余 過ぎ去りし日々

姫烏頭蒼雪

春先の蕾

「お前なんて、だいっきらいだ!」

 授業も終わった午後八時過ぎ、彼らを見送ろうと塾の玄関先に立ったところで、泣き喚くような声が聞こえてきた。目の前に立っていた克郎かつろうと思わず顔を見合わせて、秋則あきのりは声が聞こえた階段の方を見る。

 階段を駆けおりてきた子どもは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

宗方むなかた先生」

 転がるようにして駆けおりてきた彼を任せるべく、秋則は克郎に声をかける。

川辺かわべ、どうした?」

 秋則の意を正しく汲んだ克郎が、焦っているように見えないよう、つとめてゆっくりとけんしょうに近付いていく。

 小学五年生になったばかり、まだ小学四年生と変わらない十歳の子どもだ。とはいえこれで何度目になるだろう。兼翔を怒らせた相手も、分かっている。

 じきに階段を降りてくるだろうが、今彼らが顔を合わせるのはあまり良くない。だから玄関前は克郎に任せることにして、秋則は階段の一段目に足をかけた。

 踊り場のところで、迷子のようになっているもう一人の子どもがいる。

姫烏頭ひめうず

「……篠目ささめ先生」

 彼は表情に乏しいが、何を考えているのか分からないほどではない。今もそうせつは、途方に暮れているような、どうしてだか分からず混乱しているような、そんな顔をしている気がした。

 別に彼も、兼翔を怒らせようとか、そんな悪気があったわけではない。ただ兼翔が発した言葉の意味を、彼が何を考えてそれを言ったかを汲み取りきれず、表面的な正論だけを突き刺してしまったのだろう。

 お手本のような答えを、兼翔は欲しがったわけではない。兼翔も問題がないとは言わないが、蒼雪もまた、問題を抱えているのは確かだった。

 ただそれを当人に、言うわけにはいかない。

 彼らは彼らなりの置かれた環境があって、何もすべて彼らの責任ではないのだ。周囲にいるおとなや、学校の教師やクラスメイト、そういうものもある。

「……何で、川辺は怒ったんですか」

「何でだと思う」

 本当は問いに問いで返すのは良いことではない。けれどここで秋則が答えを教えたところで、きっと蒼雪は分からないままだ。そうしてまた、同じことを繰り返す。

 兼翔は怒っていたものの、きっと明日になればけろっとして、また蒼雪に近寄っていくだろう。けれど、誰もが兼翔のようになるわけではない。

「……俺には、分かりません」

「そうか」

 どのように、彼に伝えれば良いのだろうか。

 どうすれば彼にとって、一番良い形で伝えられるだろうか。

 少し屈んで、蒼雪と視線を合わせた。彼は真っ直ぐに秋則の目を見ていて、けれどその瞳の中には何もない。

「人の顔を、見てみると良い。よくよく、観察してみるといい。きっと、その人が何を考えているのか分かるから」

 会話をするときに、蒼雪はきちんと人の目を見る。けれど見ているのは目だけであって、表情や、想像がそこにはない。

「本当に?」

「本当だよ。姫烏頭は、勉強は得意だろう? そして塾は、学ぶ場所だ。川辺や、染井そめいや、くにさきや、花園はなぞのや、先生たち。ここでなら失敗してもいい、僕や、宗方先生や、塾長先生が教えてあげられる。だから今のうちに、できるようになってみないか」

 しばらく蒼雪は、じっと秋則の顔を見ていた。

 これは、おとなの押し付けだろうか。善意のつもりで言っている、余計なお世話になってはいないだろうか。

 そんなことを考えていたところで、こくりと蒼雪が小さく頷いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る