白蟻
紫鳥コウ
白蟻
母さんが風呂場で白蟻を見つけて、業者さんに調べてもらったらすっかり巣くっており、駆除をすることになった。三十六万円かかるとのことだ。
僕の家は裕福というわけではない。もし巨額の財があるのならば、白蟻とは縁の無い豪邸に住んでいたことだろう。はっきりと築年数を覚えていないが、至る所がボロボロになってきている。僕の部屋の畳もいつ抜けるかわからない。
こういう事実を突きつけられたとき、僕が真っ先に考えることは、自分の存在意義についてだ。なにも、哲学的なテーマではない。切実な生死に関する問題である。僕は卑屈になっているとよく言われる。でも自分に自信が持てなくなることには、ちゃんとした理由がある。それは僕が無職だからだ。
大学を卒業したあと、大学院の修士課程に入ったものの、指導教員との折り合いがつかず精神的に参ってしまった。
一年間の休学を経て、なんとか卒業をすることはできた。しかし、打たれ弱さのようなもの、言い換えるなら、ひとから口にされることに敏感に反応し、敵意まで抱いてしまうという性格を、激しく痛感することになったし、それを飼い慣らすことができないのも知った。
そのせいで、僕の人生はおかしくなってしまった。
本当なら、どこか適当なところへ就職して、家族を支えるつもりだった。それが、もうすぐ還暦を迎えようとする親に養われる形となっている。
このことは、親しいひとにも秘密にしている。もう二十五歳だというのに、親のすねをかじって生きているということを知られるのが、恥ずかしいし、なんだか悔しいからだ。
僕はもう、自分の存在意義というものが、まったく見えなくなってしまった。そして、自分が家族の負担となっているのではないか、ということを意識するたびに、よくない考えが頭に浮かぶようになった。もし僕に稼ぎがあったなら、白蟻の駆除のお金をぽんと出すことができたかもしれない。
しかし実際は、僕を養うお金の上に、駆除の費用が積まれているのだ。
* * *
処方された薬の量が増えた。食後に飲む抗うつ剤が四錠になった。
そして、どこから嗅ぎつけたのか、僕が無職であり親に養われているということを、ある友人に知られてしまった。
そいつは、さも友人としての役割だといわんばかりに、くどくどと説教をしてきた。もう彼とは関わり合いになるのを止めることにした。まるで、僕へと投げかける言葉は、すべて正論になると思っているようだったから。この世には正しい規範というものがあるかのように、振舞っていたものだから。
僕のことを厳しく叱る、彼のようなひとたちが、僕みたいな存在を産み続けているのではないだろうか。生きにくいひとなんて、いないのだ。生きにくくさせられたひとたちが、なんとか踏ん張って生きている。それが、僕がいま見ている現実というものだ。
きっと、強いひとたちには、この理屈が分からないと思う。
一日中、部屋に閉じこもっている。なにかをしているわけではない。出口がまったく見えない。入口がどこにあったのかも忘れてしまった。
* * *
母さんが風邪をひいた。それなのに、僕のために働こうとしてくれている。
こういうとき、いますぐ死んであげられたらいいのに、という気持ちになる。
食器を洗い終えると、テーブルの上に、母さんのコップが置いてあるのに気付いた。
深呼吸をしてから、
「ケン?」
「うん……大丈夫?」
「大丈夫だよ。ちょっと寝れば、すぐに治るから。夜のごはんは、どうしようかねえ」
そのとき、僕のこころに込み上げてきたのは、怒りの気持ちだった。自分自身への強い怒り。それは、破壊欲と言ってもいいかもしれない。
「僕、死んであげるよ。そうすれば、ごはんも作らなくていいし、お金もかけなくて済むし……」
それは僕の本音であった。死ぬのはこわいし、できるかどうか分からない。だけど、僕がいなくなれば、家族の負担が減る。ぼくがいないことが、家族への貢献になるのではないか。そうしたことは、ずっとずっと、ずっと考え続けてきたことだ。
しばらく、沈黙が漂った。なにか言葉が返ってくるのがこわくなり、その場を立ち去ろうかと迷いはじめた。そうしているうちに、母さんが寝返りを打ったような気配がした。
「お母ちゃん、風邪なんて治らなくていいって思ってきたわ」
声が震えている。怒りのためか悲しみのためかは分からないけれど、僕はようやく、自分の言ってしまったことの意味を理解した。
曇り空はよりいっそう色を濃くして、廊下のあちこちに気味の悪い影が作られている。
生きるべきだ。暗がりのなかで、そう思った。
〈了〉
白蟻 紫鳥コウ @Smilitary
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