1.ゆりかご

 喫茶店『ディ・ヴィーゲ』を建てたのは、樹生たつきの祖父であった。戦争から帰ってきたという樹生の祖父は、疲れた人々が安心できる場所、帰る場所になるようにという願いを込めて、この店に『ゆりかごディ・ヴィーゲ』と名付けたという。

 樹生の両親は喫茶店を継がず、祖父に樹生を預けて海外を拠点として働いているのだと聞いた。樹生が姉と結婚するとなったときにはさすがに日本に戻ってきて、かなめも樹生の両親とは顔を合わせている。

 姉と要には両親がいない。親戚とも疎遠で、付き合いがない。それは親戚付き合いを考えなくていいと、樹生の両親は気にした様子もなく笑って、要と樹生の養子縁組についても好きにしたらいいと言っていた。

 姉の葬儀のときにも、樹生の両親は駆けつけてくれたものだった。

 良い人と言うのはきっと、この人たちのことを言うのだ。要はそんなことを思ったが、樹生は少しだけ複雑そうな顔をしていた。

金代かなしろ先生の部屋から、凶器の包丁が見つかったそうだ。あと、返り血を防ぐための合羽かっぱなんかも。携帯のメールには、川辺かわべへ送ったメールも残っていた」

 今日も蒼雪そうせつは、いつもの席でアイスティーを飲んでいる。そして彼の前には、いつもと同じハンバーグとライス。閉店間際の時間に蒼雪が姿を見せたこともあり、店内にはもう他の客はいなかった。

 あの後、宗方むなかた兼翔けんしょうを連れて警察へ行った。兼翔は弘陽こうよう悠馬ゆうまにも伝えてくれと言っていて、蒼雪は彼らに真実を伝えたという。

「刃が上を向いた傷だったのは?」

「普通の使い方をするときに人を刺したのを思い出したくなかったからだと、供述しているらしい。あとは力いっぱい刺すのに、その方がやりやすかった、とも。実際のところは、どうだろうな」

 あれから、一週間。

 兼翔が使ったという石は毎回使い終わったら川に投げ捨てていたようだが、金代は凶器の包丁を家に持っていたらしい。石と違って、血のついた包丁は処分することが難しい。まして犯罪に使ったものだ、どこから足がつくかも分からない。

 川に投げ込んでも、誰かに見付かる可能性がある。そして万が一見付かれば、それが平成の透明人間の凶器であると疑われるのは必至だろう。

「一人目から六人目については、犯行を認めたということだ。ただ、七人目については、やはり否認している。そもそも状況からして、犯行は不可能だからな」

 やはり、要の姉だけは違う。要の姉だけは別の人間によって殺されて、けれど平成の透明人間の犯行の中に紛れ込まされた。

「新聞で、見たよ。川辺兼翔の名前は、出ないんだね」

「川辺は誕生日が五月で、犯行当時は未成年だから。犯行時十九歳だったということで、表記はKさんとなる。皮肉だな、Kだなんて」

 それは兼翔にとって幸運であったのか、それとも不幸であったのか。要も、蒼雪も、同じ学年なのだから、成人を迎えたのは二〇一九年だ。

「ただ……家庭裁判所で審判は受けられない。川辺には、少年法は適用されない」

「どう、なるのかな」

「どうだろうな。俺は法律には詳しくないから、分からない。ただきっと、宗方先生が今度こそ支えてくれるだろう。そうであれば良いと、思っている。川辺に声が届くのは、今はもう宗方先生だけだろうから」

 彼は、殺していない。殺意があったかどうかは、どうなのだろう。

 兼翔は宗方のふりをした金代への依存を深め、そして言われるがままに犯行を重ねた。殺人罪が適用されるのかどうか、それは要には分からなかった。

 けれど宗方がついているのならば、後はもう彼に託せばいい。弘陽や悠馬もきっと、気にかけていることだろう。

「教師は、支配者になってはならない。教えてやっているだとか、自分の方が上だとか、そういう風に錯覚して傲慢になってはならない。けれど金代先生は、そうなってしまったんだろうな」

 被害者は、金代にとって『恥』だった。自分が一番でいるためには、邪魔になる過去だったのかもしれない。彼女にとって必要だった生徒は自分のことを好いていて、成績優秀で、最難関校に合格する生徒だった。

 蒼雪がその事実をどう思っているのか、彼の顔を見ても何も分からない。

「一番でいるというのは、孤独だと思わないか。金代先生にとっては、宗方先生も自分の隣に並ぶ相手ではなく、自分を一番にするための道具だったのかもな」

「そんな……」

 てっぺんに立ったとき、その隣には誰もいない。一番ということは、一番高い場所にいるということは、誰もが下にいるということなのか。

 けれどそうだとして、それならば宗方はあまりにも報われないことにならないか。一緒に暮らして、結婚の約束をして、それでも金代の孤独が埋まらないのなら。

「俺たちがここで考えたとて、真相は本人しか知らないことだろうけれど。さて、深山みやま

「何?」

 店内に客が増えて来るまでという約束で、要は蒼雪の正面の椅子に腰かけている。

「君の姉についてだ」

 平成の透明人間の被害者であった七人のうち、要の姉のことだけが、まだ解決していない。兼翔と金代の仕業ではない、ならば誰なのか。

「君の姉は、駅から家への途上で、何者かに殺されている。頭を殴られて胸を刺され、遺体は仰向けに倒れていた。盗られたものはなし。暴行の形跡もなし。近くには潰れたケーキ屋の白い箱が落ちていて、その中にはイチゴのショートケーキが三切れ入っていた」

