七 我ハ貴船の川瀬の螢火
0.岡館沙世
大学の近くにある本屋は、午前零時まで開いている。午後十時も過ぎて本屋に行こうと思い立ったのは、ただ何となく手慰みになるようなものが欲しかったからだ。先日買った
けれどあまり心惹かれるものもなく、
「あら」
いつもは派手な化粧をして、高いヒールのある靴を履いて、皺ひとつないスーツを着ている。けれど今日の彼女は薄化粧で、ヒールのない靴で、皺のあるスーツを着ていた。
「……ディ・ヴィーゲにいる時と、随分と恰好が違いますね」
「そうね」
彼女が今日の恰好を蒼雪に見られて、それを恥じるかどうか。そもそも蒼雪に気付いて声をかけてきた時点で、結論は出ていたようなものである。
「こちらが、貴女の素ですか?」
「何の話かしら」
蒼雪は、ディ・ヴィーゲでの彼女しか知らない。けれど何度となく彼女の姿を見て、顔を見て、言葉を聞いて、思っていたことがある。
特に何か蒼雪が言うようなこともないかと思っていたが、今は少し考えなければならない。
「少しばかり、気になっていたことがありまして」
私は本当の愛を見付けたのと、そんな母の言葉が一瞬頭の中で響いた。そんなどうしようもないもので、人は簡単に人を傷付けることができる。
「先日もこの本屋で、貴女をお見かけしました。その時も貴女は、今日と同じような化粧と服装でした」
恋によって、愛によって、狂乱する演目はいくつもある。母が出て行った後、父が体を壊す前、ぽつりと父が落とした言葉を思い出す。
今ならば『
「仕事のときに派手な恰好はできないわよ」
「本当に、それだけですか?」
沙世の爪には、色もついていない。ディ・ヴィーゲにいるときは、あんなにも綺麗に化粧をしていて、爪の先まで一分の隙もないというのに。
まるで自分の外見に頓着しない今の沙世と、ディ・ヴィーゲでの沙世は、あまりにも違っている。ディ・ヴィーゲでしか彼女と会うことのない蒼雪は、思うところがありながらも、あちらが彼女自身であると思っていた。
けれど、本屋で彼女に会って腑に落ちた部分もある。
「ディ・ヴィーゲのあの席は、いつも貴女が座っている席ですね。以前はその隣に、中原美悠さんが座っていた」
カウンターの真ん中、店主が一番よく見える席。
「貴女はいつも、樹生さんが見える場所に座っているのですね」
「そうかしら」
彼女は笑うこともなく、涼し気な顔をしている。そうした姿ひとつとっても、喫茶店でコーヒーを飲んでいる彼女とは違う。
「そう思っているのなら、貴方は何も分かっていないわよ」
ただじっと、蒼雪は彼女の顔を見る。人間は、顔に思っていることが浮かび上がる。筋肉の動きや呼吸の速さ、そういうものは嘘をつけない。もちろんそれがすべて正しいと、そんな風に自分を過信するつもりはない。
彼女がいつも座っている席。それからいつも、
よしや戀
「貴方は、人を好きになったことがないでしょう?」
踵の低い靴で足音を立てて、沙世が蒼雪に背を向ける。
派手で騒がしい喫茶店での彼女とは、その後ろ姿さえも、何もかもが違った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます