1.死とは

 眠らなければと思うのに、眠れもしない。瞼を閉じればいいだけなのに、それすらもできない。ただ何を思うでもなく、掛布団を抱え込むようにしてごろりと寝返りを打った。ごろりごろりと何度となく向きを変えて、それからかなめはむくりと起き上がる。

 トイレに行こうと、それだけだった。別に行きたいわけでもないけれど、そうして歩けば少しくらい眠る気になれるような、そんな気がした。

 部屋の外へ出れば、きしりと廊下が軋んだ音を立てる。トイレの手前、樹生たつきの部屋はまだ薄ぼんやりとした白い明かりが点いている。

 扉は少しだけ開いていて、漏れでた光につられるようにして部屋の中を見る。床に座った樹生は、低いテーブルの前で扉に背を向けて、じっと白い封筒を眺めていた。

「兄さん」

 声をかければ、ゆっくりと樹生が振り返る。ゆらりと立ち上がった樹生が、白い封筒を引き出しにしまった。

「まだ起きていたのか」

「ちょっと、眠れなくて。兄さんは?」

 入るかと手招きをされて、要は素直にそれに従う。すこし冷えた床には何も敷かれておらず、むき出しのフローリングは布団から出てきた要には、やはり冷たい。

「……眠る気に、なれなかった」

「そっか」

 何も、喋ることがなかった。話題を探しても結局見付けられずに、要は開きかけた口を何度か閉じる。

 姉を殺した相手を、蒼雪そうせつは明言しなかった。明言はしなかったものの、あれは答えを告げているのと変わりない。

「何か飲むか。少し待っていろ」

 沈黙ばかりの要に呆れた様子もなく、樹生が今度はするりと立ち上がる。

 足音が遠ざかり、樹生の部屋に要一人が取り残された。ぼんやりと見上げた先には机がひとつあるが、それは樹生の年齢には似つかわしくない、勉強机だった。小学校のころからずっと使っていたのであろうその机の棚の上、写真立てがみっつ。

 ひとつは、喫茶店で撮ったもの。要が見たことのない青年と老人と、それから樹生が映っている。もうひとつは卒業式か何かの写真で、これもまた同じ老人と一緒に樹生が映っていた。

 最後のひとつだけは、要の部屋にある写真と同じだ。要と、姉と、それから樹生が映っている。

 思えば樹生の部屋の中をきちんと見たのは、始めてかもしれない。一緒に暮らし始めて一年以上が経つものの、特にこの部屋に足を踏み入れるような用事もなかった。

 あの老人は、樹生の祖父だろうか。ディ・ヴィーゲを始めたという祖父について、要は知らない。

 廊下から足音が聞こえて、樹生が戻ってきた。要の目の前にことりと置かれた青と白のチェック柄のマグカップから、白い湯気が立ち昇る。

蜂蜜はちみつ入り、ホットミルク……」

 そのにおいには、覚えがあった。かつて両親を亡くしたばかりのころ、眠れないと告げた要に、姉が作ってくれたものと同じ。

美悠みゆうが、要が眠れない時はこれだと言っていた。何か、間違っているか」

「……ありがとう、兄さん」

 何も間違ってなどいない。そんな些細な話ひとつ、それを樹生が覚えていることが意外でもあった。

 ホットミルクを一口飲み込んで、目を閉じる。眠れないのと聞く姉の声はまだ思い出すことができて、ほんの少しだけ安堵する自分がいた。

 人間は、声から忘れていくのだという。人間は忘れてしまう生き物で、それは何も悪いことではない。忘れることができなければ、いつまででも苦しむことになる。けれど忘れたくないと願うものまで忘れてしまうのは、どう抗えば良いのだろう。

