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私は私を裏切って遠くへ行く人を嫌悪する。裏切り者のことは一生かけても許さない。たとえそれがたった十七年のほんの一生だとしても。
予めこれを書いておけば、わかってもらえるだろうと思う。
先輩は私にとって最も忌まわしい存在で、最も忌み深く、意味深い。
彼女と出会ったのは、高校二年生の六月七日のことだった。
私は家から二つ隣の市にある市立科学館に訪れていた。最寄り駅から電車で三十分と、海を渡るモノレールに乗り換えてニ十分。アルバイトもしていない学生身分には手痛い出費がかかる。誰かの同調圧力に従っていたわけでもなく、ただひとりきりで、科学館にあるプラネタリウムを目当てにしていた。
人がひとりでプラネタリウムを目指す理由なんてたった二つに限られる。星が好きか、あるいは、――か。私は後者だった。
星の名前はほとんど覚えていない。けれど、プラネタリウムは、まるで自分が世界で唯一この人工の夜の理解者であるみたいな気分になれて、心地がいい。だから、生きているうちの息継ぎに相応しい場所の一つ。
時刻は、九時三十分。曜日は、火曜日。
平日で、つまりは学校をサボってここに訪れていた。家族の前ではあたかも普通に登校するような顔と装いで家を出てから、自身で学校に欠席連絡の電話をしている。高校に入って使うようになった常套手段だ。毎度の欠席連絡は特に疑いなく受理され、教師から保護者への確認もないようで、サボりは発覚していなかった。
学校は、幸福な人間だけが毎日通える場所だ。その僥倖を喜びこそすれ、偉業のように誇ってほしくはない。
そういった顛末で、私はプラネタリウムに逃避していた。
駅のトイレですでに私服に着替えていた私は、マニュアル通りのスタッフの優しい笑顔に出迎えられて、難なく科学館の入り口をくぐった。券売機で入館用とプラネタリウム用のチケットを購入する。プラネタリウムの途中入場は禁止されているから、開演時刻に注意する。
子供向けの物理学の展示を眺めて、開演までの空白の時間を埋める。見慣れていても、見飽きはしない。ひとりでいるうちは何もかもが価値あるものに思える。昔から集団行動が苦手だった。周りに合わせれば主体性がないと言われ、自身の意見を主張すれば協調性がないと言われる。だから身動きが取れなくなる。ひとりは身も心も軽い。
十時開演に対して、五分ほど前。私はプラネタリウムホールに入った。少しだけ、胸が高鳴る。こんなときばかりは童心に還る。
――油断と慢心は、いつも私を窮地に立たせる。
ホールでは、球型の投影機を取り囲むようにブラウンの座席がずらりと同心円状に並んでいた。座席はリクライニング式の椅子で、背もたれを地面に深く倒すことで、天井に投影される星空を目一杯に仰ぐことができる。
平日の朝からプラネタリウムを観に来る客はそう多くない。その日は、合わせて十数人ほどで、約五組。数少ない面々の中に見つけたある人物の姿は、私の身体を東の空の足下に張り付けた。
三十代前半だろう、スーツに身を包んだ短髪の男性。名前は知らない。知っているのは、彼が私の通う高校の教師であるということ。担当教科さえわからないけれど、確かに学校の中で見かけた覚えがあった。
嫌な偶然だと思った。それから、よく観察して、さらに驚いた。
教師の隣に、髪の長い女子が座っていた。おそらくは高校生。いや、はっきり言ってしまえば、私と同じ高校の制服を着ていた。
このプラネタリウムのホールは全二百三十席。チケットは座席無指定。がら空きな今朝の客入りで、無関係な二人が隣に座る理由は皆無だった。
『平日の朝に、教師と教え子が、学校をサボって密会している』
見てはいけない光景を見てしまった、と思った。
笑顔で教師が語りかけるのを、女子生徒が大人びた様子で頷いていた。デートと呼ぶに値する俗な光景だった。
