3.欲望しか見えないチンパンジー

「な、何でだ! 俺は全部沙世さよちゃんのために……」

 あからさまにたじろいだ正治しょうじが、腕組みを解いている。彼は沙世の方を見ていて、沙世も彼の方を見ていて、けれどその視線の質量はまるで違う。

 正治はどこか縋るように沙世を見ていた。けれど沙世の視線は、まるで意味の分からないものを見るようなそれだった。

「ああ、そうですか。やはり貴方にとってのが、それですね」

 難題と、蒼雪そうせつは口にする。

 美しく作られた荷を持って庭を百度千度と廻れ。それが『恋重荷こいのおもに』の老人に対する難題だった。

「貴方にとっての難題はつまり、岡館おかだて沙世さんのために、中原なかはら美悠みゆうさんを排除すること。そうですよね? それで岡館さんが喜ぶとでも、自分に笑顔を向けてくれるとでも思いましたか。貴方がいつも座るその席は、岡館さんが一番よく見える場所ですね」

 正治はいつでも、カウンターの端の席にいる。かなめがディ・ヴィーゲを知ったのは沙世が姉にこの店を紹介してからで、その時にはすでに正治はこの店の常連だった。

 沙世はカウンターの真ん中の席、樹生たつきが一番見える場所にいる。そして確かに正治のいる席は、沙世のいる場所が一番よく見えた。

「その思いの巌で中原美悠さんを押しつぶし、殺し。恨みがあったかどうかは知りませんが、そこはどうでも良いことです」

 音を立てて、沙世が立ち上がる。両手を机について、正治を見て、蒼雪を見て、そして彼女は赤く塗られた唇をわななかせていた。

「ねえ、何よそれ。私のせい? 私のせいで美悠は死んだの?」

「沙世ちゃん、違う! 俺は沙世ちゃんのために! 美悠ちゃんが沙世ちゃんの苦しみを理解しないから、だから」

「馬鹿じゃないの! 何よそれ!」

 正治は沙世のためだと言う。そのために姉を殺したかのような言葉はどうしようもなく重くて、大きくて、とても要には呑み込めない。

 じくりじくりと何かが這い上がる。何かを叫びそうになって、けれど叫び声は出てこない。その代わりに、口から疑問が転がり落ちた。

「何で……何で、姉さんを殺すことが、岡館さんのためになるんだ」

 沙世と姉は親友だったはずだ。いつからそうだったのか、要は知らない。ただ親友なのと姉に紹介されて、そうなのかと思っただけで。もうずいぶんと前のような気がするけれど、出会ったのはいつだっただろう。

 両親が死ぬより前だったのか、それとも後だったのか。ただ時折そうして姉が連れてくる親友というのは沙世だけで、他の友人の話は聞いても実際に顔を合わせたことはなかった。姉の葬儀のときに友人だという人は現れて消えていったけれど、その人の顔も名前も要はもう覚えていない。

「だって沙世ちゃん、樹生君のことが好きだったろう!」

「何言ってるのよ!」

「先に樹生君と出会ったのは、沙世ちゃんだったろ! なのに後から来た美悠ちゃんが、樹生君と付き合い始めて、結婚すると言って……そこから沙世ちゃん、変わったじゃないか! まるで樹生君や美悠ちゃんに嫌われようとするような、そんな沙世ちゃん見てられなかったんだ!」

「何よそれ、気持ち悪い!」

 じくりじくりと、澱みが蠢く。腹の底にあったはずのものが、胃の中からせり上がってくるような気がした。

「結婚式してスピーチさせてよって言ってたじゃないか! 諦めるみたいな顔して! 俺はずっと沙世ちゃんを見てたから分かってる! 俺が一番沙世ちゃんを分かってあげられるんだ! 派手なばっかりじゃなくて、影があって」

 なんだろうか、正治の言葉は上滑りをしていくばかりだ。

 彼のそれは、恋と言うのだろうか。どうしようもなく身勝手で独りよがりなそれの名前が何であるのか、要は答えを出すことができない。

「この店に来るときだけ派手な恰好してただろ? 樹生君のためだろ? だって普段は、もっと化粧も薄くて、服だって」

「なんでそれを正治さんが知ってるのよ!」

 本屋で見かけた沙世は、ディ・ヴィーゲで見るときの姿とはまるで違っていた。化粧は薄くて崩れ、スーツも皺があった。

 沙世は濃い化粧が似合う顔立ちではある。いつからそうし始めたのかは分からないが、少なくとも要が見る彼女というのは、いつだって身ぎれいにしていた。それこそ、ここの常連になるよりも前、それでも彼女はここで見かけるのと同じように一分の隙もない化粧と服装だったように思う。

