終 木瓜咲くや

きっと貴方は

 昼下がり。

 ディ・ヴィーゲに戻る途中にある家の前で、かなめはふと足を止めた。白と紅のまだらの色をした花が咲いている。桜はまだ咲いていない、梅はもう散っている、ならばこの花の名前は何と言うのだろうか。

 梅や桜に、花は似ている。塀の向こうで、枝を伸ばしている。

「おや、喫茶店の」

「あ……すみません、こんにちは」

 塀の向こうに、家人がいた。見ていたことに気付かれてばつが悪い気持ちになって、要はすぐに頭を下げる。

 要を見て喫茶店の人間だと分かったということは、この家人は喫茶店の客ということだろう。頭を上げて見た初老の男性は、確かに見覚えがあった。

「この花は?」

「ああ、これ。木瓜ぼけというんだよ」

 木瓜ぼけの花。

 名前は何度となく聞いていたものの、花をしっかりと見たのはこれが初めてだ。

「これが、木瓜ぼけ……」

 篠目ささめ秋則あきのりが遺書に書いた。『草枕くさまくら』に、夏目漱石なつめそうせきが書いた。

「少し、持って行くかな」

「え」

「喫茶店に飾ってもらえたら、嬉しいね。樹生たつき君のコーヒーは美味しいから」

 要が返事をするより前に、老人が家の中に姿を消す。そしてはさみを持って戻ってきた老人は、ぱちんぱちんと花のついた枝を何本か切る。

 どの道枝を切って風通しを良くする必要があるからと、老人は笑う。木瓜ぼけの花の枝を抱えて要は頭を下げ、なんとなく急いでディ・ヴィーゲへの道を進んでいった。

 花の枝を抱えたまま扉を開けば、からんころんといつも通りの可愛らしい鐘の音が聞こえてくる。

「ただいま、兄さん」

「ああ、おかえり要。それは?」

 花の枝を抱えて帰ってきた要の腕の中を示して、樹生が首を傾げる。肩はもう良いのだろうかと何度となく聞いているが、樹生には「気にしすぎだ」と言われてしまった。

 日常見ていても、特に痛みはなさそうに見える。ただそれが要の前だから平気そうに振る舞っているのかどうか、要には分からない。

「ご近所でいただいたんだ。席に飾って良い?」

「ああ、構わない」

 樹生が少しばかりいびつな、下手な笑みを浮かべる。

 いつも花が飾ってあるわけではないが、それでも花が飾れるように花瓶はある。しまわれていたそれを取り出して水を入れて、各机とカウンターのところにひとつひとつ花瓶を置いていく。

 それから花の枝を一枝ずつ、花瓶に挿していった。窓際の一番奥の席には、一番花が綺麗に見える枝を選んでそれを挿す。

 木瓜ぼけの花を飾り終えて、それだけで店内が明るくなったような気がした。ただ花を飾っただけなのに、店内に春が来たような気がする。

 からんころんと鳴った可愛らしい鐘の音に、要は店の入り口を振り返る。

「いらっしゃいませ。あ、姫烏頭ひめうずに、花園はなぞのも」

「こんにちは」

 蒼雪ひとりではなく、その隣には弘陽こうようがいた。

 店内には沙世さよも、当然ながら正治しょうじもいない。

「姫烏頭、いつもの席なら空いてるよ」

「そうか」

 窓際の、一番奥の席。

 ちょうど昼食時で、蒼雪も食事をするだろうと要は彼に声をかける。

「注文、ハンバーグとアイスティーか?」

「そうだな。花園は、どうする」

「俺はコーヒーだけでいいよ」

 蒼雪はやはり、いつも通りのメニューだった。弘陽も以前と同じ注文をして、要はそれを樹生に伝えにいく。

 おそらくは要との会話を聞いていたのだろう、樹生はすでにハンバーグの鉄板や氷の入ったグラス、マグカップを準備していた。

 じゅうじゅうと肉の焼けるにおいが広がる。もう店内に、泥のにおいはしなかった。濃いコーヒーのにおいが漂っていて、その中にハンバーグのにおいが混じっていく。

 皿に炊き上がっている米をのせて、焼きあがったハンバーグと、アイスティーのグラスと、それからコーヒーのマグカップと共に蒼雪たちがいるテーブルへと運ぶ。

「花……」

 弘陽がテーブルの端にあった木瓜ぼけに気付いて、視線を向けている。彼の前にはコーヒーのマグカップを置いて、そして蒼雪の前にはハンバーグの鉄板とライスの皿と、それからアイスティーのグラスを置く。

