3.山科の荘司

「被害者なのに、地獄で苦しむのか」

「恋の焔に焼かれる。恋に焦がれた老人の末路は、邪淫じゃいんの罪による重い苦しみというわけだ。恨みを抱けば、恨めしやと他人を呪えば、地獄へ落ちる。それだけだ」

 からんと、グラスの中でとけた氷が微かな音を立てる。中にあったアイスティーはとっくに飲み干されて、もう氷しか残っていなかった。

「ただこの老人は、恋路の闇に惑いながらも、弔ってくれるのならば逆に守り神になろうと言う。弔いさえ受ければ霜か雪か霰のように、恨みは跡形もなく消えるだろうと。そして末永く栄えを守ろうと、そう言うんだ」

 恨めしや。

 老人の恨みはどれほどのものだろう。恋をしてはならない相手に恋をして、それを弄ばれた老人は、一体何を思ったのか。女御にょうごが立ち上がれないほどの重さの恨みは、死してそれでも姿を見せるほどの恨みは、そんな簡単に晴れるようなものなのか。

 恨みが跡形もなく消えるだなんて、そんなことがあるのだろうか。では自分はとかなめは自問自答して、やはり分からないという答えしかなかった。

 要の中に恨みがあるのかどうかすら、要自身には分からない。姉を殺した誰かに対して何を思うのか、未だに掴みかねている。

「……理解ができない」

「だろうな」

 蒼雪そうせつは、兼翔けんしょう宗方むなかた、それから金代かなしろに、何を思っているのだろう。弘陽こうようや、悠馬ゆうまは。あるいは金代に殺された被害者の、遺族たちは。

 篠目ささめ秋則あきのりの死には、金代の行いが絡んでいる。それに対して蒼雪が何を思っているか、要は聞こうとも思えなかった。

「恋心は、目に見えない。それをある意味で具現化するのが、この重荷。持てないほどに重い美しい荷こそが、老人の恋心だったのかもしれない。傍目にはそうは見えずとも、地獄で責め苦を受けるほどに、重く、重い。そして女御にのしかかるいわおのような重さこそ、老人から彼女への恋の重みか」

 姉は、樹生たつきは、どうだったのだろう。彼らの間にあった恋とか愛とかそういうものは、要の目には穏やかで揺蕩たゆたっているようなものに見えた。ずっしりと重いようなものではなく、軽やかで互いを縛り付けたりしないもの。

 けれどそれは、要の目から見たものでしかない。実際に姉がどう思っていたのか、樹生がどう思っているのか、人の心は見えないのだから分からない。

「その恋の重さをそのままぶつければ、当然女御を殺しそうなほどになる。けれどそれを手放して形を変えれば、恨みを昇華することができれば、葉守の神ともなれる」

 アイスティーのグラスの表面で結露した水が、後を残して伝って落ちる。紙製のコースターに染み込んで呑み込まれた水は、ほんの少しの滲みだけを残して消えてしまう。

 ずっと老人が後ろにいるのならば、きっともう女御は恋ができないのではないかと、そんなことを要は思うのだ。かつて自分が恋というものを利用して弄び、その果てに殺した老人がいつも守り神として後ろにいる。

