4.罪を犯すのは

「兄さん!」

 慌ててカウンターの中から出るが、樹生たつきがひたりと据えたナイフの先は決してぶれることがない。あと少しでも前に進めればきっと、ずぶりとナイフの先は喉仏のところに埋まることだろう。

「な、なにを……なにを言ってるんだ、樹生君!」

「そのままの意味だ」

 近付いたところで、かなめに何ができるわけでもない。

 樹生は姉を殺した犯人を知りたがっていた。彼は犯人を殺したくて、復讐がしたくて、知りたかったのだろうか。

 許さないと言っていた沙世さよはどうなのだろうと彼女を見れば、彼女は目を見開いて、信じられないようなものを見る顔をして、そして唇を震わせている。

「じいさんが死んで、親も帰ってこない。一人この喫茶店に残されて、いっそ親が帰ってきたら殺してやろうとまで考えた」

 どんな人間が人を殺すかと、樹生は要にも問いかけた。要はそれに、答えることができなかった。

「孤独と怒りは、人間を犯罪に駆り立てる。俺はそれを、よく知っている」

 ほんの少し、樹生がナイフの先を前に進める。正治しょうじの喉の皮をへこませて、けれどその切っ先はまだ皮を裂くには至らない。

 正治より、樹生の方が背が高い。正治の喉あたりにはちょうど樹生の肩があって、樹生は正治を上から見下ろす形になっている。

「ひっ……」

 正治の情けない声がして、それからパンパンと二回手を叩く音がした。一体何の音かと見てみれば、蒼雪そうせつが薄く笑みを浮かべていた。

「その辺りにしませんか、樹生さん」

「止めるのか」

「いいえ、止めませんよ。貴方がその罪を背負う覚悟があるのなら、俺は別に。その人がどうなろうと関係ありませんからね。ですが、そんなほとんど殺意のない刃物は向けておく価値もありません」

「そうか」

「殺したいのなら、殺せば良いと思いますが…‥けれど殺そうという気があまりないのなら、そんなものは下ろしておく方が良いですよ」

 すっと正治の喉のところからナイフが離れていく。そのままカウンターの上に置かれたナイフはさして長さもなく、けれど喉に突き立てれば間違いなく命を奪える。

 じくりじくりと澱みが蠢く。カウンターの上に、銀色がある。壁に背をつけて怯えた顔をしている正治は、要から姉を奪ったのだ。

 そうだ、。彼が、要から。幸せになれるはずだったのに、翌日には入籍するはずで、結婚式だってすると言っていたのに。

「もしもし、はい……ええ、どうぞ」

 蒼雪がどこかに電話をしている、そんな声が聞こえた。どうにもそれが、壁一枚挟んでいるかのように、少し遠い。

 要にはもう、姉しかいなかったのに。樹生は確かに要の兄にはなってくれたけれども、それは本物ではない。血の繋がりのある家族は、両親が死んでしまった要は、もう姉ひとりしかいなかったのに。

 吐きそうだ。泣きそうだ。叫びたいのに、声も出ない。それならこれを、どうしよう。

深山みやま、待て」

「何だよ、姫烏頭ひめうず

 別に何もしていない。

 要はただそこにあったものを手に取っただけ。そこで怯えている正治に向かって、足を進めただけ。

 呼吸している、喉仏が上下している。動いている、生きている。姉はもう、どこにもいないのに。喉仏が動いていて、呼吸をしていて、生きていて、生きて――。

 どうして。

 どうして生きているんだろう。だって姉はもういない。要から姉を取り上げて、それでどうして。

 姉を取り上げた理由だって。そんなことのために。そんなものの、ために。

 吐きそうだ、叫びそうだ。腹の底で澱んでいるものが、蠢いている。これの名前を、何と名付けようか。

「要!」

 何かにぶつかったような、そんな気がした。手を振り上げて、けれど思っていたようなものではない。

 からんと何かが落ちた音がした。どうしてだか手がひどく生あたたかくて、ぬるりとしている気がする。

「深山!」

 焦ったような蒼雪の声は珍しいなと、ぼんやりとそんなことを考えた。そういえば今落ちていったものは何だっただろうか、聞き覚えのない音だったように思うけれども。

「え? あ……え? な、なんで、俺……兄さん……」

 目の前に、樹生が立っていた。先ほどまでは正治がいたはずなのに、正治と要の間に樹生が立っていて、左肩のところを押さえている。その指の間から赤い色が見えて、ぽたぽたと落ちていって、あれは。

 何度となく要は瞬きを繰り返す。けれど目の前の光景は消えることなく、肩を押さえる樹生の向こうに、正治が見える。

「ああ、良かった……

 サイレンの音が聞こえた。

 救急車。救急車を呼ばなければ。そんなことを思っていたけれど、思考はまとまらずにうまくものを考えることができない。

 ようやく息ができたような気がしたときには、もう目の前に正治はいなかった。誰かが来たような、誰かが連れて行ったような、そんな気はするけれど思い出せない。

 がくんと要の膝から力が抜けた。一気に肺に空気が入ったかのようになって一瞬息が止まり、要は床に手をついたまま大きく咳き込んだ。

「落ち着いたか」

「あ、ああ……」

 ぺたんと床に座り込んで、蒼雪を見上げる。立ち上がろうとしても力が入らず、片手で椅子を掴んで立ち上がろうとしても立ち上がれない。

 ぱたぱたと血ではない何かが落ちていく。何だろうかとぺたりと頬に触れて、ぬるりとした血だけではない何かが流れていることに気が付いた。

「俺、なんで、あれ……」

 これは、何だろう。

 じくじくとした澱みは消えたのか、どこかへ行ったのか、けれど吐きそうなのは変わらない。

 だって姉はいなくなった。要の前からふつりと消えた。それなのにまだ正治は生きていて、そこにいて、だからいなくなってしまえばいいと、そんなことを思って。

 でも。

 だって要は、だ。

「なんで、なんで……姉さん、なんで……俺、俺!」

 それでも、誰かを殺していいわけではないのだ。最後の一線を踏み越えていいはずがないのだ。そう頭では分かっているというのに、どうして目の前には血に濡れた果物ナイフが転がっているのだろう。

 孤独と怒りが一線を踏み越えさせる。孤独なつもりはないのに。怒りも自分の中では見付けられないのに。それなのにどうして。

 上を見上げる。蛍光灯が光っているのに、滲んでいる。

「姫烏頭君、要ちゃんは私が見てるわ。警察の人に呼ばれてたでしょう?」

「そうですね、お願いします」

 沙世の声と蒼雪の声が聞こえたけれど、彼らが何を言っているのか頭に入ってこなかった。ただ、誰かが要の背中を撫でて、軽く叩いて、宥めようとしている気がして。

 いつまで経っても立ち上がることができずに、要はひたすらに天井を見続けていた。滲んだ蛍光灯の光はぼやけて、いつまでも輪郭を結ぶことがなかった。

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