「単純な話です。岡館さんのストーカーは、正治さんですから。別に最初がいつだとかそういうのは知りませんが、貴方は岡館さんに恋をして、そしてその重荷を抱えながら彼女の後ろをついて回った。この店で会うだけでは、満足せずに」

 だから、ショートケーキの美味しい店と言われて、沙世が気に入っていた店の名前を口にした。

 だから、この店にいないときの沙世の恰好を知っていた。

 姉が視線を感じたのも、誰かがついてきているように感じたのも、隣に沙世がいたからだ。隣にいる沙世の後をつけていた正治の存在に、姉が気付いた。

「どんな格好してようと私の勝手でしょ! 私はこの店では、この席では、自分に一番似合って、一番綺麗に見える恰好をしてただけよ!」

「だからそれが、樹生君のためだろ?」

「違うわよ!」

 沙世の叫びは、悲鳴にも似ていた。

「美悠ちゃんさえいなければ、沙世ちゃんが苦しむことはなくなるじゃないか。健気に入籍の前日に三人で話したいだなんて、そんなの。どうして沙世ちゃんだけが。だから俺は沙世ちゃんのために」

「それを聞いたから、貴方は中原美悠さんを殺しましたか」

 二〇一九年四月三十日。平成最後の日。あと数時間で平成が終わるころ。

 じくりじくりと這い上がったものが、口の中にまで上がってきた気がした。ごくりと飲み込んだのは澱みだったのか、それとも生唾か。

「駅からこの店までの途上、中原美悠さんは急いでいたでしょうね。そして路地裏に入ったところで、貴方は喫茶店に行かせまいとした」

 正治はただ黙って、沙世を見ていた。沙世は睨むようにして、泣きそうな顔をして、正治を見ている。偽りを許さないようなその視線に気圧されてなのか、渋々といった様子で正治が口を開く。

「そうだ、行かないでくれって言ったんだ。沙世ちゃんのためにって。でも美悠ちゃんは何を言ってるのって言うから、こんなケーキを持って行っても沙世ちゃんが悲しむだけだとケーキを奪おうとしたら、奪ったら、奪い返そうとするから、かっとなって、突き飛ばして、そうしたら」

「……頭を打って、倒れた」

 それは、ただの偶然であったのかもしれない。平成の透明人間の犯行は刺殺としか公表されておらず、その前に頭を殴られていたことは報道されていない。

 ただその偶然によって、頭を殴られたのと同じになった。それがなければ、姉の事件は透明人間の犯行だとは思われなかったかもしれない。

「でもそれで、姉さんは死んだわけじゃない。そこで、もし」

「今ここでもしもの話をしても仕方がないが……そうだな、染井そめいのときと同じ。そこで救急車を呼んでいれば、助かったかもしれない。けれど正治さんはそれを選ばなかった」

 まだその時には、息があった。染井もそうだが、姉の死因も刺されたことによるものであり、殴られた、頭を打ったことではない。

 これはただの「もしも」の話であって、実際にそうなったとは限らない。けれど要は考えてしまうのだ。もしもそこで救急車を呼んでいたら、一線を越えることなく踏み止まっていたのなら、今もまだ姉は生きていたのではないのかと。

 けれど、その「もしも」は、なかったことだ。

「目の前には、倒れている中原美悠さん。そこで貴方は、思ってしまった。ああ、なるほど。これが解か。そういうことか」

 蒼雪が、立ち上がる。

「ここで殺せば、難題が解決できる。中原美悠さんを排除できる。そうすれば岡館さんの恋が成就して、彼女を幸せにしてあげられる。そうして悦に浸るつもりでしたか。岡館さんは自分のおかげで幸福になったと」

 気持ちが悪い、叫びたい、吐き出したい。けれど喉からは何も出てこない。じくりじくりと澱んだ何かが、ただ要の中で蠢いている。

「どうせ貴方、それを黙ってはいられませんでしたよ」

「どういう意味だ」

「だって、見返りを求めるでしょう。さっきから散々岡館さんのためにと。黙っていられましたか? 岡館さんがもし幸せになったとして、その幸福は自分のおかげだと、言わずにいられたとは思いませんよ」