 それは要が前に警察で聞いたことと同じだ。要が知りたいと言ったからなのか、そこにいた警察官が要に教えてくれたのだ。

 姉の仕事のバッグも、その潰れたケーキの白い箱も、要はこの目で見た。

「遺体の確認をしたのは、君だな」

「うん。警察の人から電話がかかってきて、姉が事件に巻き込まれた可能性があるから、身元の確認をして欲しいって」

 そこにあった遺体の顔は、紛れもなく姉のものだった。見間違えるはずがない、けれど見間違いであって欲しかった。

 確かに姉ですと、そう答えたはずだ。確かに答えたはずなのに、記憶は曖昧だ。

中原なかはら美悠みゆうの交友関係は、広くない。友人は岡館おかだて沙世さよ、恋人が深山樹生。あとは同じ喫茶店の常連であった正治しょうじ智隆ともたかくらいのもので、誰かとのトラブルもなし。身内は弟である君一人だけで、君もこれといったトラブルを抱えてはいない」

 心当たりはありませんかと聞かれて、首を横に振った。心当たりがあるはずがない。姉は誰かに恨まれるような人ではない、要はそう信じている。そして、姉が誰かに恨みを抱いていたとも思えない。

「無差別ではないのならば、君の姉を殺した相手として、考えられる候補は少ない」

 候補となるのは、きっと要も含めた姉と関わりのある人間だ。もちろん要はそんなことはしていないし、誰かがしたとは思いたくない。姉と交友のある相手は、誰もが要も知っている相手なのだから。

 じくりと、腹の底が澱んでいく。久しぶりのその感覚に、吐きそうになる。

「君は、ショートケーキは食べられない。それなのに、現場にはイチゴのショートケーキが落ちている……君の姉は帰宅途中であり、君と、樹生さんとケーキを食べようと買ってきたのだとしても、君の食べられないイチゴのショートケーキを買ってくるはずがない。ならばそのショートケーキは、誰が、どこから持ってきたものなのか」

 姉の帰宅の途中、確かに少し寄り道をすればケーキ屋に寄ることはできる。午後九時頃まで開いているケーキ屋だ、姉でもケーキは買える。

 その箱の中身がチーズケーキであったのならば、要は姉が買ったものだと納得しただろう。翌日の入籍を祝して三人で食べようと思ったのだろうかと、そんな風に要も思えただろう。

 けれど、ショートケーキなのだ。生クリームの、白い。要が食べられないケーキを、姉が買ってくるはずがない。

「犯人が持っていたものだと?」

「……ケーキの箱からは、君のお姉さんと、店員の指紋しか出ていない。落ちた拍子に潰れたのか、箱は潰れて持ち手のところが泥で少し汚れていたが、どうだか」

 犯人らしき指紋は、ケーキの箱にはなかった。

 潰れた箱は、姉が殴られた拍子に潰れたのだろうか。それとも、他の要因で潰れたのだろうか。

「じゃあやっぱり、姉さんが買ったもの?」

「どうかな」

 蒼雪はストローでアイスティーを一口すすり、ごくりと飲み込む。要の目の前には飲み物はなく、ただ組んだ手だけがあった。

「指紋のことを無視するのならば、犯人が君の姉に、渡した」

 それならば確かに、中身がショートケーキなのは納得ができる。どれだけ入っているかだとか、そういうことを気にしなければ。

「何でそんなことを? 四月三十日は姉さんの誕生日でもないのに」

「女性へのプレゼントのつもりだったのかもしれないな」

 午後九時に、ショートケーキを女性にプレゼントする。要に言わせてみればそれはおかしなものなのだが、蒼雪はそれをもっともらしく口にした。

「ケーキや花束は、女性への贈り物だろう?」

姫烏頭ひめうず、それ、どこからの知識?」

「昔テレビドラマだか何かで見た」

「今はあんまり、贈らないと思うんだけど……」

「そうか」

 今時女性へのプレゼントで、日持ちのしない生菓子や、すぐに枯れてしまう生花というのは、あまり選ばないように思う。

 要も姉への誕生日プレゼントやクリスマスプレゼントに頭を悩ませたが、店で聞いてみると「これなんか日持ちしますよ」と言われることも多い。

 蒼雪がテレビドラマで見たというのは、一体何年前のことだろう。

「だいたいケーキなんか、すぐ食べないといけないだろ? しかも三切れなんて、多いじゃないか」

「君の姉と、君と、三人で食べようと思ったのではないのか」

「夜の九時ごろに?」

「何か問題があるのか?」

 やはり蒼雪は、分かっていない。要が姉にそんなことをすればきっと、きっと姉は「ねえ要、私を太らせる気?」とでも言って笑ったことだろう。

 女性に夜遅くに、甘い物。しかも、日持ちのしない生クリームのショートケーキ。どういう意図でのプレゼントかは分からないが、いずれにしても心象は良くならない。

「女性に、夜の九時に、ケーキを食べさせるとか、太らせる気か?」

「別にいつ食べても良いだろうに」

「姫烏頭、お前ほんと、女心っていうものが分からないんだな」

 蒼雪は凪いだ表情で、けれど見透かそうとするいつもの視線で、要の顔をじっと見ていた。ただそれは要の考えていることを見透かそうというわけではなく、分からないから要を見ているのだろう。

「ならば君は、分かると言うのか」

「姫烏頭よりは分かると思うよ……俺、姉さんに色々言われたりしてたし」

「そういうものか」

 姉や妹がいる方が、女性については詳しくなる。まして要は姉と二人暮らしだったこともあり、女性物の服の洗濯の仕方であるとか、そういうことまで覚えてしまった。

「宗方先生といい、恋というものは良く分からんな」

 宗方は結婚の約束までした金代のために、その罪を自分が被ろうとした。宗方は罪を犯してもいないのに、それを背負おうとした。

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