3.取り残されたもの

 誰も兼翔けんしょうを疑わなかった。誰も金代かなしろを疑わなかった。

 疑われたのは、染井そめい一穂かずほが死の直前に会っていた篠目ささめ秋則あきのりだった。

川辺かわべに履歴書を送らせた金代先生は、宗方むなかた先生を迎えに行って待っている間に、川辺の連絡先を手に入れたんでしょう。そして川辺がと金代先生が称する宗方先生のふりをして、川辺にメールを送り、まんまと川辺を騙した」

 そのときはまだ、兼翔の宗方への感情は、依存ではなかったのだろう。ただ宗方は味方で、助けてくれるかもしれないと、頼る相手であるという認識だったのかもしれない。

「だって、メールには……俺が半分背負ってやるからって。お前が悪いわけじゃないし不幸な事故だったんだって。お前の悔しい気持ちが分かるよって。お前は何も悪くないよ、そうやって。それで、より分からなくするために、同じことをやろうって。手伝ってやるからって」

 けれど金代が宗方を騙ったメールによって、兼翔は宗方への依存を深めてしまった。それが金代の狙いであったのかもしれない。依存させ、自分では判断をさせず、何かあれば必ず宗方にメールをするように。

 常の状態であったのならば、兼翔もきっと疑った。けれど彼は染井一穂を殴り、そして彼が死んで、追い詰められていた。そこに届いたメールは罠だとしても、兼翔にとっては救いの手に視えたのだろう。

 当時皐ヶ丘さつきがおか校にいた宗方に、直接確かめることはできなかったのかもしれない。校舎であれば誰かに聞かれる可能性があるし、もしかすると金代は、校舎ではこの話をしないようにと、そう言い含めていたのかもしれない。

「でも、被害者が死んだって報道されるたびに、俺は怖かったんだ! 篠目が疑われて塾も辞めて、いつかバレたらって思うと怖かった! でもメールで宗方先生が、篠目先生はうるさいことばかり言うし俺の敵だから、掴まったって当然だし、死んだっていいとか、篠目先生が罪を被ってくれるなら俺は疑われないとか、そんなこと書いてたし、じゃあ宗方先生が言うのならその通りなのかって!」

 蒼雪そうせつがじっと、兼翔の顔を見る。兼翔は唇を震わせて、手も震えさせて、目に涙を浮かべて悲鳴のような声をあげている。

 俺はどうしたらいいと、そう叫んでいるようだった。誰か助けてくれと、終わりにしてくれと、彼の叫びは、そんな懇願にも似ていた。

「宗方先生、これでも貴方は金代先生を庇いますか? 貴方だけが味方だと信じ、貴方だと思ったメールに従って、貴方だと思った相手へ依存させられた川辺を見て、それでも貴方は恋に狂って恋の方を取りますか?」

 殴ったくらいで死ぬとは思わなかった。でも相手は死んでしまっていて、兼翔の恐怖はどれほどか。縋れる先はメールだけ、宗方だと思っている金代だけ。そんな頼りないものに縋りながら、いつも通りに振る舞わなければならない。

 彼はきっと、限界だった。こうしてかなめや蒼雪が真相に辿り着かなければ、彼はいつか自分で自分を殺したかもしれない。あるいは警察が真相に辿り着きそうになったとき、金代に罪を着せられて、殺されてしまったかもしれない。

 だからか。

 だから、篠目秋則は死んだのか。兼翔が死ぬことを防ぐために、その身代わりになるように。

「答えてください、宗方先生。今は止まっていても、いずれまた金代先生は気に入らない相手を殺します。あの人は篠目先生の死を聞いて、笑っていたような人ですよ!」

 金代は手で口を覆い、それから机に手を付き、肩を震わせていた。要は金代が衝撃で泣きそうになるのを堪えていたのかと思っていたが、彼女が堪えていたものは涙ではなく、だったらしい。

「貴方にとって篠目先生は道を同じくした、友人でしょう! 名前で呼び合うほどの、友人だったのでしょう! いい加減自分が道を踏み外したことに気付け、そうでないのならば、! 貴方は、鹿なのか!」

 宗方は篠目秋則のことを、秋則と呼んだ。そして篠目秋則からのメールは、宗方のことを克郎と書いていた。

「篠目先生は! 先生は、最後まで先生だった! あの人は、自分すら葬って、それで川辺の命と心を守ろうとしたんだ!」

 篠目秋則について話を聞きに行ったとき、宗方は彼の過去や、そして部屋の中のことまで知っていた。それはつまり、過去のことを話す仲であり、部屋に上げるほどの仲であったということでもある。

「友人の死も、教え子の苦しみも、何もかもすべて踏み付けて、無駄にして、貴方はそれでも金代先生を取りますか! 金代先生が川辺を殺すかもしれないと危惧をして、秘密を抱えたまま死を選んだ篠目先生のことを、踏み付けますか!」

 蒼雪の鋭い言葉は、激昂とは違っている。ただ鋭く宗方に突き立てられ、彼を追い詰めていくためだけのものだった。

「そもそも先生は、金代先生が平成の透明人間だと知っていたはずだ! 篠目先生が貴方を訪ねた後、貴方も気付いたはずだ! 被害者と塾と、金代先生との関わりに! そうでなければ篠目先生が死んだ後に、平成の透明人間が死んだという噂話が流れるはずがないんですよ。貴方が噂を流さなければ、そんな噂は流れないんです。なぜなら自殺したのが篠目秋則という平成の透明人間の疑惑があった人物だということを知っているのは、警察と、花園はなぞのと、貴方だけだった!」

