2.箱の中のショートケーキ
からんころんと可愛らしい鐘の音が鳴った。扉のところに見えたのは、要も見慣れた
窓際の席を陣取って、
「いらっしゃいませ」
「やあ、
するりと音を立てることもなく、蒼雪が立ち上がった。まっすぐな背筋に、少し床を擦るような歩き方。きしきしと喫茶店の床が軋んだ音を立てている。
「失礼します」
「お?」
蒼雪が選んだのは、正治の椅子ひとつ挟んだ隣。正治は特に気にした様子もなく、口をつけていたマグカップを置いて笑った。
欠けた歯のところがぽっかりと空いているのは、相変わらずだ。
「珍しいな、君がカウンターの方に来るなんて」
「そうですね」
泥のにおいがする。正治がいるからだろう、彼は庭師という職業柄か、いつもそういうにおいだ。
コーヒーのにおいにかき消されるように、泥のにおいが消えていく。
「二〇一九年四月三十日」
平成の、最後の日。要が姉を失った日。
「デパート近くのお屋敷での仕事、遅くまでかかったようですね。午後八時過ぎまでかけて、庭木の剪定をしていたとか。広い庭で、でもご要望でその日中に終わらせて欲しいということだったから」
「え? あ、ああ……それが、どうかしたのか」
姉の遺体の近くに落ちていたケーキの箱は、デパート地下のものだった。
「その帰り、
正治は蒼雪の顔を見て、けれど黙り込んでしまう。ただそこに立っているのも、お盆を持っているのも憚られ、要はそっとカウンターの中へと入る。
樹生は調理台のところに手を付いて、じっと調理台を見ていた。沙世は眉間に皺を寄せて、何を言い出すのかという顔をして蒼雪を見ている。
「黙り込まれると困るのですが。どうやって誤魔化そうか考えている顔ですね、それ」
蒼雪はいつもの視線で、いつもの目で、いつもの表情で、正治を見ている。要はもう慣れてしまったものだが、その視線に晒されることに慣れない人にとっては、きっと居心地が悪いものだろう。
要も、最初はそうだった。今となってはもう、いつものことかと気にしない、少しばかり落ち着かないだけのものになったけれど。
「何を言ってるのか……要ちゃん、お友達は何を言ってるんだ?」
「俺も聞きたいですね、正治さん」
助けを求めるような顔をした正治の視線は、要に向いている。けれど要が返答をするよりも前に、平坦な声で樹生が答えた。
「樹生君まで」
本当に、正治なのか。
姉を殺したのが誰なのかは知りたい。どうして殺されたのかも知りたい。どうして姉は死ななければならなかったのか、それを知ってどうするのか、今でも分からないけれど。
今自分は、何を思っているのだろう。何を思いながら、正治を見ているのだろう。何か腹の底に澱んでいたものが、じくじくと這いあがってきているような気がする。
「貴方は先日、仰っていたではないですか。『要ちゃんが食べれるケーキを探してたわけじゃないのか』と。中原美悠さんがケーキを探していたのを知っていたかのように」
誕生日の翌日、チーズケーキを出した日。確かに正治はそんなことを言っていた。
「そうだ。美味しいショートケーキの店を知らないかと、聞かれたから。要ちゃんがケーキを食べられないのは、知ってたし、それで。美味しいのなら食べられるかと思って、デパート地下のケーキ屋を教えて」
「『パティスリー・グラシエ』ですね」
その店の名前も、聞き覚えがある。姉の遺体の近くに落ちていたという白いケーキの箱は、蒼雪が確認したところ『パティスリー・グラシエ』のものだった。
「え?」
店の名前に反応したのは、正治ではなかった。
「どうかされましたか、
沙世がどこか戸惑ったような顔をして、蒼雪を見ている。正治はまた黙り込んでしまって、蒼雪の確認には肯定も否定もしないまま。
「あ、その……」
「貴女が気に入っている、お店でしたか。仰っていましたね、ご褒美にケーキを買う店があると」
潰れて汚れた、白い箱。入っていたのはショートケーキが三切れ。
あの日、姉は帰るのが遅くなると言っていた。その理由を要は知らなかったが、昨晩樹生にその理由を聞いた。
「じゃあ、あのケーキは姉さんが買ったもの? 閉店後に岡館さんと兄さんと待ち合わせをしていたから、そのために?」
「……そういうことになるな。三切れだったのは、三人で食べるため。ショートケーキだったのは、岡館さんが好きなケーキだと知っていたから」
それは要のためのものではなかった。沙世のために、沙世が好きなケーキだから、要がいなければ生クリームを使ってあるケーキも気兼ねなく食べられたことだろう。
閉店後にお茶をしようと言い出したのは沙世で、姉は樹生共々独身最後の日に、沙世とショートケーキを食べることにしたのだろう。そしてわざわざ美味しいショートケーキを買おうと、近所の店ではなくデパートの方まで足を伸ばした。
「時間があれば、デパートでケーキを買って戻ってくることができる。さて、そこで偶然出会った正治さんに、中原美悠さんは何を話したのでしょうか。貴方も翌日に、中原美悠さんと樹生さんが入籍することは知っていた」
お祝いをしようと言っていたのだから、当然正治も知っている。常連であって、樹生とも沙世ともよく喋っている正治は、姉とも交流があった。
店主である樹生とよく喋る常連客の仲間として、正治もそこにいた。今と同じ、カウンターの端の席に座って。
「な、なんだ、なんだよ、そんな尋問みたいな」
正治からひとつあけた隣に、蒼雪は座っている。正治はたじろいで、特に表情を浮かべているわけでもない蒼雪を見ている。
