絶対にそんな誘いはしないと思います」
自分ひとりで自由に扱うことのできる空間に、他人が付け入る隙を与えるなんて、どうかしている。
「そう言わずに誘ってほしいな」
先輩が冗談めかして笑うけれど、やはり相手のメリットが少しも見えてこない。
気がつけば、流れる音楽は二曲目に移っている。
「部員の頭数だけ欲しいんですか?」
「そんな目的はないよ。入部したらここの鍵をあげる。君は自由にここに来ていいし、来なくてもいい。ときに私が居ることもあり、君の気が向けば会話ができる。時間の過ごし方は無数にある。外からアイテムを持ち込むこともできるし、室内のカスタマイズだって思うがままだ。部室は君のために開かれている」
シミュレーションゲームの導入みたいな説明が始まった。
無視して、私は質問を重ねる。
「理由を聞かせてください」
「理由?」
「私を入部させる目的。それと、どうして私なのか」
先輩は紅茶の最後の一口を飲み干してから、答えた。
「その二つは、一言にまとめることができる。君と話したいからだよ」
ダウト。
「部室に来るのも会話するのも自由だって、言っていませんでしたか」
「言ったよ。実は賭けなんだ。入部だけでも受け入れてもらえるように、条件を下げた」
「別にそこまで譲歩しなくても」
いいですけど。
先輩は遠くに思いを馳せるような瞳をして言った。
「一昨日のことだけど、私が初対面の他人とあんなに多くを話せたのは初めてだった」
そんなのは私だって初めてだった。
「だから、また君と話せる機会をここに設けたいと考えた。だめかな」
重い。
「私が先輩の期待に応えられるとは思えません」
「大丈夫だよ。別に、お互いを支え合おうなんて言うつもりはないから。私は勝手に満足するし、君も自由にここを利用して息抜きすればいい。私たちは利害が偶然に一致して、偶然にここに行き着いただけなんだ。君は私の期待なんて考慮しなくていいんだよ」
「……それでも、私は考えます」
先輩は困ったように、あるいは慈しむように顔を綻ばせる。
「優しいね、十河さん。普通の人はそんな風に考えない。君は期待に応えたいからそう言っているんだ」
わからない。私は他人の好感情を踏みにじるのが怖いだけだ。期待が失望に変わる落差に躓きたくないんだ。
「十河さん、私はこういう提案や交渉には慣れていないから、はっきりと言おう。私は君を救えないし、君も私を救えないよ。課題を分離せよとアドラーも言っている。自分を救えるのは自分だけだ。それが偶然にもここで、君と私、同時に達成されるというなら、わずかばかりの好機と呼べるんじゃないかな」
救いなんて。
「別に、生きたくなんてありませんから」
言った後、あるいはそう、言ってしまった後になって、裡の鼓動が強く頭蓋に響くのがわかった。失言だ。私自身の希死念慮を、これまで人前では否定も肯定もしていなかったのに。これからだって、ひとりで抱えて死ぬつもりだったのに。
「……冗談ですが」
「知っているさ」
さも重大なことなんてないかのように、おもむろに先輩は席を立った。どこへ行くかと思えば本棚だった。一段目、手前の本を避けて、壁際奥に並ぶ本を矯めつ眇めつ目を凝らしているようだ。その軽薄な、支配者ぶった態度が私には気に入らない。
「話はもう終わりましたか」
「続けられる限りに続けることも吝かじゃないよ。今日は十八時頃までここにいるつもり」
「私は今すぐ帰るつもりです」
「それなら最後に、質問一つと提案を一つ」
本棚の整理か探し物に身を投じたまま、先輩は言う。
「改めて、入部する意思はどうかな? 天体に興味がなくていいよ」
真摯な訴えが無効なら、次は軽い調子で。そんなマニュアルを見つけわけでもないだろうけれど、私の答えは変わらない。
「入部はしません。折角のお誘いですが」
「そう。残念」
表情を窺い知ることはできなかったけれど、声色は平坦なものだった。建前であれ本音であれ、負の感情を見せつけられていい気はしないから、それくらいで十分だ。
十分だ、本当に。
「代わりと言っては難だけど、いつでも遊びに来てほしい。十河さんのことは歓迎する」
「部員である必要は」
「部活には関係なく、私の個人的な感情だよ」
「……では行けたら行けます」
ここで断ることも不自然だろう。行かなければいいだけだ。
「で、提案というのはこれ。十河さんにおすすめの本があるんだ」