 蒼雪は一本芯が通っているかのような姿勢のまま、カトラリーの箱からナイフとフォークを取り出す。

「あ、それ。木瓜ぼけを、近所の人に貰ったから」

 ほとんど音を立てることもなく、蒼雪がハンバーグを切り分ける。彼は木瓜ぼけの花に視線を向けないが、弘陽はじっと木瓜ぼけの花を見ていた。

木瓜ぼけ

 ぽつりと、弘陽の声が落ちていく。

木瓜ぼけの、花」

 切り分けたハンバーグを口に運んで、咀嚼して、呑み込んで。それからフォークを置いて蒼雪もまた木瓜ぼけの花を見る。

「篠目先生は花園に、この花を見たんだな。君、先生に会いに行ったのは、いつだ?」

 合格発表の後、弘陽は篠目秋則に会いに行っている。大学の合格発表は、前期試験ならば三月の頭だ。

「……三月、十日」

「そうか。ちょうど木瓜ぼけも、咲いていただろうな」

 弘陽は希望であったと、蒼雪が言っていた。篠目秋則にとっての希望になり、だからこそ彼に篠目秋則は遺書を託したのだと。

 白と紅の斑の花が、咲いている。梅でもなく、桜でもない、春を告げるような花が咲いている。

「せんせい」

 震えるような弘陽の声が、落ちていった。

「せんせい……篠目、先生……!」

 すすり泣きのような音が聞こえて、要は弘陽の顔を見ないようにした。蒼雪は変わらず高級なレストランで食事でもしているかのような動きで、ハンバーグを口に入れていく。

 篠目秋則は遺書に木瓜ぼけのことを書いた。夏目漱石の『こころ』についても書いた。

木瓜ぼけ咲くや、漱石せつを守るべく、か」

 ハンバーグとライスを綺麗に食べ尽くした蒼雪が、そんなことを口にする。

 弘陽のすすり泣きの声は少し小さくなって、大きく鼻をすするような音の後で、その声は止まった。

「俺、先生みたいに、なるんだ。先生みたいな、先生に、俺なりの、やり方で」

 木瓜ぼけの花が、咲いている。

 かつての文豪が愛したという花は、明治の時代でも、令和の時代でも、変わらずに咲いている。

「そうか」

 冬の後には、春が来る。必ず春はやってくる。

 停まっていた時間は動き出し、時代は平成から令和へと移り変わった。白く分厚く凍えた雪が融けて水になり、そして春が来て花が咲くように。

「……せつ

 せつとは。

 その言葉にどうしてか、樹生のチンパンジーの話を思い出した。可能性というものの話を、思い出した。

「先生」

 ぽつりと、蒼雪の言葉が店内に落ちる。静かなクラシックの音楽に溶けて混ざって、そうして消えていく。

 来世は、木瓜ぼけになれるだろうか。

 来世は、木瓜ぼけになりたかった。

「きっと貴方は、木瓜ぼけになれましたね」

 店内にはコーヒーのにおいが漂っている。「そうだな」と、弘陽がまたすすり泣くような声で、蒼雪に返答をしている。

 春が来る。木瓜ぼけが咲く。春を告げるために、愚直に、花が咲く。

 どこかで、満開の木瓜ぼけの花が、咲いている気がした。


 ︎︎ ︎︎ ︎︎ ︎︎ ︎︎ ︎︎ ︎︎ ︎︎ ︎︎ ︎︎ ︎︎ ︎︎ ︎︎ ︎︎      ︎︎ ︎︎春告花は咲く ︎︎了

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