「ええ、そうですね。尋問に近いと思いますよ。とはいえ確認のようなものなので、全部俺が話しても構わないのですが」
蒼雪の中では、どれほどの情報が繋がっているのだろう。彼と要と持っている情報の数はそれほど変わらないはずなのに、出ている結論がまるで違う。
「老人は
じくりと、澱みが蠢いている。吐きそうなのか、泣きそうなのか、自分のことであるのに何一つとして答えが出ない。
知りたかった、はずだ。知ってどうするのかは分からないまま。恨むのか、詰るのか、いっそ
蒼雪はじっと正治を見ていたが、彼が何も答えないのを見ると、今度は沙世の方に視線を向けた。
「その前に、岡館さん」
「何?」
「誰かに後をつけられているとか、そんな気がしたことはありませんか」
「え……」
それは、姉にもあった話。誰かが見ている、誰かがついてきている、そんな気がして、けれどそこには誰がいるわけでもない。そして実害があるわけでもない。
透明人間が後ろからひたひたとついてきている。そんな、気がしただけ。けれど本当にそこに誰かいたのなら、それは間違いなくストーカーだ。
「あった、けど、誰もいなかったから、気のせいかな、と」
蒼雪の問いに少しばかり考え込んだ沙世が、ぽつりと答えを落とす、
「中原美悠さんのストーカーの疑惑で、気になっていることがあったんです。中原美悠さんが誰かに見られているようが気がしたのは、貴女と一緒にいたときだった」
沙世と一緒にいるときに、気配を感じた。そのとき姉は、一人でいたわけではない。
ということは、つまり。
「待って、待ってくれ
「そう。後をつけられていたのは、岡館沙世さんの方だった。そうであれば色々と納得がいくんですよ、俺の中で」
見られていたのが、後をつけられていたのが、姉とは限らない。本当は、それは沙世を見ていて、沙世についてきているものだった。
けれどそれで納得がいくというのは、どういうことなのだろう。要はそうだと分かっても、何も納得がいかないのに。
「そもそもあのケーキの箱からして、犯人は明白です。店員と中原美悠さんの指紋しか出ない、泥で汚れたケーキの箱。犯人は別に指紋を消そうと思ったわけではない。軍手をしていたから、指紋がつかなかっただけだ」
「ちょっと待ってくれ!」
がたんと音を立てて、正治が席を立つ。
「俺が美悠ちゃんを殺したって言いたいのか!」
「そうですが、それが何か?」
「そんなわけがないだろう! どうして俺が美悠ちゃんを殺したりなんか……」
「別に貴方が何をどう言おうと、俺にはどうでも良いことなんですよ。俺はこの件について解を得たい、だからその確認をしています。本当はまだ解を得ていないことについて説明するのは嫌いなのですが、今回はこうする他なさそうなので」
憶測で話したくないというのは、以前蒼雪が言っていた。解を得たい彼にとって、まだ解を得ていない段階で答え合わせをするというのは、要が思っている以上に気がすすまないことなのだろうか。
「それに……知りたいでしょうから。未だ平成に取り残されたままの人たちが」
ただじっと、蒼雪が要の方を見ていた。要を見て、樹生を見て、それから沙世の方も見る。そうしてじゅんぐりに見た後に、蒼雪はまた視線を正治に戻した。
「さて、聞きましょうか。正治
「俺はしてねえぞ」
椅子に座り直した正治は腕組みをして、そっぽを向いた。腕を組むときに指先が少しマグカップに触れ、わずかにカウンターの上でマグカップが音を立てる。
ふんと鼻を鳴らし、正治は態度でも「何も言わない」ということを示している。
「じゃあ、正直に答えなさいよ。違うって言うなら、答えられるでしょう?」
沙世のその声は、いつもの声よりも少し低くて鋭いものだった。いつも正治に対して捲し立てているときの高い声とは違う、落ち着いて、そして嘘を赦さないような響きがあった。
「沙世ちゃん」
「違うのなら違うで、彼の知りたいことに答えれば良いじゃない。変に黙ったりするから疑われるのよ。疑わしいところがあったって、自分が無実だと自分が分かっているなら、堂々としていれば良いじゃないの」
自分が犯人でないということは、自分自身が一番よく知っているだろう。自分の無実など確固たるものなのだから、沙世の言うように堂々としていればいい。
そもそも、蒼雪は警察官でもない。おそらくは警察から事件の犯人を指摘することを期待されて情報を得ているのかもしれないが、彼は言ってしまえばただの大学生だ。
「岡館さん」
「ねえ、そうでしょう樹生さん。樹生さんだって知りたいわよね。私だって知りたいわ、私の親友を誰が殺したのか。誰が私から、美悠を奪ったのか」
沙世がカウンターの机の上で指を組んでいる。綺麗に整えられた爪は赤く塗られ、その爪の先はきらきら光る石で飾られている。
組んでいた指を解いて、沙世はかつりと机を爪の先で叩く。
「殺していないのなら、それでいいわ。でも」
派手な化粧で一分の隙もなく飾られた沙世の背後で、ゆらりと炎が揺らめているような気がした。
「もしも貴方が美悠を殺したというのなら……私は貴方を、許さない」
沙世は姉の親友だった。服だとか、化粧品だとか、彼女には似合わないものを買ってしまったそれを、姉に押し付けるような。ほとんど使っていない、新品同然のそれらは、何のためのものだったのだろう。
彼女たちの関係性を親友と呼ぶのかどうなのか、要には分からない。沙世はそう言うのだから、姉はそう言っていたのだから、きっと親友だったのだ。
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