2.『恥』

「平成の透明人間は俺だ!」

「いいえ、違います。他人の罪を自分が背負えるだなんて、肩代わりできるだなんて、そんな傲慢がまかり通るわけがないでしょう。他人の罪を奪えるなどと、そんなことは有り得ない。罪は罪、何があろうと、犯した人間の手の中にあって、その人間にしか背負えない。それを奪おうとするなど、それは決して相手のためでも何でもない。貴方が自分の心を満たしたいだけの自己満足ですよ」

 誰かを庇うことは、確かにある。

 その誰かが大切であればあるほど、庇いたくなるものだろう。

 けれど事実として、していないことをしたことにはできないし、したことはしていないことにはならない。現実というものは、過ぎ去ったものは変わらないものだ。決して変えられないものだ。

 犯した罪は、覆らない。そこにどんな理由が、あったとしても。罪がなくなることはないし、誰かが代わりに背負えるものでもない。

「二人目、新野頼しんのより校、二〇一八年当時は二十一歳。つまり、十一年前。三人目、皐ヶ丘さつきがおか校保護者、娘は十二歳で現在皐ヶ丘校に通塾中。ただしその姉は現在十五歳で、このときは転居前で赤根あかね校に通っていた。つまり、三年前。四人目、小木綿おぎわた校、二〇一八年当時は二十歳。つまり、十年前。五人目、日向西ひゅうがにし校保護者、息子は現在十七歳。つまり、五年前。六人目、赤根校保護者、娘は現在十六歳。つまり、四年前」

 その校舎の名前を、かなめ宗方むなかたの口から聞いた覚えがない。宗方は蒼雪そうせつたちが小学校五年生のときに皐ヶ丘校に異動となり、二〇一九年の四月に長山ながやま校に異動になるまでそこにいた。十一年前や十年前はともかくとして、四年前や五年前は宗方は皐ヶ丘校にいて、他の校舎の生徒を教えられたはずがない。

「誰一人として、貴方の教え子がいないんですよ、宗方先生。彼らは全員――」

「止めなさい! 無作為に選んだだけだ! 教え子がいないのは俺への疑いを避けるためでしかない!」

「いいえ、止めません。俺は、正しい解を得る。正しい解を得るからこそ数式は美しいのだと、俺は篠目ささめ先生から教わりました。これが無作為であるはずがない。必ず何か理由があるはずだ。犯人が先生であるのならば、塾への恨みというのは当てはまらない。ならば個々に何か理由があるはずだ」

「俺で良いだろう! 俺は俺を評価しない会社を恨んでいる!」

「良くありません。どうして罪を犯していない人間が、罪を背負うなんてことがまかり通ると思いますか。そして先生は教室長になっているのに、何を言っているんですか? 評価、されているではありませんか。貴方がそんな風だから、篠目先生は死んだんですよ。貴方の、目の前で。わざわざ貴方を呼び出して」

 兼翔けんしょうは椅子に座り込んで、背中を丸めて俯いている。声を荒げる宗方に対して、蒼雪はただ淡々と言葉を連ねた。

「そもそも、平成の透明人間の犯行時刻は午後八時以降、十時ごろまで。皐ヶ丘校は授業が午後十時まで。まず宗方先生は被害者を刺すことができません。どうやって包丁を持って、校舎を出て、被害者を刺して戻って来られるんです?」

 授業中に少し抜けて行ってくるのは、不審がすぎる。まして包丁を持って校舎を出て、駅へと向かう途上の路地裏で被害者を刺し、そして戻ってくることは不可能だろう。

 殴ったのは兼翔だとしても、刺したのは宗方以外のということになる。そして宗方はそのを、庇っている。

「五年生の頃までは、宗方先生も篠目先生と同じように、国崎くにさきのお父さんに話をしたり、花園はなぞのを応援したりしていました。けれど貴方は六年生の夏頃を境に変わってしまった。川辺かわべをいさめることもなくなり、お前はそのままで良いよなんてことを言うようになって、そしてこの前話を聞きに行ったときには『目立たない子は忘れてしまう』だとか、上位でない子を諦めようとしていた」

 今の宗方は好きではないと、蒼雪は言っていた。

 宗方は変わっていった。蒼雪が「嫌いではない」と称した彼から、「好きではない」と称する彼に。

「六年生の夏、何があったか。急に宗方先生は洒落しゃれた恰好をするようになり、川辺が囃し立てたように、金代かなしろ先生と付き合い始めた」

 宗方は今も、金代と付き合っている。結婚の約束をして、金代とは一緒に暮らしてもいる。付き合い始めたことによって変わったのならば、未だ付き合っているということは、宗方は変わったそのままなのだろう。