どうしようかと私は悩んだ。
写真を撮る……見せる相手がいない。ひとりで楽しむ嗜好もない。
背を向けて帰る……元来貧乏性な私はチケットを無駄にしたくない。
挨拶、警告……関わりたくない。
無視……
最初から答えは決まっているようなものだった。私は見て見ぬふりをして、手頃な位置の空席に腰を下ろした。本当はより北側後方の席が良かったのだけれど、目当ての場所に例の二人が鎮座しているのだから仕方がなかった。
こうして私は事なきを得てプラネタリウムを楽しむことができる――はずだった。
そうならなかったのは、私の中で何かの魔が差したのだと思う。野次馬的好奇心が首をもたげ、私はふと、例の二人の方を振り向いた。
そしてすぐさま、あの女子生徒と目が合った。
いつからか、先に彼女が私を捉えていたのだと思う。そうでないと、こんなにもすぐには目と目が合わないはず。
美人だった。瞳は一層綺麗だった。普段人の目を見て話さない私ですら、彼女の瞳から視線を外そうと思えなかった。
そんな数瞬を、彼女の隣に座る男性教師が気づいた。おや、という風に呟いたかと思うと、私の方に視線をやった。
学校には生徒が数百人もいる。だから、面識のないうえに私服姿の自分が教師に見咎められるはずがない。そう私は信じ切っていた。その考えは、容易く否定される。
教師が私の姿を認めて、何かを察したようにはにかんだ。
私は素早く首の向きを戻し、座席に身を縮こませる。バレてしまった? だとすれば、まずいことになるかもしれない。虚偽の欠席を問題行動として取り上げられてしまうだろうか。しかし、生徒と密会していると思われる教師こそ、この状況ではより立場が危ういはず。
いくつもの考えが頭をよぎる。視野が狭まる。だから、右隣の座席に人が来たことに、私はその人の体温を感じるまで気づくことができなかった。
「あ……」
思わず声が漏れたのは、予想外の人物だったから。ひとりだけ。教師ではなかった。あの女子生徒だった。
ホールは全二百三十席。座席無指定。無関係な他人の隣に移動する理由は、皆無。
「……」
女子生徒は何も言わず、私に小さな頷きを寄越す。そして、会話は終わったとばかりにリクライニングの背もたれを倒し、私の視界から外れてしまった。
代わりに、彼女の向こう側に、元の席に座ったままの教師の姿が見えた。やはり何も言わず、私に会釈を送るのみだった。
私は狐につままれたようで、妙なことばかりに納得がいかない。
隣で彼女にならって背もたれを倒し、仰向けになる。彼女の横顔をちらりと窺う。近くで眺めると、より大人びて端正な顔立ちだとわかった。理知的な雰囲気。対して、化粧をしていない瑞々しい肌には幼さが残る。制服に身を包んでいることも踏まえると、私より一つ年上の三年生くらいだろうと思えた。
やがて瞳が星空を映しても、彼女はずっと黙したままだった。
今夜の天体の動きと七夕物語を題材にしたプラネタリウムが終了し、やがてホール内が明るさを取り戻した。
私はすぐさま席を立って、その場を離れようとする。
「もう行くんだ」
涼やかな声で女子生徒が言った。初めて聞いた彼女の声。
「……はい」
「待ってて」
そう言うなりてきぱきと身支度を始める。あっという間に終えて、私の前を歩き出した。まさか連れ立って移動するつもりだろうか。
「制服はあるの?」
「……駅のロッカーに」
咄嗟に正直に答えてしまう自分が嫌いだ。
「なら駅に直行で構わないね」
背は私よりほんの少し高いくらい。けれど、姿勢とか、態度とか、整った顔とか、年上の威厳とかいったものが合わさって、実質よりもすらりと高く見せていた。
「一緒にいた先生は、」
「気にしないでいい。でもね、伝言がある」
「伝言」
「あるいは存在証明。レゾンデートル。高校教師ゆえの高校教師らしい御言葉。今朝のことは黙っておくから、午後から登校しなさい、だってさ」