 ただ「ありがとう」と、喜べるようなものでもない。それは生涯女御が背負うもの、まるで重い荷のように、その背中に乗せられるもの。

「……ああ、そうか」

 蒼雪の目は、ただグラスの中の氷に注がれていた。

「だがそれならば、難題は何だ?」

姫烏頭ひめうず?」

 彼の中で何が繋がったのだろう。何の結論が出たのだろう。

 難題といえば、『恋重荷こいのおもに』ならば、美しくこしらえられた重い重い荷を持って、庭を百度千度と廻ることだった。

「老人は難題を果たせず、死んだ。ならば今回の難題は何か」

「は? いや、何を言ってる? そんな誰かが誰かに恋をして、難題を出されたとか」

 急に何を言い出すのだろうかと彼の顔を見れば、蒼雪がグラスの中の氷に注いでいた視線を要に向ける。見透かすような視線は、要の顔の皮膚一枚下を見ているようだった。

「そういうことだろう。いや、そうか。難題……ショートケーキか、あるいは」

 姉の遺体の近くに転がっていた、潰れて汚れた白い箱。近くのケーキ屋ではなく、わざわざデパートの地下で買われたショートケーキは、三切れ。

「どちらだ。ひとつ足りない」

「ひとつ?」

岡館おかだて沙世さよなのか、あるいは君の姉なのか。犯人が分かったとて、それがなければ解を得られない」

 かたんとカウンターの方で音がして、要はついそちらを振り返る。もう他には誰もいない店内で片付けをしていたはずの樹生が、珍しくカウンターのところから出てきていた。

 蒼雪に向き直れば、蒼雪はまたグラスの中の氷を見ている。すっかり小さくなってしまった氷は、とけて出てきた水の上に浮かんでいる。

「犯人、分かってるのか?」

「当然」

 かつんこつんと足音がした。ぎしりと木の床が軋むような音を立てる。エプロンを外した樹生が静かに要たちのいるテーブルへと近付いて、見下ろすようにそこに立つ。

 蒼雪はじっと樹生の顔を見て、それから薄く笑みを浮かべた。

「これが知りたかったから、わざわざ深山みやまに俺のことを教えましたか。樹生さん」

 つい、要は蒼雪の顔を見てしまった。

 要は誰から蒼雪が平成の透明人間を調べているか、彼に伝えた記憶はない。確かに要は樹生からそのことを聞いて、彼に声をかけたけれども。

「……

「そうですか」

 樹生はにこりとも笑わずに、蒼雪を見ている。蒼雪もまた、見透かすような視線で、けれど凪いだ表情で樹生を見ている。

 どうしてだか、どちらの視線にも晒されていない要が、逃げ出したくなる。

「ですが貴方には、はありませんよ」

 蒼雪は最初に要が尋ねたときにも、と口にした。仇討ちだとか資格だとか、そんな時代錯誤なことを。

 けれども彼にとっては、それが当たり前のことなのかもしれない。

「別に俺は何も、止めませんが」

 樹生は「そうか」とだけ短く告げて、背を向けてしまった。見慣れているはずの彼の背中が、どうしようもなく遠いような気がして、要はついその背中に手を伸ばす。

「鍵はかけておいてくれ」

 声を追いかけた要の指先は、樹生の背中に届かなかった。結局空を切った要の手は行き場を失って、その手を握りしめて胸に当てる。

 心臓が、指の下で動いていた。兄はいつも通りのはずなのに、笑わないのもいつものことのはずなのに、どうしてこんなにもうすら寒く感じるのだろう。

 ばたんと扉が閉じる音がする。閉店時間が近付いて、店内に流れていた静かなクラシックの曲は、ふっと音を途絶えさせる。

「だから待ち合わせ場所に使うことを承諾したり、俺たちに喫茶店を貸し切ったりしたわけか」

「え?」

 蒼雪が席を立ち、要もそれにつられるように腰を上げた。「会計」と言う彼に従って、出入口のすぐ近くにあるレジのところまで歩いていく。

 店内は静かで、もう誰もいない。グラスを片付けてテーブルを拭いて、鍵をかけたら閉店だ。

「君以上に君の姉を殺した犯人を知りたがっている人がいた。そういうことだ」

 平成の透明人間は誰なのか。

 要はまだ、姉を殺した犯人に対して抱く思いを、決めかねている。庇護者であった姉を取り上げられて、新しい庇護者である樹生のところに来て、恨めば良いのか嘆けば良いのか、今でも分からないまま。

 けれどきっと、樹生は犯人に対して抱く思いを、とっくの昔に決めていた。

「……兄さん」

 彼は犯人を知って、そしてどうしたいのだろう。蒼雪の言うように、仇討ちなんてものを、復讐なんてものをしたいのだろうか。

 姉が死んでから、樹生は笑わなくなった。笑えなくなった。まるで彼だけが、平成に取り残されてしまったかのように。

「樹生さんの時間はきっと、二〇一九年四月三十日のまま、止まっている」

 平成の最後の日、令和になる数時間前。

 雨は降っていなかった。姉は帰ってこなかった。警察署からかかってきた一本の電話によって、要の日常は崩れて消えた。

 日常が崩れ去ったのは、きっと要だけではない。五月一日には姉と籍を入れるはずだった樹生も、迎えるはずだった日を迎えることなく終わってしまった。

 だからきっと、樹生に五月一日は来ていない。彼はまだ、四月三十日で足を止めたままで、明日を迎えられないでいる。

「さっき言ってた、犯人って」

 蒼雪は、犯人が分かっているようだった。要にはついぞつかめていないその人物が誰なのか、何度頭をめぐらせても、要の中に答えはない。

 ハンバーグとライスとアイスティーの値段ぴったりの小銭を出した蒼雪が、リュックサックを背負い直す。店内に、音はない。ただ無音の中、要はひたすらに答えを待った。

 蒼雪はそれを、口にする気があるのか、それともないのか。ほんの数分、ともすれば数秒であるはずなのに、ひどく長く感じる静寂の後。

「『恋重荷こいのおもに』のシテの老人はその名を――山科やましな荘司しょうじと、いう」

 他には誰もいない店内に、やけに大きな音を立てて、蒼雪の言葉が落ちていった。

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