「川辺、君は三月二十四日、染井そめいを殴った後に、誰に会った」

 兼翔は黙り込んで、俯いている。

「川辺」

 蒼雪がもう一度、彼の名前を呼んだ。のろりと顔を上げた兼翔の顔を、蒼雪がいつもの目でじっと見ている。

「川辺君、言わなくて良い」

「いや、正直に言え。川辺、君は……

 兼翔がひとつ瞬きをし、ほんの少しだけ彼の腰が浮いた。

姫烏頭ひめうず!」

「……金代に、駅で会った。どうして良いか分からなくて、校舎の方に行ったり、駅に行こうとしたりして、結局駅に行って。浮かんだのは宗方先生だけで。金代なら宗方先生の連絡先、知ってると思ったから。そしたら金代、連絡先は教えられないけど、皐ヶ丘でアルバイト募集してるから履歴書送ってみたらって。だから、俺、履歴書送って。そしたら怪しまれずに宗方先生に会えると思ったから」

 染井一穂かずほを殴ってしまい、おそらく兼翔は染井一穂がそのせいで死んでしまったと思ったのだろう。呼吸を確かめたりすることもなく、倒れて動かなくなった染井一穂を見て、自分のしてしまったことの重大さに気付いて逃げ出したのか。

 彼が報道を見たかは、分からない。けれど見たのだとすれば、驚いたことだろう。何せ染井一穂はのだから。

 俺のせいではないと、そう思いながら彼は怯えていたのだろうか。お前が殺したと、そう言われることを。

「そのときの金代先生は、どんな様子だった。何を持ってた」

「様子?」

 兼翔が宗方の顔を見る。緩慢な動作でゆらりと立ち上がり、宗方と、蒼雪とを、ゆっくりと交互に見た。

 口を開け、そして閉じ。何度も何度も繰り返し、ようやく兼翔は言葉を絞り出す。

「金代、すっごい機嫌良かった。あいつほら、機嫌で授業の様子違ったし。あれ、機嫌の良いときの金代だった。校舎行く前に駅で会った時は、一穂が篠目先生に会いに行くって言った瞬間に、すっごい機嫌悪くなってたのに。持ち物は……ホームセンターの袋、ビニール袋持ってたけど。でも、袋のわりに、中身少なかった気がする。あと何でか……上着をその袋に、入れてたな」

 機嫌の良し悪しで態度が変わるということを、蒼雪も以前口にしていた。

 彼らが駅で金代に会い、そして彼女は機嫌が悪くなった。そして兼翔は染井一穂については行かず、路地裏で待ち、そして戻ってきた染井一穂をそこにあったブロックで殴ってしまった。

 そして彼がそこから去り、どうするかを迷い、駅に戻ったときには金代の機嫌は良くなっていた。

「宗方先生、もう、良いでしょう? いつまで庇うおつもりです?」

 恋。

 恋とは人を、狂わせるものか。それしか見えなくするものか。その人のどんな罪でも代わりに背負おうと、そこまでしてしまうようなものか。

「平成の透明人間は、川辺を利用した犯人は――金代先生、そうですよね?」

「違う!」

「違いませんよ。そこまで恋とかいうものに狂いましたか、宗方先生。他の先生のことは呼び捨てにするのに、宗方先生だけは先生と呼ぶ川辺を、これ以上宗方先生のふりをした金代先生に、良いように使わせる気ですか?」

 兼翔は篠目秋則あきのりのことも、金代のことも、呼び捨てにした。けれど彼のことだけは、どんなときでも宗方先生と呼んでいた。

 他の誰のことも先生と思わなくても、兼翔にとって宗方だけは、宗方たった一人だけはずっと、先生だったのだ。

「川辺は、味方は宗方先生しかいないと言うほどなんです。小学校六年生で合格を手にしたとき、自分が一番懐いていた、信じていた、宗方先生だけは信じるんです」

 偽りのメールを信じ、それに従い。

 保元ほうげんの春と、壽永じゅえいの秋。もっとも輝かしい瞬間に、合格を手にしたときに、誰が自分を見ていてくれたかを考えたとき、兼翔にとってそれはきっと宗方だった。

「そんな川辺に、これ以上犯罪を重ねさせるつもりですか。貴方は教師だ、おとなだ、俺たちを教え導いた人だ」

 おとな。

 おとなとは、何だろう。成人を迎えれば、おとなになるのか。どこかの会社に勤めたりすれば、おとなになるのか。

「被害者はすべて、金代先生の教え子です。金代先生は二〇一八年から二〇一九年の平成の透明人間の犯行期間は赤根校で、毎日のように皐ヶ丘校へ宗方先生を迎えに行っていたそうですね」

