2.かつて人ではなかったもの

 恋というのは強い衝動であるとも聞く。恋が捨てられずにKは苦しんでいた。恋のために「先生」は、Kを裏切った。かなめはそこまでの強い感情を抱いたということはないし、彼らの考えを想像はできても、理解はできない。

「『井筒いづつ』、『葵上あおいのうえ』、『女郎花おみなえし』、『通小町かよいこまち』、『恋重荷こいのおもに』、『道成寺どうじょうじ』、まだ色々あるが、もういいか」

「急に何を言い出すんだ」

「能楽の、恋の演目だ。人間だからだろうな、恋による諸々の演目はたくさんある」

 物語には、恋が書かれることがある。人が抱く激しい感情のひとつを描くことは、人々が昔からしてきたことなのだろう。

姫烏頭ひめうず、お前、何で能楽から考えるんだ?」

「俺に人間を教えたのは、謡曲だからだ。俺はそれで、人間を学んだ。あとは篠目先生の言う通りに観察をすることで、ある程度人間を理解できるようになった」

 蒼雪そうせつはいつも、見透かすような顔で人を見ている。じっと人間を観察して、どのような表情を浮かべているのか、何を考えているのか、そういうことを知ろうとしている。

 彼は要が気付いていなかった、金代かなしろが笑っていることに気付いていた。

「前に、能舞台に立てなくなったって言ってたな」

「そうだ。俺の父親は、能楽師だった。それだけだ」

 きっと謡曲というのは、蒼雪が幼い頃から近くにあったものなのだろう。一般家庭にはない、蒼雪の家だからこそあったもの。

「俺のことは、どうでも良いだろう。話を戻そう」

 話が逸れてしまったが、そもそも今は要の姉の事件についての話をしていたのだ。

「姉さんのこと、だね」

 誰が、姉を殺したのか。そもそもどんな理由があって、姉を殺したのか。

「五月一日に入籍することを知っていたのは?」

正治しょうじさんと岡館おかだてさんは知ってたよ。じゃあその日はディ・ヴィーゲでお祝いしようよって岡館さんが言い出して、そうする予定だったし」

 蒼雪は目の前のハンバーグを切り分けて、飲み込んだ。やはり喫茶店には不似合いなほどに綺麗な食べ方だ。最後の一切れまで綺麗に食べ尽くして、蒼雪が手を合わせる。

 ごくりと少し生ぬるくなっているだろうホットの紅茶を流し込んで、それから蒼雪が席を立った。

「ちょっと、待っていてくれ」

 スマートフォンを取り出して、蒼雪がそれを耳に当てる。しばらくして、相手が電話に出たらしい。

「もしもし、俺です。ええ、今回はそっちではなくてですね。七人目の……そうです。近くに落ちていたというケーキの箱が気になりまして」

 おそらく相手は、いつも情報を貰うという高校の同級生の父親だ。

「それです、潰れて泥で少し汚れてたっていう。それ、どこの店のです?」

 要は近所の店のものかと思っていたし、さしてそれを気にしたことはなかった。けれど蒼雪は、そんなことを気にしているらしい。今のうちにと、彼が平らげた、まるで最初から何ものっていなかったような鉄板と皿を樹生たつきのところへと運び、要はまた席に戻る。

 おそらくは返答を受け取った蒼雪が、スマートフォンを耳に当てたまま、眉間に皺を寄せていた。

「……それはまた、高い店のケーキですね。分かりました。あともう一つ。刺した方の傷口なんですが、刃が下でしたよね、彼女だけは」

 染井一穂を含めた他の六人は、包丁の刃が上を向いた状態で刺されていた。それは金代の手によるもので、彼女に言わせれば普通に使う時に思い出したくなかったから、という理由だ。

 けれど姉だけは、やはり違う。平成の透明人間の犯行の中に紛れ込ませようとして、けれど本当の平成の透明人間ではないから、知るはずもなかったこと。

「なるほど、細い。そうですか。十分です、ありがとうございます」

 通話を終えようとした蒼雪が一瞬動きを止め、消えたはずの眉間の皺が再び刻まれた。

「はい? ? なんでそんなこと伏せて……分かりました、聞いてみます」

 物騒と言うべきか、嫌な言葉だけを残して、蒼雪が通話を終える。彼は少しばかり難しい表情をして、また椅子に腰かけた。

 スマートフォンは再び、ポケットの中へ。もう湯気の立たないホットの紅茶に口をつけて一口飲み込み、蒼雪はひとつ息を吐いていた。

「何だったんだ?」

「ショートケーキを君の姉が買ったのか、犯人が買ったのか、気になってな。店を聞いたら、デパート地下に入っている『パティスリー・グラシエ』というケーキ屋だそうだ。デパートというと、隣の市だろう。君の姉は、そこまで行くか?」

