5.K

 二月十四日、蒼雪そうせつが指定した場所は、電車を二つ乗り継いで行った先にある、八階建ての廃ビルの五階だった。ビルの周辺は閑散としており、店もコンビニくらいしかない。廃ビルの前には今となっては見かけることも珍しくなった、電話ボックスがある。

 防犯カメラらしきものは設置されているものの、ランプがついていたりはしないことから、もう動いていないのだろう。管理している会社は、使っていないビルの防犯カメラを稼働させておく意味はないとしたのだろうか。

 五階へと非常階段で上がり、蒼雪に言われていた場所へと入る。埃っぽい室内は床だけは綺麗で、ブラインドもカーテンもない窓は開かれていて、風が吹き込んでいた。

 蒼雪は窓際に立ち、外を見ていた。かなめが到着したときには既に兼翔けんしょうがいて、彼は落ち着かない様子で、室内の机と机の間をうろうろと歩き回っている。

 室内には床に固定された机と椅子、それからホワイトボード。もう使われていないそこは片付けられないままの教室といった様子だ。

川辺かわべ花園はなぞの国崎くにさきに本当のことを伝えるかは、君が決めろ」

「何を……言ってんだ」

「俺は今日ここに、花園と国崎を呼んでいない。彼らが知りたいのは真犯人が誰かではなく、篠目ささめ先生が犯人かどうかだ。だから川辺とあと二人をここに呼んでくれと、それだけを頼んだ。もっとも、国崎は勘付いているかもしれないが」

 要がここにいるのは、第三者がいた方が良いという蒼雪の判断だった。君も一応は関係者に見えるからなと、そんなことを言って。

 かつりと、硬い踵が床にぶつかるような音がした。教室の入口に立った影は、ひとつしかない。

「来るかどうかは賭けでしたが、貴方は来ると思いましたよ。でも、思った通り、貴方しか来ませんでしたね。一緒に行こうとは誘わなかったんですか? 婚約までしている相手だというのに」

 影は、何も答えない。兼翔はその姿を見て、ただ顔を青褪めさせていた。

「篠目先生は貴方が道を踏み外したことを知り、貴方を止められなかったことを知り、その真実を花園にだけ遺書として送って、秘密を抱えたままこの窓から沈んだ」

 篠目秋則あきのりは廃ビルの五階から落ちていった。それは本当に、自殺だったのだろう。もう今は彼の影も形もない。彼は秋にはこのビルの周りに咲いていた彼岸花の中に沈み、そして息を引き取った。

 これはすべて、僕の不徳の致すところでしょう。

 あの遺書にあった後悔はつまり、Kを殺す引き金となった言葉を突き付けてでも、道を外れた友人にそれを気付かせることができなかったことか。口を閉ざし、抱え、そのままに沈む自分を悔いたものか。

「篠目先生はきっと、貴方に期待していたのでしょう。けれど貴方は、その期待を裏切った。道を踏み外していることに、自分で気付かなかった。あるいは、気付いていながら目を背けた」

 きっと、気づいて欲しかった。

 もしも篠目秋則が、「知っているぞ」と告げたのならば、何か違っていたのだろうか。

「見るべきものはすべて見た。篠目先生の見たくないものはきっと川辺と、そして貴方の、二人だった。先生は期待していたから、先に貴方に会いに行った。貴方が気付いてくれることを願って。けれど一年近く待っても、貴方は何もしなかった」

 どうか、どうかと。それはどこか、祈りにも似ていたのかもしれない。けれど突きつけさせないでくれと、明確にことばにしなかったのは、きっと篠目秋則のだった。

 だからこそ彼は遺書にこう書いた――すべきことを怠った、と。

「だから先生は、死を選んだ。死ぬしかなかった。もう道を踏み外したことを気付かせるには、自分の死しかないと察した。川辺を、守るためにも。川辺が殺されることや、自殺してしまうことを防ぐためにも。あるいはすべての罪を着せられて、犯人に仕立て上げられることを防ぐためにも」

 川辺兼翔は、平成の透明人間ではない。けれど彼は、関わってしまった。その罪の一端を担ってしまった。

「先生が真実に辿り着いていることを知れば、透明人間は間違いなく川辺を身代わりにしたでしょう。それほどに、透明人間は周到でしたから。それを防ぐためには川辺の前で、真実を暴く必要がある」

 姿の見えない透明人間はきっと、自分が危うくなれば兼翔にすべての罪を被せたことだろう。

「そして願いを託す先を、遺書を託す先を、川辺の同級生であり、貴方の教え子であり、先生にとって希望を見出す存在であった花園に決めた」

 小学校六年生は、目先に合格というものを見ている。その向こうを見られず、その目先の合格にだけ囚われて、それではきっと木瓜ぼけは咲かない。

 きっと、弘陽は咲かせた。悠馬も、咲かせたと言えるのかもしれない。

 合格のことを、桜咲くと称することがある。けれど春に咲いた桜の花はいずれ散る、秋の紅葉と同じように。

「ここは、貴方と篠目先生が、一番最初に配属された校舎。移転によって十年以上前に閉鎖され、そのまま放置された場所。この校舎は名前を小社こやしろ校といって、ビルの二フロア分の小さな校舎だった」

 取り壊されることもなく、ひっそりと静かに、ここに取り残された。

「この校舎にいたときの貴方は、道を踏み外してはいなかった。けれど貴方は、道を踏み外した。この身ハカロイタヅらに。戀のヤッコに成り果てて――そう、つまり、貴方が篠目先生にとってのKだった。恋によって道を踏み外した、Kだった」

 夏目漱石なつめそうせきの『こころ』において、「先生」とKは友人であった。けれどKは、そして「先生」は恋の果て、道を違え、踏み外し、そして命を絶ってしまった。

 影が、揺らいでいる。教室内に踏み込んでくることもなく、ただ入口のところで立ち尽くし、ゆらゆらと。

 蒼雪が人差し指を、真っ直ぐ影へと突き付ける。

 二月の満月のことを人は、スノームーンと呼ぶという。窓の外に、満月から少しだけ欠けた二月の月が昇る。今年は暖冬で、雪を見た覚えもない。

 それでも二月の満月を、変わらずスノームーンと呼ぶのだ。かつてあった雪が、そこにないのだとしても。

 かつてあった同じ道がなくなったとして、それでも篠目秋則は、彼を友人であると信じたのだろうか。

 蒼雪が示す先には、男が一人。


「そうでしょう――宗方むなかた先生」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る