一転して、暗い予感が私を襲う。まさかと思う。まさか、自己啓発やメンタルヘルス対策の類の本を押し付けて、やれ生命の尊厳や人生の素晴らしさを説くつもりではないか。
突き返して彼女を蔑む算段を私が立てているうちに、やがて先輩は一冊のハードカバーの本をこちらに差し出した。表紙のタイトルには、『完全自殺マニュアル』とあった。
「気に入ると思う」
「……何ですか、これは」
予想と真っ向から反するものに、私は素直に興味を惹かれてしまう。気づけばその本を手に取っていた。
「言うなれば、参考書。死の参考書かな」
「教本ですか?」
「それも一面的には正しいけれど、指導というニュアンスは含まれていない。本当にただ、自殺にまつわる知識を、虚飾も浅慮もなく述べ伝えているんだ。薬物で死ぬには飲酒が有効であるとか、首吊りはコストパフォーマンスが高いだとか、焼身が未遂に終わると酷い後遺症に悩まされるだとか、そんなことをね。この本では、世間が死に対して縫い付けた神秘のヴェールの一切が剥がされている。私たちはいつでも、望めば簡単に死ぬことができるし、それは決して特別なことではないんだ。そして、間違っても、自ら死を選んではいけないなんて綺麗ごとは語らない」
ページを捲ると、各種の自殺の手段や評価、実際の事例について記述されていた。確かに先輩の言う通りの、虚飾も浅慮もない死の形がずらりと並んでいるようだった。
「返却は無期限だよ」
――首吊り自殺は人類の考え出した芸術品である。
文面を追うことに囚われていた私は、先輩の柔らかな声音にはっとした。
「自分で買ったんですか?」
「学校が所蔵するはずもないからね」
聞くまでもないことを。私は恥を誤魔化すように言葉を続ける。
「……学生に読まれたくはないでしょうね」
「だろうね。でも私は、この本を一つの篩だと考えている。生きる才能のある人はみんな現実を知って思い留まって、二度と自殺のことなんて考えないようになるだろうって。すると有名人の死に影響されて後を追うような、浅ましい自殺も一掃される。それは学校どころか社会にとって有益だと思う」
後追い自殺。死は伝播する――心の弱い人、共感力の高い人、死因を他者に預けられる能天気な人たちに。
「ウェルテル効果ですか?」
「よく知ってるね。あれこそ、死を神秘的なものとして扱ってきた弊害だよ。遠いところにある気がするから、一足飛びで手に入れたくさせるんだ。その埋め合わせをするみたいに、みんな才能があるのに不幸なふりをしている。私はそれが気に入らない」
才能。生きる才能。
それは呼吸の仕方や、二足で立つ意志、幸せの感度、他者を信じる能力などを裏打ちするものだと、私は解釈した。要するに、私の持たないもの。翼。
「十河さん、人は無限の可能性を持って生まれるという話を聞いたことはある?」
私は首を横に振った。
「昔読んだ小説の受け売りだけどね。――生まれたばかりの人間には、何にでもなれる未来がある。それが、無限の可能性。けれど時間の経過と選択によって、可能性を減らしていくんだ。Aを選べばBを選べない。優秀になるということは、劣等になる未来を切り捨てるということ。二度と手に入らない可能性を燃料にして人は生きている。かつて無限と思われた可能性は、そうしていつか燃え尽きて、ゼロになる瞬間が訪れる。その瞬間を、死と呼んでいる」
おおよそ理解できた。私の可能性は、もう残り少ないだろうと感じた。同時に、
「今すぐゼロにする選択肢がありますね」
先輩が頷いた。
「メメント・モリ、って言ってね。いつでも死を携えておくのさ」
私は今、その本を携えている。いつか来たる、私の死が、ここに書かれてある気がした。
「ねえ、十河さん。私は、いつ死んでもいいように生きているよ」
凛とした眼差しで、先輩がそう言った。
いつ死んでもいいように生きている。
――後悔の残らないように、限りある今を全力で生きよう。
――生への希望と執着を捨てて、常に死を携えよう。
どちらの意味とも取れる。誰もが好きなほうを選ぶことができる。けれど、どちらかしか選べない。何故なら、残された可能性は有限だから。線を引いて、切り取って、燃やし尽くすことでしか、人は前に進めないから。
私が後者を選ぶことは明白だった。
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