5.教えてあげない

 本屋の専門書の棚に行けば彼女がまたいるだろうと、そう考えたのは事実だった。何日か通うつもりでいたが、まさか初日で遭遇できるとは思わなかった。

 沙世さよは今日も、薄い化粧だ。仕事帰りだろうスーツは皺が寄っている。喫茶店に寄るときは、いつも化粧を直して着替えていたのだろう。

「あら嫌だ、また会ったわね。ストーカー?」

「……笑えない冗談だなと思うのならば、言わなければ良いのでは」

 ストーカーという言葉を口にした沙世は、何かを思い出したのかばつの悪そうな顔をしていた。そう思うのならば最初から言わなければ良いのに、どうして口にしたのだろう。

かなめちゃんはだいぶ落ち着いたみたいよ。樹生たつきさんもお店を開けられたし」

「そのようですね」

 孤独が、怒りが、人を犯罪に駆り立てるのならば。

 金代かなしろは孤独だったのだろう。正治しょうじもまた、孤独だったのだろう。樹生は正治を殺そうとしなかった、とは蒼雪そうせつは言わない。樹生の中には怒りも恨みもあって、けれど彼はそこで踏みとどまった。

「貴方、分かっていたんでしょう? ︎︎樹生さんが過去の恋より今の庇護を優先すること」

「何のことだか」

 樹生は要があんな行動に出ることを、予想していたのだろう。

 自分の中にある感情すらも分からない要を、蒼雪は止めた。けれど別に、殺すなと言うつもりはなかったのだ。殺したいのならば殺せばいい、仇討ちをしたいのならばすればいい。その罪を背負うことが、できるのならば。ただ何も分からないままに殺そうとしたから、止めただけ。自分が何をしようとしているか自覚して殺し、罪を背負うのならば、止めなかった。

 樹生はきっと、自らが先に正治へ刃を向けることで、要の行動を遅らせたのだ。いざとなったら自分が止めることができるよう、先にカウンターの外に出るために。

 蒼雪から彼らに言えることは何もない。別に恨みも憎しみも殺意も、否定するようなものではない。抱くのならば、抱けばいいのだ。それもまた人間の中にある感情であって、何もおかしなことはない。

 今蒼雪が沙世に聞きたいのは、そんなことではなかった。

「ひとつ、気になっていることがありましたので」

「何かしら」

 正治は沙世に恋をした。『恋重荷こいのおもに』の老人のように、若い彼女に恋をした。もっとも彼女は難題を正治に告げたわけではなく、思いに応えることも弄ぶこともなかったけれど。

 沙世が恋をした相手を、正治は樹生だと結論付けていた。けれどそうであると、蒼雪は言えない。それではおかしな点が、いくつもある。

「貴女の恋の相手は、樹生さんではありませんよね」

 蒼雪の問いに、沙世は答えない。

「あの席は確かに樹生さんがよく見えます。そこに座りたがったのは貴女ではなく、中原なかはら美悠みゆうさんでしょう」

 カウンターの真ん中、樹生がいつもいる場所が、一番よく見えるところ。蒼雪は沙世が座る席は、そこしか知らない。そしてかつてそこの隣に、美悠がいたことを覚えている。

 樹生の姿を見たかったのは誰なのか。そしてどうして沙世は、今でもそこに座っているのか。

「貴女はずっと、中原美悠さんがいたころと変わらず、あの席に座っているのですね」

 一分の隙もない姿をして、一番綺麗な姿をして。

 それを、誰に見せたいのだろう。それが樹生でないとするのならば。彼女が諦めたかった相手とは。

「もう来るなと、言われたかったですか。中原美悠さんの面影に縋るようにして喫茶店に行って、そしてあの席に座ってしまう自分がどうしようもなくて、行かなくて良い理由を作るために、樹生さんや深山みやまに嫌がられるようなことをして」

 沙世はやはり何も答えずに、けれど彼女はふと笑みを浮かべる。

「貴方、やっぱり恋を知らないのね」

「そうですね」

 そんなものが必要だと、蒼雪は思っていない。恋だとか愛だとか、そんなもので簡単に人と人との関係は壊れてしまう。

 貴船の螢火。ある女性は恋を裏切られて、顔を赤く塗り、頭に五徳を被り、そこに蝋燭ろうそくを立てて鬼になった。山科の荘司もまた、弄ばれて執心の鬼と化した。

「せいぜい、答えを気にしていたら良いわ。私は貴方に何も、教えてあげない」

 戀よ戀。

 蒼雪は恋の演目を、ほとんど舞ったことがない。お前の解釈は表面的だなと、そんなことを蒼雪に言ったのは、裏切られた恋によって体を壊した蒼雪の父だった。

 本棚から一冊の本を抜き取って、沙世は蒼雪に背中を向けて歩いていく。彼女の恋は未だその中に燻ぶっていて、けれど彼女は前へと進んでいる。平成から令和へと、彼女は確かに前へ進んだ。

 樹生と要もきっと、これでようやく前へ進めることだろう。平成の終わりに時間を停めてしまった彼らは、これでようやく令和を迎えることができたのだ。

「戀路の闇に迷とも――その恨みは、霜か雪かアラレか」

 本屋の外に出る。もう三月も半ばに近くなるというのに、夜になると少しばかりまだ風は冷たい。

 父の見舞いにでも行こうかと、そんなことを蒼雪はふと考えた。

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