「まさか。職場は市内だし、わざわざ買いに行こうとしないと思うけど」

 そもそも仕事帰りにわざわざ電車で隣の市まで行き、デパートの地下でショートケーキを買うような時間があったとは思えない。残業がなかったのならばその可能性もあるだろうが、それでもやはりショートケーキというのが腑に落ちないのだ。

 そのケーキならば要も食べられると思ったとか、そういうことはあるのだろうか。

「それから、気になることがひとつ」

「さっき言ってた、ストーカー、とかいう?」

 蒼雪が電話を切る前に口にしていた、その言葉。要の中にもその言葉は確かに引っかかって残っている。

「それだ」

 まさか姉が被害にあっていたのかと蒼雪の顔を見れば、蒼雪はゆるく首を横に振る。

「被害があったわけではなく、樹生さんに心当たりを聞いたときに、そんな話が出たらしい。もっとも、友人と出かけたときに見られている気がするとか、誰かがついてきているような気がするとかそんな程度で、実際何かがあったというわけでもないらしいんだが」

「……俺、そんなの、知らない」

「君には知らせていなかったそうだ。実際、まだ疑惑の段階で、実害があったわけでもない。もしかすると……というような状況でしかなかったからだろう」

 実際にストーカーがいると確定したわけではない。だからといってどうして教えてくれなかったのかと思ってしまうのは、ただの要の自分勝手な感情だろうか。

 家族なのに。一番近くにいたのに、姉は教えてくれなかった。けれどそれに怒る資格があるのかと言われれば、要は口を噤むしかない。

 でも、それにどうしてだか、疎外感を覚えるのだ。独りに、されたような。

「俺はそんなに、頼りなかったのかな」

「さあ、どうだろうな」

 蒼雪に聞いたところで、答えがないのは分かっている。分かってはいても、要はそれを口にするしかなかった。

 どうしてと、疑問が頭の中を廻っている。自分が子供であったから、庇護する対象であったから、冷静な自分が答えを述べる。けれどもそれは、頭で分かっている理屈というものでしかない。

「しかしこのストーカーについては、警察で調べてみても特に何にも繋がらなかったらしい。メールや手紙があるわけでもない、ただ当人の見られている、後をつけられている、そんな気がするだけではどうしようもない」

 実際に姿があったわけではなく、物証もない。ただ誰かがいるような、そんな気がするだけのもの。

 それぞまさに、透明人間と、言うべきか。

「『恋重荷こいのおもに』」

 蒼雪が零したのは、もう聞き慣れてしまったものだった。

「それ、ずっと言ってるな」

「……気にかかっていることがある」

「どういう話なんだ、『恋重荷こいのおもに』って」

 要は当然ながら、それを知らない。ただ蒼雪がそれを口にするから、聞いてみたくはあった。

「菊を愛好する白河院しらかわいんの庭に、菊の下葉を取り、世話をする老人がいた。この老人があるとき、白河院の女御にょうごの姿を垣間見かいまみて、その美しさに恋心を抱く。それだけならば、何もなかったのだろうけれどな。この演目は、ここからだ」

 老人と、美しい女性。

 年齢差というものはさておいて、ただこうして聞くだけでも、とんでもなく身分の差がありそうでもある。

「ここから?」

女御にょうごが、その老人が自分に懸想けそうをしていることを知って、もてあそぶ」

 弄ぶ、と、ただその言葉を鸚鵡おうむ返しにした。

 それは決して、良い意味の言葉ではない。むしろそれだけを聞けば、女御がとんでもない悪女のようにすら思える。

「女御は臣下を通じて、あることを行えばその思いに応え、姿を見せよう、と、そう老人に伝える」

「姿を見せることが、思いに応えること?」

「当時の身分の高い女性は、人前に姿さえ見せないからな。御簾みすの向こう、着物の端くらいしか出さない。姿を見せるということだけでも、特別なことだった。そもそも老人は菊の世話をすると言っても庭掃除のいやしい身分だ。本来ならば臣下を通じてとはいえ、言葉をかけられるようなこともない。そんな女御に恋をしてしまった老人は哀れとしか言い様がないな」