 君のために人を殺してあげました。これで君は幸せになれました。

 もしも沙世がそれで幸福になっていたとしたら、それは正治にとって誇るべきことだったのだろう。そして自分に感謝して欲しいと、沙世の前でそれを口にしたかもしれない。

「さて、それは仮定の話。真実の話をしましょうか」

 救急車は、呼ばれなかった。要の姉は、刺されて死んだ。

 平成の透明人間の他の被害者は、背中側から刺されていた。けれど姉だけは、正面から刺されていた。他の被害者は刃が上を向いていて、姉だけはそれも違った。

「貴方は仕事帰りだった。当然貴方は持っていましたよね……剪定せんてい用の、はさみを。それを開いて、貴方は中原美悠さんを刺した」

 そのまま鋏を突き立てるのではなく、正治は鋏を開いて刺した。剪定用の鋏は、枝を切るような鋏は、普通の鋏よりも刃の部分が鋭くて長い。

「そのまま刺さずに鋏を開いて刺したのは、貴方の頭の中に透明人間のことがあったからでしょう。第六の犯行から、それほど日は経っていませんから。刃物で刺されたとみられるという報道はありましたから、同じように刃物で刺されたと思わせるために、貴方はわざわざ鋏を開いたわけです」

 だから、姉のときだけ刃物が細かった。

 そして思い出したのは、正治の手の怪我のこと。白い包帯を巻いて、仕事でへまをしてしまったと、そんなことを言っていて。

 姉が死んで、葬儀も終えて、要は樹生の家に引っ越して。ゴールデンウィークが開けてから、樹生はいつものように店を開けた。要は喫茶店の手伝いを始めた。頑張れよと言った正治の手を、今更ながら思い出す。

 あの言葉を紡いだ正治は、何を思っていたのだろう。要から、姉を奪ったくせに。

「あ、だから……だから、手を怪我していた! 令和になったころに、正治さんは手を怪我していて、包帯を巻いて……」

「軍手があっても、人を刺すほどに強い力で握れば手を傷付ける。そして貴方はそのまま逃げだした」

 じくりじくりと、何かが疼いている。吐きそうで、泣きそうで、けれどそれには名前も付けられない。

「貴方はその後、充足感でも感じていましたか。自分は恋した人のために障害を排除したのだと、彼女は自分のおかげで幸せになれるのだと」

「何よそれ……何よそれ! そんなことのために、美悠は殺されたっていうの!」

「そんなことじゃないだろ! 沙世ちゃんが苦しんでるのは見たくなかったんだ! これは全部沙世ちゃんのためで……」

 それがすべて、誰かのためであるものか。それはすべて、正治の身勝手な思いの暴走でしかない。

「罪は罪ですよ、正治さん。貴方が犯した罪は、貴方のものです。その理由に岡館さんを使うのは、間違っている。罪は他人に渡すようなものではない、それは貴方のものだ」

 正治はそれでもまだ、何かを言おうとしていた。そんな正治の顔を、蒼雪は笑うこともなくじっと見ていた。

 ばたんと扉を閉じるような音がして、するりと要の隣から樹生が動いた。

「……なるほど。ありがとう、姫烏頭君」

「貴方はこれが知りたくて、俺を利用しましたね。深山みやままで使って」

「さあ、どうだろう」

 きしきしと、喫茶店の床が音を立てる。カウンターから出た樹生が、左手を正治の肩の上に置いた。

 その右手がどうなっているのか、要のところからは見ることができない。ただ蒼雪の視線は、樹生の右手の方にある。

「兄さん?」

「貴方は恋のために美悠を殺した。ならば」

 ひたりと正治の首のところに冷たくて鈍い光が当てられた。ひ、と短く声をあげた正治が立ち上がり、けれどすぐにその背中が壁にぶつかる。

 正治の喉仏のところに、樹生が手にしている果物ナイフの先が向けられた。

「俺も恋のために、あんたを殺しても良いよな? 俺はチンパンジーを人間扱いしてやる必要があるとは思わない。目の前の欲望だけしか見えないチンパンジーを殺しても、殺人にはならないと思わないか?」

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