 平成の透明人間の犯行時間は、午後八時から十時まで。皐ヶ丘校の授業の終わりは午後十時。そこにいる宗方を迎えに行くのであれば、午後十時過ぎごろまでに皐ヶ丘校に着いている必要がある。

 つまり金代は平成の透明人間の犯行時間、常に駅から皐ヶ丘校の道の途上にいる。使う駅は皐ヶ丘か八巻か、それはどちらでも構わない。

「金代先生の教え子であれば、簡単なんですよ。染井や俺や川辺は気付いていましたが、あの冷たさや機嫌による授業の差異に気付かなければ、人気のある良い先生です。実際、深山は俺が言うまで気付きませんでした。皐ヶ丘に俺がいたときも、いつも生徒に囲まれていた覚えがあります。そして、生徒保護者からの信頼も厚い」

 先生が言うのなら。

 そうやって信じさせることもできるだろう。その信頼がどの程度のものか要には分からないが、蒼雪や弘陽こうよう悠馬ゆうまが篠目秋則について語る様子や、兼翔の宗方への様子を見れば、彼らにとって大きな存在であることは想像に難くない。

「しかも、金代先生は周到でした。皐ヶ丘駅と八巻駅の防犯カメラ、少し調べてもらったんです。そうしたら、映っていましたよ……何度となく被害者と接触している、金代先生が。そうして時間帯や使う駅、通る道、そういうものを把握した。染井を殺した時点で金代先生はもう、殺す相手を選定し始めていたんでしょう。皐ヶ丘駅や八巻駅を利用していて、かつ、

 笑顔の下で、誰かを殺そうと考える。

 ふと、樹生の言葉を思い出した。孤独で、怒りを抱えた人間。果たして金代は、それに当て嵌まるのだろうか。宗方という婚約者がいて、一緒に生活までしていて、それでも彼女は孤独であったというのか。

「それから……そうすれば、ターゲットの警戒心も薄れる。もっとも、最初からそれほど警戒心なんてなかったでしょうけれど。毎日使うんですよ偶然ですねと繰り返し、自分と会うことを日常の中へ溶け込ませる」

 金代に会うことが当たり前になった彼らは、そこに潜んでいる非日常と悪意に気付かない。そもそも金代が悪意を持っていることに気付けない。

 目の前にいる人が、教師が、自分を殺す日を計算して、虎視眈々と狙っている。そんなものに思い至れる人がいるだろうか。

「そうして仕上げは、路地裏への誘導。話を聞きたがっている教え子が、あるいは皐ヶ丘校に用事あるの教え子が、道に迷っているようで探している。けれど路地裏に入り込んでしまったようで分からない。困っているので手伝って貰えないだろうか。そんな風にお願いをされたら? 当然彼らにとって金代先生への評価は良い先生です。偶然再会して日常的に会うようになったその先生が頼めば、彼らは親切心を見せるでしょう」

 その親切心が、自分を殺すとも知らないで。

「川辺、路地裏に来た被害者たちは揃って君に、ついてくるように言ったのではないか? そうすれば人は簡単に、君に背中を向ける」

 お世話になった先生が困っているから。そういう理由で人を動かすことは難しくない。見ず知らずの人間が困っていても、必ず助けるとは限らない。けれど顔を知っていて、自分が、あるいは自分の子供が世話になった先生であれば。

 もしもその信頼を、金代が悪用したとすれば。被害者たちを操ることに、その信頼を使ったのだとしたら。

 彼らはきっと兼翔を、金代の言っていた困っている教え子だと思ったのだろう。そして足を止め、声をかけ、ついてくるように言って背中を向ける。

 そうすれば、兼翔が彼らの頭を殴ることは簡単だ。

「犯行は常に新月の日、薄暗い路地裏は、いつも以上に誰が何をしているのか分からない。けれど被害者は警戒しなかった。新月の日を選んだのは万が一のときに自分の姿を見づらくするためでしょう。何せ金代先生は、他人からどう見えるかを気にする人ですから。それから――もしかすると、宗方先生に罪を被せるのに使えると思ったのかもしれませんね。貴方は、理科教師だから」