 脳裏に浮かんだのは、平安時代の絵。あれを見たのは小学校か中学校か、それとも高校の日本史か。ともかく女性は何かを置いた向こうにいて、男性はそれを挟んだ向こう側にいる。そういう時代の、要には理解がしきれない時代の話。

 現代とは感覚も文化も、何もかもが違う。同じ日本という国であっても、時代が変われば常識も違う。

「亡き世にすもヨシなやな。げにハイノチぞただ頼め。しめぢがハラタチや」

 流れるように蒼雪が謡ったそれの意味が、要に分かるはずもない。ただ最後の「はらたちや」という言葉だけは、意味が分かった。

 孤独と怒りという、樹生の言葉を思い出す。人を、罪を犯しても良いと思わせるもの。罪へと追い立てるもの。

「さて、その『あること』と言うのが、荷を持って庭を百度、千度廻ることだった。ところがこの荷、大層美しい装飾で軽そうであるのに、実際にはひどく重い。老人はまったく持ち上げることもできず、何度も何度も持ち上げようとした老人は、やがて力を使い果たして絶望し、女御を恨みながら死んでいく。あはれてふチョオコトだになくハナニをさて。戀のミダれ乃。ツカも絶えてぬ。よしや戀死なん。ムクばそれぞ人心。乱れ戀になして思知らせ申さん。と」

 簡単そうなことであるのに、できもしない。持ち上がりもしない。

 もしかしたらという希望をちらつかせて、その上で老人を絶望へと突き落とす。それを見て彼らは、何を思っていたのだろう。

「その死を臣下から知らされた女御は、庭に出てその遺体を見て、死を悼む」

「……は?」

「意味が分からないか?」

「分からない」

 自分がしたことであるのに、要には理解ができなかった。老人を弄んでおいて、その死を悼んで、それではまるでちぐはぐだ。

「こんなはずではなかった。こんなことになるとは思わなかった。分からなかった」

 そんなものは、所詮言い訳だ。そう思ってしまうのは、要が現代人だからの感覚なのだろうか。こんなはずではなかったと、殺すつもりではなかったと、けれど実際に老人は死んでしまっている。

 希望から突き落とされた絶望の方が余程深い。蒼雪も前に言っていた。保元ほうげんの春の桜と壽永じゅえいの秋の紅葉だと。

「女御については、こんなところだろう。女御というからには当然身分は高く、恋なんてものを知らないままに天皇に召し上げられた娘だろうからな。ある意味で、子供なんだ。平気で蜻蛉の羽を毟り取るような、子供」

 無邪気という言葉がある。

 それはある意味で、それが悪いことであると、残酷なことであると知らないままに、平気で何かを傷付けることができる、そんなこともある。

「だから、相手の恋を弄べる。『綾鼓あやのつづみ』もそうだが、実際にこの難題を女御が考えたかどうかは分からない。ただ臣下や女房に言われ、皆で面白い見世物を見ようとか、そんな考えだったのかもしれない」

「見世物……」

「こんなものは、現代の感覚では分からない話だ。どうせ庭掃除の老人なんて、人間でもないからな」

 そこにいたのは、人間だ。要は、そう思ってしまう。

「人間でも、ない」

「殿上人以外は、人間に非ず。当時、水銀の在処を知る人を、蜘蛛くもと呼んだ。故に蜘蛛とは朱を知る虫と書く。川辺に住む人を河童かっぱと呼んだ、川衆かわずと呼んだ。人間ではない取るに足らないものを弄んで、何が悪い? 君は足元で虫を踏みつぶしたとして、いちいちその虫に詫びるのか? 人間を人間として扱わない時代が、日本にも確かにあったんだ」

 足元にある雑草を、気にかける人は少ない。足元にいる虫を、気にかける人は少ない。虫を踏んでしまった人間は虫に詫びるより、踏んでしまった不快感をあらわにする。

 人間を人間としない時代。有象無象が人間でなかった時代。

 そうして弄ばれた、一人の老人。

「さて、一応は死を悼んだ女御だが、これが立ち上がろうとすると巌に押さえつけられるようにして身動きが取れなくなる。そこへ老人の亡霊が現れてさんざんに恨み言を女御に語り、そして地獄で苦しんでいることを伝えて女御を責め立てる」

 弄ばれた老人が、地獄へ落ちる。

 老人は何か悪いことをしたのだろうか。悪いことをすれば地獄に落ちる、それは納得ができる。けれども老人のどこに、罪があったのだろう。

 身分が違う、年齢も違う、そんな女御に恋をしたことが、老人の罪だとでも言うのだろうか。

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