 樹生も同じようにマグカップに口をつけている。白地に黒い猫が走るマグカップは、やはり樹生には似合わない。

姫烏頭ひめうず君は、何か言っていたか」

「犯人、分かってるみたいだったよ」

 恋重荷こいのおもにのシテの名を、蒼雪は口にした。重く大きく喫茶店の中に響いたその名前を、口に出すのは憚られた。

 犯人という言葉を口にした瞬間に、腹の底の澱みが蠢いた。その吐き気も叫びたいような衝動も呑み込んで、何でもないような顔をする。

「そうか」

 蒼雪は何と言っていたか。

 要は確かに、蒼雪が平成の透明人間について調べていることを、樹生から聞いた。気になるのなら声をかけてみればいいと樹生に言われて、彼に声をかけた。

 それからいつも、ディ・ヴィーゲで弘陽や悠馬や兼翔とも話をしていた。喫茶店を使わなかったのは、宗方を呼び出したあの時だけ。

「兄さんは、犯人が知りたかったの?」

「そうだ」

 姉は誰に殺されたのか。要とて、知りたくなかったと言えば嘘になる。

「要は、知りたくなかったのか」

「俺は……知りたいとは、思ってた。でも、分からない」

 犯人について、あれはほぼ答えだった。どうしてだとか、そういうことは思う。けれど要の中でその名前は、ただ「そうなのか」と染み込んでいっただけだった。

 本人を目の前にすれば、何か変わるのだろうか。本人から「そうだ」と殺したことを肯定されれば、何かが変わるのだろうか。

「分からない?」

 樹生の問いに、要はマグカップを両手で包みながら、一つ頷く。

「知ってどうしたいのか、分からない。今でも」

「そうか」

 手の平は、じんわりと熱い。湯気の立つホットミルクは、まだ室温と同じにはなっていない。

 じくじくと腹の底で何かが蠢いている。これの名前を、未だ要は見付けられない。

「あの日、兄さんは店にいたんだよね」

「そうだな。沙世さよさんと一緒に、美悠が来るのを待っていた」

「姉さんを?」

 遅くなるとは、聞いた気がする。けれどその理由までは、要は問うことをしなかった。そんな日は珍しくもなく、要はいつも姉が遅い日はどこかで夕飯を食べてきて、それから部屋に戻っていた。

「聞いてなかったか? 入籍する前日に集まりたいと沙世さんが言うからと、美悠が三人で閉店後にお茶をしましょうと言ったんだ」

 何か話をしたいことでもあったのだろうか。彼らには彼らにしか、分からないこともあるのかもしれない。

 沙世は姉にとって親友で、樹生にとっては常連客で。沙世は、どうして閉店後にお茶をしようなどと誘ったのだろうか。

「けれど、待てど暮らせど美悠は来ない。そこへ、お前から電話があった」

「そう、だったかな……そうだ。俺、警察から電話があって、一人じゃどうしていいか分からないから、兄さんに電話したんだ」

 あの日の記憶はどこか、ぼんやりとしている。ただ要は一人ではどうしようもなくて、樹生に頼ったのだ。

 実の両親がもうこの世にいない以上、義理の父親である樹生に頼る以外に要にできたことはない。

「沙世さんには帰って貰って、お前と警察署へ。そして、美悠を確認した」

 間違いなく、姉だった。連続殺人犯の犯行かと思われますと、そんなことを言われたのだったか。

 おぼろげな記憶の中、ところどころが明瞭で、ところどころに靄がかかる。

「ねえ、姉さんはストーカーの被害にあってたの?」

「……聞いたのか」

「姫烏頭から聞いた」

「気がするだけ、実際に何かあったわけでもない。ちょうど一緒に沙世さんもいたときにそんな気がして聞いてみたら、沙世さんもそんな気がすると言っていたと。見られているような、後をつけられているような、それが数回」