 どこまでも身勝手で、そしてどこまでも周到だ。他人に罪を被せるために、自分はそれを踏みつけて一番であるために。

「皐ヶ丘校から駅までの途上ということは、駅から皐ヶ丘校までの途上でもある。駅のところでターゲットと接触して、頼めばいい。事前に約束をしていたか、偶然を装ったかは分かりませんが、偶然を装うのは簡単ですから。毎日利用する駅ならば、通過する時間は何かない限りほとんど変わらない」

 もしかして金代先生ですか。そんな風に、被害者は声をかけたのだろうか。それが金代の狙いであるということに、気付かないままに。

「そもそもすべて新月の日というのもおかしな話ですよね? もしも月の満ち欠けと時刻の知識が少しでもあるのならば、すべて新月の日に揃えたりしない。俺なら、もっと別の日を混ぜる。三日月でも、上弦の月でも、下弦の月でもいい。犯行時刻に月が出ていないようにするためなら、別に新月に拘らなくて良い。すべて新月だからこそ、俺は宗方先生を容疑者から外しました」

「姫烏頭、もう、本当に、止めてくれ」

「嫌です」

 宗方の懇願するかのような言葉を、蒼雪は迷うこともなく踏み付ける。

「ターゲットはすべて、金代先生にとっての『恥』なんですよ。最難関校を受けてくれなかったとか、偏差値は足りていたのに最難関校に落ちたとか。生徒が拒否した場合や特に理由のない場合は生徒本人、親が原因で落ちたり、親が受けさせなかった場合は、親。国崎も該当者ですが、国崎がそこに入らなかったのは、川辺と顔見知りだからですね。ただ川辺に殺させて自分は手を汚さないのではなく、最後に自分が刺したのは……染井と同じように、しなければならなかったから。それから、殺すところまで川辺にさせて、失敗することを恐れたから」

 連続殺人にするために、同じように殺した。そうすれば必然、疑いの目は染井一穂が殺されたときに容疑者となった篠目秋則に向くことになる。

「染井を殺したのも、金代先生です。篠目先生にはわざわざ会いに行くのに、金代先生には会いに行かない。しかも当時から染井は、金代先生が好きではなかった。金代先生は自分のことが嫌いな生徒は嫌いですから、腹立たしかったことでしょう。染井が金代先生にしてみればであったからこそ、赦せなかった」

 当時から金代の中に降り積もっていた染井一穂への腹立たしさは、篠目秋則にだけ会いに行ったことによって、殺意へと変わった。

「金代先生の暴走とも言える犯行は、ある意味で不幸な偶然からでしょうね。当日休みを取っていた彼女は、二ツ宮ふたつみや校に行く染井と川辺に会い、自分には報告に来ない染井に怒りを覚えた。、と」

 それはあまりにも、傲慢な話ではないのか。受験は生徒がするものであって、当日教師が手を出せる部分は何もない。当日はもう、生徒は孤独だ。それは要も、高校受験や大学受験で思い知っている。

 知っている人間がいても、いなくとも。周囲から聞こえてくるのは、筆記用具を動かす音。自分の手が止まったとしても、筆記用具の音がき立ててくる。

「そして、ホームセンターの帰りに、金代先生は倒れている染井を見てしまった。きっとその時まだ染井は生きていて、金代先生はその染井を刺した。ちょうど、ホームセンターで買ったばかりの包丁で。ただそこから凶器を持って行くわけにもいかない。だから染井のときだけは、その場に凶器があった」

 染井一穂が殺されたのは、まだ明るい時間帯だった。突発的な犯行では、凶器をどうにかして持ち帰ることもできない。

 だから、染井一穂の現場にだけは、凶器が残されていた。新品の、買ったばかりの包丁だ。

「その後川辺に会い、おそらく金代先生は染井を誰が殴ったのかを察した。そして、川辺を利用することを思い付いた。宗方先生なら助けてくれると愚かにも信じている川辺を利用して、自分にとって恥となる人間を、一番でいるために要らない人間を、消すことを思い付いてしまった。もっとも染井を殺した犯人として疑われたのは、思惑と違って篠目先生でしたけど。宗方先生、金代先生は、染井のことをと言いました。殺されたと言わなかった。彼が平成の透明人間に殺されたことを、知っているのに」

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