何て恥知らずなのだろうか。この一件は教師のほうの弱みでもあるはずなのに。さらに言えば、目の前を悠然と歩く女子生徒だって、そう。こんな風に保護者代理人のように振る舞われても困る。
私はあえて口を噤んだ。言い争うつもりはなかったし、自身に権力があると高を括っている人たちの実態を傍で見極めたいと考えたから。
女子生徒もしばらくは静かだった。
その静寂が破られたのは、帰り(あるいは登校)のモノレールが走り出したときのこと。
「君のことを考えていた」
プラネタリウムの座席よりは離れた距離、通路を挟んで座る彼女がそう言った。
応える前に、私は驚いていた。両親や教師、その他の大人たちが上から目線で善意を押し付けるときによく使うそれを、同年代から言われるのは初めてだった。
「……はあ」
次に来るのは指導か、命令か、説教か。
「私がプラネタリウムに行くのは、たいていは死にたくなったときだ。君もそうなんじゃないかと私は仮定した」
「――」
「平日の白昼に来るのはよほど真剣である証拠だ。それはとても勇気が要ることだと、私は経験則で知っている。そこらの生徒たちがおてて繋いで呼吸を合わせて悪さをするのとは違う。ひとりだから弱くて、弱いのにひとりで道を外れないといけない。なのに私は、君が折角勇気を奮って手に入れた解放を取り上げて、学校に連れ戻している。客観的に見ると、私は随分卑劣な人間になってしまったね」
予想していない言葉の数々だった。相手のことを考えたと言って、本当にその通りの意味を表すことなんてあるだろうか。それは、自身にとって都合の良い思考や行動を相手に強制する前振りでしかないはずなのに。
いや、と私は首を振る。
「あなたはひとりじゃなかった」
「先生のこと?」
私が頷くと、彼女は小さく笑った。
「追い追い話すよ。でも、君が蔑視しているようなことは何もないから」
密会ではないという弁明のつもりらしい。
「君はどうなのさ」
彼女が澄ました様子で私を見据えた。
「何のことですか?」
「私と隣同士でプラネタリウムを観た。今も共に苦難の道を進んでいる。客観視して、君はひとりだと言えるのかな」
「ひとりが集まったって、ひとりです」
私は窓の外の海に目を向けた。列車が走り、景色はゆっくりと移り変わっていく。
どちらかが心にも無いことを言っているのだ、だからこんな会話が成り立っているのだ、と思った。
結果的に、私は昼休みの時間中に学校に到着した。体調が回復したから登校したと報告をして、普通の生徒らしく午後の授業に参加する。
登校中の女子生徒との会話に、加えて取り上げるものは少ない。私はもう彼女と接点を持つことはないと思っていたし、電車の騒音やアナウンス、人の喧騒といったあらゆる環境音を緩衝に使っていたから、会話の密度は薄かった。
けれど、布や紙では薄いものの方が綺麗で価値あるものとして重宝されることがある。会話だって、そう扱われることがあってもいいと思う。
私は彼女が同じ高校の三年生であることを知った。私は彼女の呼び名を「先輩」と改めた。どちらの家も学校からほとんど同じ方向にあるとわかった。距離は私の方が近い。友達と呼びたい相手はどちらも持っていない。
名前の自己紹介がいつだったかは思い出せない。それは本に染みこんだ一粒のインクのようで、もう見つけられない。けれど、確かにそこにあったことは覚えている。
「十河暁です」
漢数字の十に、さんずいの河で、ソゴウ。暁(あかつき)と書いてアキラ。
「私は、千条灯」
漢数字の千に、道筋の条で、センジョウ。灯(ともしび)と書いてアカリ。
一生忘れられない名前を聞いた。たとえそれがたった十七年のほんの一生だとしても。
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