 ホワイトボードの前から、宗方は動かない。けれど泣きそうな顔で宗方を見ている兼翔の顔を見て、それから蒼雪の視線を受けて、そして彼は、深く息を吐いた。

「……すまない。川辺君。本当に、すまない」

「宗方、先生」

 かつりと、音がする。宗方が蒼雪の前を通り過ぎ、兼翔の前で視線を合わせるようにしゃがみこんだ。

「先生だけが、俺の味方だった。六年生のとき、篠目が言ってたことは分かってた。でも俺はそれを聞きたくなくて、反発して、宗方先生は『お前は才能があるんだから、もっとやって大きな人間になれよ勿体ない』って。親は俺を晴翔はるととばっかり比べてきて、俺が医者になることなんて期待してなくて、でも、宗方先生だけが俺に期待してくれたんだ」

 兼翔の家は、医者の家系だという。けれど兼翔は、医学部医学科でない私大へと浪人して進学した。高校に上がるときに躓き、そのまま坂を転がり落ち、這い上がれないままでいるのかもしれない。

 けれどそうして転落した自分を奮い立たせる言葉が、彼にもあったのだ。

「あんただけが! 俺にとって、味方だったんだ! ずっと、ずっと! 俺には才能がある、やればできる、それだけが支えだったんだ!」

 宗方の言葉だけが、彼を支えた。たったそれだけが、彼が立ち上がるための杖だった。

 彼らは当時、十二歳だった。まだ成熟しきらないやわらかな心のままに、彼らは中学受験という戦いに挑む。そのやわらかな心はきっと乾いたスポンジのようなもので、やさしい言葉も厳しい言葉も、きっと吸い込んでいったのだろう。

 それは、宗方の言葉であったのかもしれないし、あるいは、篠目秋則の言葉であったのかもしれない。それから金代の言葉も、誰かの心に染みたのかもしれない。

「宗方先生、金代先生は、家ですか」

「ああ……」

 兼翔が崩れ落ち、とうとうすすり泣く声が上がった。宗方はそっと兼翔の背中に触れ、落ち着けるかのように撫でている。

 蒼雪はそんな彼らに視線を投げて、そのままポケットからスマートフォンを取り出し、耳に当てる。

「もしもし、三砂みさごさん。はい、俺です。自宅だそうです、はい。三十分後で、お願いします」

 通話を切った蒼雪が、窓の外を見る。大きくて丸い月が昇り、月明りが教室の中には差し込んでいた。

 ここはかつて、篠目秋則と宗方とが、生徒を教えていた場所だ。彼らが同じ方向を向いて、そして生徒と向き合っていた場所だ。

「川辺、警察ではきちんと、本当のことを言うんだ。そうしないと、宗方先生も困ることになるから。分かったな」

「分かってる」

 兼翔がぐいと涙を拭って、立ち上がる。

「宗方先生、川辺を連れて一緒に警察へ行ってください。川辺に、自首させてやってください、宗方先生が促したという形で。三十分以内に、金代先生が捕まる前に。それから、金代先生が犯人であるという証明のために、最大限話をしてください」

 宗方が兼翔の背中を押しながら、教室を出て行く。彼らの姿が見えなくなって、蒼雪はまた窓の外を見ていた。

 篠目秋則は、この窓から落ちていった。後ろ向きに落ちていく彼を、宗方だけが目にしていた。

姫烏頭ひめうず、どうしてそこまで?」

「……罪は罪だ。その理由を他人のせいにすることはできない。罪を犯したのは紛れもなく、自分なのだから。けれど他人に乗せられてしまったものまで、その重さで背負うことは、川辺にとって酷だろう。自分で選んだわけではない罪まで、背負うことは酷だろう。篠目先生も、それを避けたかったはずだ。だから、花園に遺書を送ったんだ――多分、俺や、国崎くにさきが動くことも、期待して。川辺の罪が少しでも軽くなるように。俺たちが真犯人に辿り着かずとも、宗方先生に会いに行って、そうすれば宗方先生が自分が道を踏み外しているのだと、気付くと信じて」

 自首をすれば、軽くなるものがある。世の中には、情状酌量という言葉もある。篠目秋則は自らの死によって、平成の透明人間に光を当てようとした。彼にとって希望になったのであろう弘陽こうように遺書を送り、それが光になることを期待した。

「篠目先生はきっと、もう誰も死なせたくなかったんだ。自分で終わりに、したかったんだ。けれど俺は、先生に……死なないで、欲しかったよ」

 十二歳のときに花を咲かせることができず、けれど長い冬に耐えるようにして枝葉を伸ばし、蕾をつけ、そしてようやく花を咲かせた。

「今ぞ知る。御裳濯川ミモスソガワの流れにハ。波の底にも都ありとハと」

「それは?」

「波の底に沈むはずで、けれど浮かんだ。建礼門院けんれいもんいんはひとり、壇ノ浦だんのうらを生き延びた。母も子供も兄弟も親類もすべて、沈んだというのに。自分ひとりだけが、源氏の兵に引き上げられて、命を長らえた。この演目は『大原御幸おはらごこう』という。建礼門院が淡々と平家一門の最期を――我が子の最期を、語る」

 篠目秋則は自殺を選んだ。彼は秘密を抱えて、兼翔を死なせないために、宗方が道を踏み外していることを知らせるために、彼岸花の中へと落ちて沈んだ。

 兼翔と金代は、罪へと沈む。

「宗方先生だけひとり、取り残されたのか」

 彼だけが、たったひとり。宗方にこれから待つであろうことを想像して、けれどそれを振り払うようにして要は首を横に振る。

 これは、一人目から六人目まで。七人目、要の姉を殺した犯人の姿は、未だどこにもない。未だその犯人は透明で、本物の平成の透明人間の影の中に隠れたまま。

 潰れた白い箱、三切れのショートケーキ。要が食べられないそれを、どうして姉は持っていたのだろうか。

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