 実際に何かあったわけではない。ただ、そんな気がしただけ。ストーカーの姿をみたわけでもない。

 そんな輪郭もない何者かは、やはり透明人間のようである。それが犯人であったのならば、なぜそんなことをしたのだろう。

「お前には変に心配をかけたくないし、逆に被害にあうといけないからと、黙っていて欲しいと言われていた」

 要はきっと、遠ざけられた。姉にとってやはり要は庇護するべき存在であって、相談をする相手ではなかったのだろう。

 どうしてとは、思う。けれどその疑問への答えはすぐに出る。樹生が姉の言葉に従った理由も。そこで聞かされていたとして、要が何かできたとは思わない。

「姫烏頭君から、犯人が誰かは、聞いたのか」

「え?」

 山科やましな荘司しょうじ

 それが『恋重荷』のシテの名であると、蒼雪は言った。それは最早答えであり、犯人が誰かを告げることはできる。

「まだ……聞いてない」

「そうか」

 けれど、要は嘘を選んだ。言ってはいけないような、言ってしまえば取り返しのつかない何かになってしまうような、そんな気がしたから。というのは、嘘を正当化したい要の言い訳だろうか。

 姉や樹生だって要に言わなかったことがある。ストーカーのことも、そのひとつ。だから要も言わないことがあってもいいとか、それはやはり言い訳か。

「俺の中でなんとなく、答えは出ているんだけどな。美悠だけを殺したと、いうのなら」

「兄さん、それは」

 平成の透明人間は、金代だった。けれど金代は、要の姉を殺していない。兼翔もまた、要の姉には何もしていない。彼らは四月三十日、姉が死んだ時間帯は塾にいた。二人のどちらにも、姉を殺すことは不可能だった。

「ただ、間違えたくない。間違えたくないが……それでも」

 金代が殺したのは、六人。七人目は本当は七人目ではなく、実際には一人だけを殺した犯人によるものだった。

「平然としていられるのが、心底気持ちが悪い」

 姉が殺される前も、殺された後も、たった一人だけ変わらない。いつもと同じ席に座って、いつもと同じようにコーヒーを飲んで。

「なあ、要」

「何?」

 顔を上げた先、写真立てが見える。しわくちゃの顔をした老人が、樹生の隣で笑っている。

「死とは、何だと思う」

 樹生の問いに、要はマグカップの中を見る。ゆらゆらと揺れる白い液体が、答えを教えてくれるはずもない。

 それを誤魔化すようにして、マグカップを持ち上げてホットミルクを飲み干した。

「じいさん……俺の祖父が言っていた。人間の死とは、すべての可能性を断たれることなのだと」

「可能性?」

「何かをしたいとか、そういう喜びであるとか、希望であるとか、そういうものだと思えば良い。未来を考えるのは人間という種だけ、だそうだ。希望を抱いて可能性に向かって何かをするのは、人間だけだと。その可能性をすべて断たれれば、それが死だ」

 死んでしまえば、もう何もできなくなる。

 希望を託した篠目秋則は死んで、けれどそういう意味では彼は生きていたのかもしれない。あの遺書の中に、確かにいたのかもしれない。

 ならば、樹生は。そんなことを、ふと考えてしまった。

「じいさんは、すべての可能性を断たれた。そして俺は間違えて……」

 失うのは三度目だと、そんな言葉が落ちていく。

 写真立ての中には、老人と見知らぬ青年と樹生が笑っている。きっとそれは樹生が姉と出会うよりも前のこと。

「眠れそうか」

「うん……寝るよ」

 明日また、蒼雪には聞きたいことがある。

 空になったマグカップを持って、要は立ち上がる。布団に入って目を閉じて、何もせずにおとなしくしていれば、眠れるだろうか。

 樹生の部屋には、本棚もある。視線を向けた棚の上、黒地に白い猫が走るマグカップが見えた。

「そうか。おやすみ、要」

「うん。おやすみ、兄さん」

 戀よ戀。そんな声が聞こえるような気がした。

 恋によって道を踏み外し、人は死ぬ。すべての可能性を投げ出して、死んでしまう。ある意味でKは、道を踏み外したときにもう、あるはずだった可能性を断ってしまったのだろうか。恋というものに、目を眩ませて。

「これを、出したかったな……なあ、美悠」

 小さく落ちた声は、確かに要の耳に届いた。けれど返答を必要としていないそのことばに、要は何も言わなかった。

 姉の死の後ろにも、恋は横たわっているのだろうか。美しく見えるのに持ち上げられないほどにもなる、ともすれば人を殺してしまうほどの重さの、それが。

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